2015/01/31  

竹田の家具【たけだのかぐ】

 

竹田の家具【たけだのかぐ】
家具づくり

家具づくり
兵庫県の特産品に指定

●木地師の心を今に伝える
朝来市和田山町竹田の木工業の歴史は、およそ400年前、時の城主赤松広秀が漆器作りを奨励し、神子畑に住んでいた木地師を呼んだのが、はじまりと言われています。「家々はシブの仕入れや竹田椀」と詠まれ、隆盛を極めましたが、陶器の発達により、天保(1829~1841)の末期頃から、木製家具の生産技術を導入し、幾多の変遷を経てきました。さらに、昭和30年頃から婚礼家具を主体とした生産に取り組み、機械化による経営の近代化を図りながら発展してきました。

家具づくりの技術は徒弟制度で、いわゆる弟子入りによって受け継がれてきました。竹田の家具が誇る「手作りで個性的」といった特長は、厳しい修行で培われた確かな技術と、職人としてのこだわりがあって生まれたといえます。むかし木地師たちが単に生計に木工製品を造るだけでなく、木に対して崇拝の念ともいえるほどの愛着を持っていたことに似ています。

近年、時代の流れから家具の製造販売ルートは、卸向けの大量生産から小売りへと転換し、直接お客様と対話をしながらの家具づくりへと変わってきました。婚礼家具だけでなく、住宅産業向けの特注品をつくることもあります。竹田の家具の強みは、多様化するお客様のニーズに合わせてつくり、アフターサービスも、職人自身が行うなど、小回りのきくところにあります。
兵庫県の特産物にも指定されるその技術と実績は、伝統を守りながら、さらに次の時代に向けて、独創的で新しい家具づくりをめざして、木と人の心地よい関わりを育み続けています。

2015/01/31  

浜坂針【はまさかばり】

 

浜坂針【はまさかばり】
針
針屋
針屋

●200年の歴史に培われた技術
(ぬい針・レコード針・特殊針)

新温泉町(旧浜坂町)で針の生産がおこなわれ、市場(京阪方面)へ売られるようになったのは享和2年(1802)のことで、浜坂針の元祖は、市原惣兵衛(いちはらそうべえ)といわれています。惣兵衛は、安永元年(1772)に生まれ、23歳の時、長崎に留学し長崎の針職人2名をつれて帰り、唐縫針を生産したのがはじまりとされています。
天保10年(1840)には北陸へ販路をもち、幕末から明治の中期には、針金屋(鉄線材生産者)4軒、線引屋(伸線加工業者)約20軒、針師親方(縫針業者)約80軒、下職(針師の職場で働く者、及び自宅で作業をする者)、針問屋(販売者及び原材料と製品の販売を行う者)数名を数えるほどになり、有力な産地が形成されました。
しかし、その後、明治30年~昭和10年頃にかけて浜坂の線材業と伸線業は廃業となり、生産は問屋制家内工業へと移行していきました。 昭和26年当時には、製針工場は13を数え、年間約7億本の生産をするまでに発達してきました。平成13年現在の製針工場は4軒となりましたが、縫針、レコード針、各種ピン等多様な製品の製造には、長い期間をかけて培われた針を造る技術(先付け、穴あけ、熱処理、プレス加工等)によって支えられてきたものといえます。

2015/01/31  

製畳【せいじょう】

 

製畳【せいじょう】
●わら縄~畳床~新たな需要を求めて
豊岡市日高町では、昭和の初めごろから、「わら縄製品」の生産が盛んになり、第2次大戦後も荷づくり縄を中心に専業者が増加しました。昭和30年代に入ると最盛期を迎え、事業所数が20、農協を販売窓口として年間67,500トンの生産を記録しました。

