2015/02/10  

山名氏城跡【やまなしじょうせき】

 

山名氏城跡【やまなしじょうせき】

此隅山城跡
・豊岡市出石町宮内
・国指定史跡
●応仁の乱へ出陣、此隅山(このすみやま)城跡
山名氏は、清和源氏の出で、室町時代足利尊氏に従った山名時氏が、その功績によって山陰地方の守護大名となり、その子、時義が但馬守護職となり、此隅山に城を築きました。
山名一族は全国66か国の内、11か国を支配するほどの勢力を持ち、宗全(持豊)の頃になると、天下を二分をもする応仁の乱(応仁元年・1467年)を起こします。宗全は赤ら顔で太っ腹、毘沙門天の化身、赤入道といわれ、山名の四天王、垣谷・太田垣・八木・田結庄などの武将や遠く因幡(鳥取)備後の軍、6万6,000余騎が此隅山城に揃い、京都に攻め入ったとされています。
その後、山名氏は衰退の一途をたどり、戦国時代、織田信長(羽柴秀吉)の2万の兵による但馬征伐にあい、わずか10日間で但馬にある此隅城を含む17とも18とも言われる砦を失ってしまいました。

有子山城跡
・豊岡市出石町
●悲運要塞の城、有子山(ありこやま)城跡
此隅城を失った後、 山名祐豊(すけとよ)は、 321mの急峻な山、有子山山頂に、城を築きました。背後の南は出石川、北面には東より流れる谷山川を外壕に、北は盆地が開け、豊岡・城崎まで一望できる要害の地でした。しかし、羽柴(豊臣)秀吉軍によって再び、但馬征伐にあい有子山城はあえなく落城の運命をたどります。200余年続いた但馬守護山名氏は滅び、現在は石垣を残すのみとなっています。

2015/02/10  

見蔵岡遺跡石棒関連出土品 【みくらおかいせきせきぼうかんれんしゅつどひん】

 

見蔵岡遺跡石棒関連出土品
【みくらおかいせきせきぼうかんれんしゅつどひん】
見蔵岡遺跡石棒関連出土品
石棒関連出土品
・豊岡市竹野町松本
・県指定文化財(考古資料)●関連情報
とよおか発掘情報
●西日本初、子孫繁栄を願う石棒の出土品
縄文時代の遺跡である見蔵岡遺跡は、鎌倉時代の屋敷の下に眠っていました。ここでは、西日本で初めての「石棒」の製作地が発見されています。石棒とは、丸棒状の磨製石器のことをいい、縄文時代中期末頃に子孫繁栄を祈願してつくられていたと考えられる遺物です。この石棒や石棒未製品の出土は、近くで石材の産出地があったことを裏付ける遺跡としても重要だと考えられています。また、土器と混在して、縄文中期から後期のものを主体とする石器が669点も出土しています。石器が原材と推定される石材も一定数出土しており、中でも石棒加工具と推定される槌石(つちいし)は、この遺跡で最も特徴的な石器であるといえます。この出土品は、当時の製作技法や流通状況を知る上で、貴重な資料となっています。

2015/02/10  

但馬国分寺跡・国分尼寺【たじまこくぶんじあと・こくぶんにじ】

 

但馬国分寺跡・国分尼寺【たじまこくぶんじあと・こくぶんにじ】
但馬国分寺跡
・豊岡市日高町

・国指定文化財


塔跡の礎石


国分寺跡から出土した土器


主要伽藍復元模様型

●天平文化が花開く奈良時代、但馬国の勢力をかたむけて建立
はなやかな天平文化が花開いた奈良時代。国内は六十余国に分けられ、それぞれに国衙と呼ばれる役所を置き、都から役人を派遣して統治していました。当時、但馬は「但馬国」(生野町の一部を除く)と呼ばれていました。天平13年(741)、聖武天皇は五穀豊穣、国家鎮護を祈るため、全国六十余りの国ごとに、巨大な国分寺、国分尼寺の建立を命じ、但馬国では、但馬国府があったとされる現在の日高町に建てられました。当時建てられた但馬国分寺は、現在残されていませんが、発掘調査からいろいろなことがわかってきています。
国分寺は普通、講堂、金堂、中門、南大門が南北に並び、周囲を溝や築地で囲んであります。但馬国分寺跡では昭和48年から現在まで21回にわたる発掘調査がおこなわれ、金堂、塔、中門を確認されています。また、寺域の北東と南東の端を示す溝や築地跡の発見で、寺域が一町半(約160m)四方と一般の二町(約220m)より小ぶりだったこともわかっています。
発掘調査でもっとも多く出土している遺物は瓦で、浅く曲がった平瓦と土管を縦に割ったような丸瓦がほとんどを占めていますが、全国でも珍しい当時の釣瓶など貴重なものが出土しています。他にも、奈良・平安時代のものとしては、全国でも最大級の大井戸(縦横約170cm四方、深さ270cm)も見つかっています。この井戸に使われたヒノキの井桁材に樹皮が残っていたことから、その木を伐採した年が763年だと判明しました。
しかし、平安中期以降、律令制の崩壊とともに、しだいに衰退の一途をたどり、但馬国分寺は続日本紀の宝亀8年(777)「但馬の国国分寺の塔に震す」とあり、落雷に見舞われたことが記されています。その後、天正8年(1580)に豊臣秀吉が但馬攻略をした際に、堂を消失してしまい、のちに国中を托鉢して宝暦13年(1763)に堂を再建したことが、現在の護国山国分寺(豊岡市日高町国分寺)に残された棟札に書かれています。

2015/01/31  

桃観トンネルと石額【とうかんとんねるとせきがく】

 

桃観トンネルと石額【とうかんとんねるとせきがく】
桃観トンネル
桃観トンネル
・香美町香住区余部~
新温泉町久谷
・近代化遺産

石額
石額(久谷側)

●山陰線最大の難所に開通したトンネル
山陰線の中で最大の難所だった香美町香住区余部~新温泉町久谷を結ぶトンネルで、1911年(明治44)に完成しました。山陰線のトンネルの中で1番長く(全長1,991m)、約4年間の年月をかけ、当時としては巨費の61万円が投じられました。

この工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)で、難所工事であったため殉職者や病死した人もいました。その人々の名は桃観トンネル西口近くにある久谷八幡神社の中に『鉄道工事中 職斃病没者 招魂碑』と刻まれた石碑に刻まれています。
工事は西より東に向って上り勾配を利用して、掘削は久谷側の西口から始まりました。空気圧搾機や削岩機で掘削を進め、新鮮な空気を供給して作業を行うという、当時の技術の中でも最も近代的な工法が採用され、山陰西線(鳥取~香住)において、機械掘削の初めての試みとなりました。
煉瓦で造られたトンネルの出入り口には、山陰線の開通記念として、当時の逓信(ていしん)大臣兼鉄道院総裁だった後藤新平の筆による石額が掲げられています。久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」、余部側は「惟徳罔小(この徳は少なくない)」と刻されています。実際このような石額を掲げたトンネルは全国においても数例しかありません。

2015/01/13  

但馬の古代遺跡【たじまのこだいいせき】

 

但馬の古代遺跡【たじまのこだいいせき】
4世紀はじめから6世紀末頃までを考古学上、古墳時代といいます。大型の特色ある墳墓形式の時代で、大和政権による国内統一も進み、また朝鮮や中国大陸からの文化の流入も一層活発となってきます。但馬地方でも国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)など豪族たちの大型の墳墓がつくられました。

城ノ山古墳
・朝来市和田山町東谷

・出土品は国指定重要文化財
・4世紀後半


・唐草文帯重圏文鏡


●城ノ山古墳(しろのやまこふん)