しかし、昭和35年ごろ、丈夫で、わらのようにクズも出ず、荷づくりしてもかさばらないビニール製の縄が出現したため、わら縄は数年のうちに市場から姿を消すことになりました。
その後、わら縄に代わって製造されるようになったのが「畳床」です。畳床には、わら縄と同じく、わらの周りのやわらかい部分(ハカマ)を大量に使います。昭和38年、奈良県の業者の紹介で、豊岡市日高町の縄メーカーが畳床製造業へ進出したのを皮切りに、豊富な稲わらを原材料とした畳床製造への事業転換が相次ぎました。加えて40年代の高度経済成長、内需拡大のための住宅着工促進という国策が追い風となって、順調に伸びていきました。
豊岡市日高町の畳床は、マンションや建売住宅向けのウエイトが高いため、業界では機械設備を充実させて、大量生産体制を備えることに努めています。その一方で、熟練した職人を養成して「畳」(完成品)を製造している業者もあり、それらの業者は、日本古来の和風畳の製造においても品質の良さで群を抜いており、県内外から高い評価を受けています。畳床(完成品を含む)の生産量は、県下の約40%、但馬内の約80%を占め、豊岡市日高町が誇る地場産業のひとつとなっています。

最近の製畳業の状況をみてみると、平成12年の出荷量が前年を10~15%下回るなど厳しい状況で、現在は、ピークだった震災直後の出荷量の60%程度になっています。けれども、倒産・廃業する業者はなく、ほとんどの業者で後継者も確保されており、今後、バリアフリー住宅向けの「薄畳」(厚さ約15ミリで標準の畳の半分以下)の需要の増加が期待できるため、積極的に販売増加へ向けて取り組んでいます。

2011/11/21  

但馬牛【たじまうし】

 

但馬牛【たじまうし】
放牧
庭先
但馬牛を飼う但馬の人々は、牛を家族の一員として一つ屋根の下で共に寝起きして、雪深いきびしい風土に生き、温和で姿美しい但馬牛を大切に育ててきました。

■但馬牛博物館
・新温泉町丹土1033
・TEL.0796-92-1005
・午前9時~午後5時
・木曜定休
(休日と重なった
場合は次の平日)
・入館料/無料

●関連情報
新温泉町役場
但馬牛博物館

●記録に残る但馬牛
古事記には「天日槍(あめのひぼこ)が朝鮮から牛を伴って日本に渡来し、但馬出石に住みついた」と記されています。また、続日本書紀には、「但馬牛は、耕運、ばん用(車ひき)、食用に適する」とあり、「国牛十図」にも但馬牛の優れた体型、特徴、性質が記されるなど、但馬牛は古くから優秀牛としてその名が残っています。戦国時代、豊臣秀吉が大阪城築城の際にも、優れた役能力に「1日士分」を与え誉め讃えたといわれています。

●但馬の風土と人が名牛を育てる
現在では、使役することはなくなり、繁殖用として飼育されています。但馬牛の優れた特質は、長年にわたり、他との交配をさけ、改良に改良を重ねて受け継がれた優良な血統から生みだされました。
前田周助(1798~1872)は、香美町小代区に農家の長男として生まれ、牛飼い坊主と村人からいわれるほどの牛好きで、良牛小代牛の血統を固定し、名手を育てることに財産をつぎこみ、妻子と別れてまで熱中しました。こうして周助の生み出した牛は「周助蔓(づる)」といわれ、今の「但馬牛」の系統の基礎となりました。
また、但馬牛を飼う但馬の人々は、牛を家族の一員として一つ屋根の下で共に寝起きして、雪深いきびしい風土に生き、温和で姿美しい但馬牛を大切に育ててきました。但馬牛の血統の良さは 、神戸牛、松阪牛など、全国和牛の改良用素牛として活用されています。

●但馬牛の特徴
1.資質が抜群によい
毛味、色味、骨味が良く皮は薄く、弾力ゆとりがあり、
品位に富み体のしまりが良い。
2.遺伝力が強い
全国の和牛改良に広く活用されている。
3.肉質、肉の歩留りがよい
肉の味がよく、骨が細く皮下脂肪が少ない。
4.長命連産で粗飼料の利用性が良い
長命連産。山野草を好み、古来より
「但馬牛は、山でつくり、草で飼う」といわれています。