三角縁神獣文帯三神三獣鏡が出土した大型円墳

北東に派生する狭い尾根の突端にある、南北径30m、東西径36m、高さ5mの円墳。墳丘は地山を加工・修飾して円形に整え、墳頂部に薄く盛土を行っています。さらに部分的に河原石と角ばった岩石をまじえた葺き石状の遺構が墳丘裾部に見られます。
昭和46年、和田山バイパスの建設工事に伴い全面発掘調査が行われました。埋葬部分(主体部)は8.9m×2.9mで地山を彫り込んで作られていました。中には6.43m×0.6mの木棺が安置され、遺骸は頭部を東に向けて埋葬されていました。人骨(頭骨)が残存しており、その頭部東側から銅鏡3面、石釧(いしくしろ)4個、石製合子(ごうす)1個(身のみ)、琴柱形(ことじがた)石製品1個が出土、頸部付近に点々と勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)が80個以上検出され、やや離れて棺東部に刀剣・工具類が13点余り出土しました。
また、棺西部の遺骸足部から銅鏡3面が出土しました。国の重要文化財の一つ、三角縁獣文帯三神三獣鏡は畿内の大和政権が配付したものといわれています。
これら築造形態および主体部・木棺規模・出土品などからみて4世紀末の古墳と推定され、この地方における首長層の墳墓であると考えられています。 城の山古墳では墳丘下にトンネルをつくって道路を通して保存対策がとられています。


船宮古墳
・朝来市桑市

・県指定史跡

・5世紀代

●船宮古墳(ふなのみやこふん)

5世紀代の同一水面の周濠をそなえた前方後円墳
日本最古の牛形埴輪が出土
古墳時代中期のもので全長約80m、但馬第2の大型前方後円墳で、ほぼ平坦な地形につくられ、 同一水面の周濠をそなえた前方後円墳としては、但馬唯一のものとされています。周濠は後円部側と西側にその痕跡をとどめ、東側は国道敷設による損壊をうけ、墳丘斜前方部の山頂に八幡社が造営され、また墳丘裾部も道路などにより円形状を呈しています。墳丘斜面部には、葺石として利用されたと考えられる河原石が散見しています。埴輪については円筒埴輪、壺形埴輪片や、日本最古の牛形埴輪が採集されています。後円部と前方部の比高差がなく、後円部と前方部を逆にみたり、双円墳とする説もあります。

どのような人が葬られていたかは不明ですが、氏神参道に船宮之碑には、但馬国営の「船穂足尼」の墳墓であると記されていますが、明らかなことはわかっていません。



八幡山古墳群
・香美町村岡区福岡

・県指定史跡

・5~6世紀

●八幡山古墳群(やはたやまこふんぐん)
5~6世紀、三角持送り式天井の竪穴系横口式石室

八幡山の丘陵屋根の南東に寄ったところにかたまり、かつては他に数基の古墳があったようです。この丘陵上には現在4基の古墳があり、3・5・6号墳が開口しています。構造から竪穴系横口式石室の名でよばれる石室で、特に5号墳は「三角持送り式天井」という特殊な構築方法として注目されています。石室の隅を三角にもちおくって天井部を架構していく方法は、日本全国をみても例が多くなく、源流は朝鮮半島に認められているといわれています。

また、6号墳からは多くの土師器や須恵器が出土されており、本古墳群の時期の一端をうかがわせます。5世紀末ころから6世紀前半にかけての遺物を含み、一度限りの埋葬だったとは考えにくい遺物の状況にあります。



文堂古墳
・香美町村岡区寺河内

・県指定史跡

・7世紀前半

●文堂古墳(ぶんどうこふん)
6~7世紀に継続的に形成された首長墓のひとつ

標高270mの丘陵斜面にあり、高井集落を見下ろす位置にある古墳時代後期の古墳。全長約10.2mの両袖式横穴式石室となっており、玄室の長さ4.7m、幅2m、高さ1.8mの埋葬施設を有する古墳ですが、墳丘に墓地や畑地が作られているため墳丘は不明となっています。
1948年・1970年の調査で出土した副葬品から7世紀前半に築造されたものと言われています。出土した副葬品は、金銅装頭椎大刀、馬具、刀子、鉄釘、鉄鏃、珠文鏡、勾玉、金環、ガラス玉、須恵器、土師器など多岐にわたっています。
6~7世紀の矢田川上流域では、文堂古墳以外にも高井古墳、長者ヶ平1号古墳、長者ヶ平2号古墳が作られており、継続的な首長墓が形成されてました。