2011/11/21  

杞柳細工【きりゅうざいく】

 

杞柳細工【きりゅうざいく】
杞柳製品

柳行李

作業

杞柳細工(豊岡市)

・国指定伝統的工芸品

●関連情報
じばさんTAJIMA

 

●伝統的工芸品、豊岡杞柳細工の変遷

杞柳細工は、但馬の地で生まれ、但馬の風土に育まれて今日に至った伝統ある地場産業です。起源は西暦27年、日本に帰化し但馬の国を開いたといわれる、新羅国の王子・天日槍命(あめのひぼこのみこと)が伝えたという説が語り継がれています。円山川の荒れ地に自生する「コリヤナギ」で籠を編むことから始まり、江戸時代、京極伊勢守高盛が産業奨励に、柳の栽培、保護、柳の加工、柳編みの技術育成をすすめてきました。
江戸時代には、大名の参勤交代や富山の薬売り、お伊勢参りなどの際に大名から一般の人々にまで「旅行具」として利用されました。明治14年(1881)、手に提げて歩く「こうりかばん」が生まれ、42年(1909)、欧州の手法を取り入れたバスケット籠を創作しました。大正6年(1917)には、ウルシを塗り、錠前を取り付けた新型鞄が登場。特に柳バスケットは大正バスケットとして大流行しました。昭和3年(1928)には、ファイバー鞄が登場。戦時は軍用行李(こうり)と飯行李の生産、戦後は買物籠を主体に復興し、新たにラッカー塗装によるカラフルな製品が生まれました。

現在「鞄のまち豊岡」の名声のもととなった豊岡の杞柳細工ですが、最近の生活様式の変化にともない、新素材の開発、ハイテク技術による、合成樹脂・合成繊維などの鞄製品が、豊岡の地場産業として成長しています。

2011/06/22  

鞄【かばん】

 

鞄【かばん】
かばん

●関連情報
豊岡鞄協会
かばんミュージアム

●豊岡市を代表する地場産業
我が国で、かばん製造業が産業として興ったのは、明治維新前後と考えらえています。外国人の来訪とともに「トランク」として輸入されたものが「鞄」となりました。一説には、明治6年大阪の商人、山城屋和助がフランスから鞄を持ち帰り、森田直七が模倣して作ったのが日本で初めてとされています。
豊岡では、明治時代の後半、柳行李から生まれた行李鞄から発展していきました。杞柳細工の起源は西暦前27年、 天日槍命(あめのひぼこのみこと)の伝授によるものといわれ、円山川の荒れ地に自生する「コリヤナギ」で籠を編むことから始まり、江戸時代、京極伊勢守高盛が柳の栽培と加工技術を保護し、販売にも力を注いできました。
柳行李は、軽くて堅牢な生活用品の「容器」として、一般大衆に愛され親しまれてきましたが、同じ用途の革製の大型トランクが出現しても「杞柳製トランク」とは呼ばれませんでした。鞄として呼ばれるようになったのは、バンド締め行李に工夫と改良が加えてからで、豊岡市小田井の奥田平治氏が、大正6、7年頃にバンド締め行李に漆を塗り、錠前を取り付け「新型鞄」として、行李にかわって豊岡の鞄として売り出したことが最初とされています。
昭和3年頃には「ファイバー鞄」が誕生し、軽くて強靱で安価、需要も高まり、豊岡の主要産業として発展していきました。さらに、昭和28年頃からビニールテックスなど新素材を取り入れたオープンケースの生産が始まり、輸出もアメリカを中心に急激なのびを見せました。
昭和43年11月には、企業の共同化を進め近代化を図るために、九日市上町に、全国で唯一の「豊岡鞄団地」を設置、機能的な職場環境の確保や積込・運搬の効率化など一層の合理化・近代化をはかった施設として注目を集めました。昭和53年3月には、豊岡鞄会館が、中核施設として新たに大磯町に完成。
品質技術面では、品質ラベルの表示や化学品検査協会登録認定工場制度などにより品質は向上し、生産面でもコンピューターミシンなど新鋭の機械設備が導入されるようになりました。
平成3年3月には、兵庫県商工部が「豊岡鞄産地振興ビジョン」を策定し、デザイン・ファッションの自己表現化、新技術、設備への対応、販売戦略の具体的方策が示され、ファッション化と高級化にポイントを置いた商品開発を目指しています。
平成6年には、国際バッグデザインコンテストを盛大に開催し、世界中からたくさんの作品が集まりました。また、今後の鞄産業の担い手として期待される市内の中学校・高校・短大の学生を対象とした「バッグデザインコンテスト」や、市民公開講座「バッグデザインの基礎知識」を継続して実施し、デザインの高度化、新鮮な発想のオリジナル商品開発、将来の人材確保などに力を入れています。
平成17年には豊岡市内にある宵田商店街通りを「カバンストリート」と呼び、商店街店舗(衣料品店やメガネ店、クリーニング店など)で豊岡の鞄を販売しています。
また、平成18年4月には、特許庁が新たに設けた「地域団体商標制度(地域ブランド)」に出願し、県下で第1号、工業製品としては唯一「豊岡鞄」が登録認定。豊岡鞄を「豊岡ブランド」として全国に広めようという取り組みが行われています。
そして、平成21年4月(2009年)には「カバンストリート」の宵田商店街が、経済産業省の「新・
がんばる商店街77選」に選ばれました。
鞄本来の機能から進んで、あらゆる用途に対応した鞄をつくり出してきた豊岡の鞄産業は、新たな商品開発を進めながら、国内市場はもとより世界を相手に販売網を広げています。