三の谷壁画古墳
・香美町村岡区高井

・県指定史跡

●三の谷壁画古墳(さんのたにへきがこふん)
同じ向きに配され、描かれた2羽の鳥の壁画

三の谷壁画古墳の1号墳は、直径約10mの小円墳で山腹斜面に築造されています。羨道部には数十条の細線を刻んで、林の中に鳥が2羽静止した壁画が丁寧に磨き上げられた160cm×60cmの石に描かれています。この2羽の鳥はともにくちばしを向かって左に描かれているので、右利きの作者が描いたのではないかと推測されています。


大藪古墳群
・養父市大藪

・県指定史跡

・6世紀後半~7世紀代

●関連情報
養父市役所

●大藪古墳群(おおやぶこふんぐん)
但馬最大級の後期古墳群
但馬最大級の後期古墳群で、東西約2km、南北約1kmの範囲で、山麓の斜面に、西の岡、禁裡塚(きんりづか)、野塚3号、塚山、コウモリ塚古墳といった大型の横穴式石室を持つ古墳が先端部に位置をしめています。さらに、これらの大古墳をまもるように背後に多数の小規模な古墳が存在しています。
代表的な禁裡塚古墳の墳丘は、32mあまりのやや長円形で石室は全長12.5m、玄室5.9mの大規模なもので、残存状況はきわめて良好で、玄室には奥壁に近い側壁と奥壁の中段付近にやや赤みをおびた部分があり、赤色顔料を塗布したものではと推測されています。また、その地域の首長墓とされる古墳に副葬される装飾付須恵器の破片が出土しています。

禁裡塚古墳から真西に700mのところへある西の岡古墳はきわめて整った美しさをそなえた横穴式石室で、その全長は13.6mと大きなものです。
6世紀後半から7世紀代にかけての大型古墳で、100年あまりに4基つくられていることから、一世代に1基ずつ造営され続けたと考えられています。この地に但馬最大級の政治権力者の存在が考えられ、畿内政権の動向と似た動きがあり、おびただしい古墳群は、有力な四単位の集団が中心となって形成されたこと、この集団から盟主を選び、その連合体が後の但馬全域に及ぶ支配体制を形づくったのではと想定されます。



箕谷群集墳
・養父市八鹿町小山

・国指定史跡

・7世紀前半(630年ごろ)

・戊辰年銘大刀

国指定考古

●関連情報
養父市役所

●箕谷群集墳(みいだにぐんしゅうふん)
銘文入りの大刀や100点以上の遺物が出土
7世紀前半(630年ごろ) 築造、2号墳から3号墳まで4基の古墳が築かれている箕谷群集墳(7000平方メートル)は国の史跡に指定されています。また昭和58年の発掘調査によって発見された銘文入りの戊辰年銘大刀をはじめ箕谷2号墳から出土した100点以上の遺物は国の重要文化財に、3・4号墳から出土した遺物と1号墳は養父市八鹿町の文化財に、それぞれ指定されています。
箕谷古墳群から出土した土器から年代を推定すると、西暦630年代から650年代(TK217型式後半)に作られた古墳群で、推古天皇や聖徳太子の時代に活躍した人を埋葬したお墓です。この当時、但馬を支配した国造の古墳と考えられるのは、約4km東南にある養父市の大薮古墳群で、箕谷古墳群の埋葬者も彼ら但馬支配に貢献した一族と考えられています。

現在、築墳当時の姿が復元され、公園として整備されています。中でも、2号墳は天井石を一枚取って強化ガラス製の天窓を設け、そこからの光で石室の内部がよく見えるようになっています。天窓を使った古墳の整備は、全国でも初めての試みで、石室内の壁は、もともと使われていた古い石材の上に新しい石材を積んで復元されています。古い石材はもろくなっているため、撥水(はっすい)強化処理が施されています。石室の床には礫を敷き、その中央に人を型取った板を設置。人型の周りには、2号墳から出土した戊辰年銘大刀や鉄刀、矢、土器など約35点の復元品が置かれ、埋葬当時の様子が再現されています。



二見谷古墳群
・豊岡市城崎町上山

・県指定史跡

●二見谷古墳群(ふたみだにこふんぐん)
組合せ式の家形石棺をおさめる横穴式石室
組合せ式の家形石棺をおさめる横穴式石室(4号墳)で、北但馬を代表する古墳の一つです。集落をはさんだ北側にも大型の横穴式石棺(1号墳)があり、刳抜(くりぬき)式の石棺がおさめられています。
有力な古墳ですが、当時その周辺に生産力の大きな田畑がひらかれていたとは考えにくく、円山川の舟運や漁業にかかわりのある一族の墓と考えられています。

現在、古墳保護のため保存会を結成し、一帯を史跡公園として整備しています。



茶すり山古墳
・朝来市和田山町筒江
・国指定史跡
●茶すり山古墳(ちゃすりやまこふん)
直径約90mで近畿地方最大級の円墳
墳頂には東西約35m、南北約30mの楕円形の平坦面があり、その内側には円筒埴輪や朝顔形埴輪が巡り、北側 段築平坦面にも埴輪が列状に並べられていました。
特徴は棺の中に大量の鉄製品を副葬するという点で、それらの中には、襟付短甲や鉄柄付手斧・蛇行剣といった畿内限定や畿内周辺に出土が集中する、全国的にも珍しい遺物もありました。中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた首長の墓であることが確認されています。


池田古墳
・朝来市和田山町平野
・県指定史跡

●池田古墳(いけだこふん)
但馬で最大の大型前方後円墳
大型の円墳である城ノ山古墳の北西わずか100mの眼下に築造された、但馬では最大の大型前方後円墳です。5世紀前半のもので、墳丘全長約141m、前方部幅約約71m、後円部径約76m、周濠を含めると全長は約170mに及びます。兵庫県下最大、全長194mの五色塚古墳(神戸市)などに次ぐ県下4番目の規模を誇り、かなりの強大な権力を持った首長の墳墓といえます。
埴輪列や葺石が確認されており、周濠からは多量の木製品が出土しています。水鳥型埴輪23体を出土していて、1つの古墳からの出土数としては全国最多です。埴輪、葺石、楯型周溝をすべて備えた前方後円墳は、北近畿では池田古墳と船宮古墳(ともに朝来市)だけと大変貴重な古墳です。

生野鉱山及び鉱山町の文化的景観 【いくのこうざんおよびこうざんまちのぶんかてきけいかん】

 

生野鉱山及び鉱山町の文化的景観
【いくのこうざんおよびこうざんまちのぶんかてきけいかん】
八鹿駅舎
史跡生野銀山

八鹿駅舎
トロッコの軌道跡

八鹿駅舎
旧生野鉱山職員宿舎

●現役の鉱業都市で全国初の国重要文化的景観に選定

開坑は大同2年(807)と伝わり、古くから鉱山開発が進められた生野鉱山周辺は、鉱山町独特の景観が広がる全国でも貴重なまち並みが残る場所です。本格的な鉱山開発が進められた中世から近世にかけて、日本有数の銀山として栄え、「露天掘り跡」や「間歩」(江戸時代の坑道)といった採掘跡の他、市川河床には当時の選鉱場所であった「汰(ゆ)り池」跡などが残っています。
明治に入ると、日本初の官営鉱山として近代化が図られ、多くの御雇外国人が居留するなどモダンな建物も造られました。
市街地の鉱山町には江戸時代の地役人、郷宿(ごうやど)などの町屋が残る他、明治政府の役人の住居である鉱山官舎、トロッコの軌道跡などがあり、和洋が混在するの独特の景観が広がっています。
また、鉱石を製錬する際にできたカスをブロック状に固めた「カラミ石」が、民家の塀や土台、擁壁など至る所に用いられ鉱山町独特の景観を形成しています。
こうした日本でも貴重で珍しい景観が評価され、平成26年3月18日、文化庁による国の重要文化的景観に選定されました。兵庫県では初めて、現役の鉱業都市として選定されるのも全国初となります。

 

 

2014/12/16  

旧豊岡市役所南庁舎別館(豊岡1925) 【きゅうとよおかしみなみちょうしゃべっかん】

 

旧豊岡市役所南庁舎別館(豊岡1925)
【きゅうとよおかしみなみちょうしゃべっかん】

旧豊岡市役所南庁舎別館
(豊岡1925)