2011/06/22  

金属バネ工業【きんぞくばねこうぎょう】

 

金属バネ工業【きんぞくばねこうぎょう】
バネ
用途も多様化する金属バネ
兵庫県の特産品に指定
●日本の高度経済成長とともに発展
但馬の地場産業の中では歴史が新しく、第二次世界大戦中に大阪市内のスプリング工場が朝来市和田山町に疎開し、工場を開設したのがはじまりです。

昭和25年の朝鮮戦乱特需以降、景気上昇の波に乗り、増大する需要に応じて、自動車、車輌、弱電産業への部品を供給し発展してきました。
昭和60年に、企業が和田山を中心にして、養父、朝来の各市にひろがって合計数18、従業員195名、生産額年間18億円余がありました。

製品は線バネ、薄板バネを中心に、つる巻バネ、重ねバネなど。出荷先、原料仕入先が、大阪、岡山、愛媛などと遠隔地にあるため、金属工業の立地には必ずしも有利ではなく、円高不況のなかで主要なユーザーである自動車、弱電機メーカーなどの海外進出と現地での部品調達方式が進行していく中で、技術力の向上、販路の拡大が重要な課題とされています。
中でも朝来市和田山町の金属バネ工業は、県の特産品に指定され、コンピュー夕用のわずか数ミリのものから、工業用の大きなスプリングまで毎日数十トン単位で生産し、東京・大阪などの工業地へと出荷しています。

2011/06/22  

但馬ちりめん【たじまちりめん】

 

但馬ちりめん【たじまちりめん】

但馬ちりめん
●優れた技術を活かして高級品の生産へ
豊岡市但東町、出石町を生産地とする但馬ちりめんは、豊岡市但東町に隣接する丹後の峰山から、1894~1817(文化)年間に移入されたのがはじまりとされています。丹後地方との通婚によって、手織り技術が容易に伝習され、この地域の湿潤な気候風土も合い、農業の副業的存在として産地化されました。
幕藩期から明治期の手機時代から、大正6年(1917)には自動織機を導入。成長を続け、昭和12年には1,344台の織機台数を数えました。これが、戦前戦後のピークで、以後、戦時下280台まで減少しました。
戦後、昭和27年、県の振興助成を得て次第に復興し、昭和35年代前半は、年平均100工場が家内工業として増加発展をしました。
しかし、昭和48年の石油危機による不況乗り切り対策として、織機の打ちこわし等を実施して生産の抑制を行い、現在、量よりも質を重視し、高級品の生産や新しい洋装部門への進出などにも取り組んでいます。
豊岡市但東町では新たな試みとして、近年、「絹ゆかた」が売り出され、注目を集めています。値段が高い、動きにくい、着付けができない、作法が面倒、などの理由で敬遠される着物を、若者にも気軽に着てもらえるようにとつくられました。絹80%、綿20%を折り合わせた生地で、絹の美しさ、高級感、着心地のよさをそのままに、一般のゆかたのように素肌に1枚だけで着られ、手入れも簡単。時代に合ったちりめんのニーズをさぐりながら、そのよさを伝え、新鮮な魅力をもつ商品開発を積極的にすすめています。

2011/06/22  

出石焼【いずしやき】

 

出石焼【いずしやき】
作業

出石焼

出石焼
(豊岡市出石町)

・国の伝統工芸品

●関連情報
NPO法人出石町観光協会

じばさんTAJIMA

●透きとおるような白磁、出石焼の変遷

出石焼の歴史は、江戸時代半ば、天明4年(1784)に、陶器を焼いたのがはじまりとされています。その後、優良な石磁の鉱脈が発見され、染め付け磁器を製作するようになりました。

天保年間に最盛期を迎え、明治初期に衰退しましたが、明治9年(1876)、桜井勉らが旧士族の失職を救済するため、有田の陶匠・柴田善平を招いて盈進社を設立し、同社からパリや東京の博覧会に出品して一躍出石白磁の名声を高めました。

明治32年(1899)から指導に当たった友田九渓は出石焼きの品質改良に業績を残し、セントルイス万国博覧会で金賞を獲得しました。昭和に入って出石に県立窯業試験場が設立され、出石焼の品質はますます向上しました。

さらに、戦後、出石焼の作品が日展の特選に選ばれるなど作家活動が盛んになり、昭和56年(1981)には、国の伝統工芸品に指定されました。

2011/06/22  

但馬杜氏【たじまとうじ】

 

但馬杜氏【たじまとうじ】
升酒

長年の知識と技術
但馬杜氏が造り出す
甘露の雫。
麹づくり
麹づくり
香りや風味の成分となる麹をつくる作業。酒つくりの中で最も神経を使う重要な仕事とされています。

●関連情報
新温泉町役場

●但馬人気質が造りだす甘露の雫
但馬では、特に雪深い地方の人たちが冬季の働き場所を求め、出稼ぎとして、全国各地に酒造りに出かけました。杜氏とは酒造りの最高責任者のことです。酒造りは杜氏・蔵人(くらびと)のグループが、新米の刈り入れの終わる10月頃から翌年の春まで、約6~7カ月の間、家を離れ、酒造会社の蔵元に泊まり込んでおこなわれます。蔵によって人数は異なりますが、数人から20人程度の蔵人がチームをつくり、杜氏の指導のもとで酒造りの作業をおこないます。「一蔵一杜氏」といわれるように、杜氏の数だけ酒の種類があるといわれています。
但馬の人は、慎重で誠実、質素にも耐えて思いやりがあり、粘り強い精神力があります。長年の知識と技術の蓄積が今日の但馬杜氏を生みだしました。

●記録に残る但馬杜氏
記録に残るものでは、天保8年(1837年)大阪でおこった大塩平八郎の乱に関連して、大和郡山にいた小代庄城山(香美町小代区)出身の杜氏、藤村某が登場します。藤村はこの地方の代表格で、城主の信頼も厚かったといいます。この時代から、すでに数多くの但馬の杜氏が地方に出かけていたことがわかります。
平成4年の記録では、全国の杜氏は1,754人、但馬の杜氏は全体の1割を占め、近畿を中心に中国・四国・北陸などで活躍していました。しかし、その数も20年前と比べると4分の1、5分の1に減少し、高齢化も進んでいます。また、冬季の出稼ぎシステムも時代にそぐわなくなってきています。最近、酒造りも機械化されてきましたが、手づくりの味の魅力は依然として重宝されています。