・豊岡市中央町
・国登録有形文化財

●かつての銀行建築の面影を残す重厚な建物
昭和9年(1934)に旧兵庫県農工銀行豊岡支店として建設、その後、山陰合同銀行の建物として使用されてきました。平成17年(2005)に豊岡市役所南庁舎別館として改造され、平成26年4月18日、お菓子を中心テーマとした「豊岡1925」に生まれ変わりました。
元々はルネッサンススタイルの銀行建築で、派手さはありませんが、堅実な外観を見せています。銀行特有の堅牢な面合格子や網入りガラスは当時の面影をよく残しています。建設当時は向い側の旧豊岡郵便局(現豊岡市役所南庁舎)と相対して、「中央街路(大開通り)の偉観」といわれました。

2013/10/29  

豊岡復興建築群【とよおかふっこうけんちくぐん

 

豊岡復興建築群【とよおかふっこうけんちくぐん
豊岡市役所
豊岡市役所本庁舎

トヨオカ自動車店
トヨオカ自動車店

豊岡復興建築群

・豊岡市
・近代化遺産

●北但大震災から復興したモダンストリート
旧豊岡市の中心である「大開通り」や「宵田通り」には、1925年(大正14)5月の北但大震災後に復興した建物が数多く残っています。「豊岡復興建築群」とは、震災後の昭和初期に建てられた鉄筋コンクリート造り の建物群のことをいい、但馬の近代遺産として注目されています。
震災後に起きた火災を教訓に防火帯を設けるべく、防火建築の促進を目的とした補助制度が創設され、大開通りを中心に48棟が建設されました。現在でも43件が当時のまま残っており、震災後の数年間にできた建物が、一部の地域にこれだけ集中しているのは、全国的にも珍しいといえます。
豊岡市役所本庁舎、南庁舎(元郵便局)、南庁舎別館(元銀行)などは著名な建築家が手がけており、随所に印象的な装飾が施されています。
大開通り東側にあるトヨオカ自動車店は、ひときわ目立つ斬新な建物で、屋根には2階建てでありながら、より大きくみえるように王冠のような壁が立ちあがっています。市役所から東側に少し離れた通りに面している三戸一の共同ビルは、一軒一軒の窓のデザインが違うモダンアートな建物。

このほかにもレリーフを掲げた建物、玄関両サイドに柱をそなえた和洋折衷の建物など、街を歩けばいくつも発見できます。

表米神社の相撲桟敷【ひょうまいじんじゃのすもうざしき】

 

表米神社の相撲桟敷【ひょうまいじんじゃのすもうざしき】

表米神社の相撲桟敷

・朝来市和田山町竹田
・県指定文化財

●半円形に六段の珍しい石積段型桟敷
竹田城跡のふもとにある表米神社。格技を好んだと言われる表米宿弥命を祀り、境内には相撲桟敷が設けられています。
半円形に六段の石積段型桟敷は、全国でも非常に珍しく、県の文化財に指定されています。現代でいうところの野外観覧席で、江戸末期と明治期の座席割図が各1枚残っていることから、村の行事に利用されていました。角正面には舞台もあり、歌舞伎の見物などに使われたとも考えられます。

2013/05/29  

青谿書院【せいけいしょいん】

 

青谿書院【せいけいしょいん】

青谿書院

・養父市八鹿町宿南
・県指定文化財

●池田草庵が開いた漢学塾
幕末から明治の初めにかけて但馬聖人・池田草庵が開いた漢学塾で、明治の近代化を支えた多くの門弟が勉学に励みました。草庵はここで門人たちと寝起きをともにし、自ら模範をみせることで、知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心を砕いたといいます。
建物は質実剛健という言葉にふさわしく、周囲にはのどかな田園風景が広がります。
便所の扉の内側には、門人たちが寝る間を惜しんで、夜の10時の消灯後にもロウソクを灯して勉強したススの跡が無数に残っています。
また、「青谿書院資料館」には、草庵の遺品、著書をはじめ、関係資料を数百点展示しています。教えを慕って入門した門人の数は、明治11年に亡くなるまで、全国30ヵ所から673人にのぼり、日本の近代化を担った多くの人材を教育しました。
出身者には、日本金融界の基礎を築いた原六郎や日本近代眼科の父・河本金次郎、東大総長を2度つとめた浜尾新、琵琶湖疏水を開いた北垣国道などがいます。