2015/02/10  

但馬国分寺跡・国分尼寺【たじまこくぶんじあと・こくぶんにじ】

 

但馬国分寺跡・国分尼寺【たじまこくぶんじあと・こくぶんにじ】
但馬国分寺跡
・豊岡市日高町

・国指定文化財


塔跡の礎石


国分寺跡から出土した土器


主要伽藍復元模様型

●天平文化が花開く奈良時代、但馬国の勢力をかたむけて建立
はなやかな天平文化が花開いた奈良時代。国内は六十余国に分けられ、それぞれに国衙と呼ばれる役所を置き、都から役人を派遣して統治していました。当時、但馬は「但馬国」(生野町の一部を除く)と呼ばれていました。天平13年(741)、聖武天皇は五穀豊穣、国家鎮護を祈るため、全国六十余りの国ごとに、巨大な国分寺、国分尼寺の建立を命じ、但馬国では、但馬国府があったとされる現在の日高町に建てられました。当時建てられた但馬国分寺は、現在残されていませんが、発掘調査からいろいろなことがわかってきています。
国分寺は普通、講堂、金堂、中門、南大門が南北に並び、周囲を溝や築地で囲んであります。但馬国分寺跡では昭和48年から現在まで21回にわたる発掘調査がおこなわれ、金堂、塔、中門を確認されています。また、寺域の北東と南東の端を示す溝や築地跡の発見で、寺域が一町半(約160m)四方と一般の二町(約220m)より小ぶりだったこともわかっています。
発掘調査でもっとも多く出土している遺物は瓦で、浅く曲がった平瓦と土管を縦に割ったような丸瓦がほとんどを占めていますが、全国でも珍しい当時の釣瓶など貴重なものが出土しています。他にも、奈良・平安時代のものとしては、全国でも最大級の大井戸(縦横約170cm四方、深さ270cm)も見つかっています。この井戸に使われたヒノキの井桁材に樹皮が残っていたことから、その木を伐採した年が763年だと判明しました。
しかし、平安中期以降、律令制の崩壊とともに、しだいに衰退の一途をたどり、但馬国分寺は続日本紀の宝亀8年(777)「但馬の国国分寺の塔に震す」とあり、落雷に見舞われたことが記されています。その後、天正8年(1580)に豊臣秀吉が但馬攻略をした際に、堂を消失してしまい、のちに国中を托鉢して宝暦13年(1763)に堂を再建したことが、現在の護国山国分寺(豊岡市日高町国分寺)に残された棟札に書かれています。

表米神社の相撲桟敷【ひょうまいじんじゃのすもうざしき】

 

表米神社の相撲桟敷【ひょうまいじんじゃのすもうざしき】

表米神社の相撲桟敷

・朝来市和田山町竹田
・県指定文化財

●半円形に六段の珍しい石積段型桟敷
竹田城跡のふもとにある表米神社。格技を好んだと言われる表米宿弥命を祀り、境内には相撲桟敷が設けられています。
半円形に六段の石積段型桟敷は、全国でも非常に珍しく、県の文化財に指定されています。現代でいうところの野外観覧席で、江戸末期と明治期の座席割図が各1枚残っていることから、村の行事に利用されていました。角正面には舞台もあり、歌舞伎の見物などに使われたとも考えられます。

2013/05/29  

青谿書院【せいけいしょいん】

 

青谿書院【せいけいしょいん】

青谿書院

・養父市八鹿町宿南
・県指定文化財

●池田草庵が開いた漢学塾
幕末から明治の初めにかけて但馬聖人・池田草庵が開いた漢学塾で、明治の近代化を支えた多くの門弟が勉学に励みました。草庵はここで門人たちと寝起きをともにし、自ら模範をみせることで、知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心を砕いたといいます。
建物は質実剛健という言葉にふさわしく、周囲にはのどかな田園風景が広がります。
便所の扉の内側には、門人たちが寝る間を惜しんで、夜の10時の消灯後にもロウソクを灯して勉強したススの跡が無数に残っています。
また、「青谿書院資料館」には、草庵の遺品、著書をはじめ、関係資料を数百点展示しています。教えを慕って入門した門人の数は、明治11年に亡くなるまで、全国30ヵ所から673人にのぼり、日本の近代化を担った多くの人材を教育しました。
出身者には、日本金融界の基礎を築いた原六郎や日本近代眼科の父・河本金次郎、東大総長を2度つとめた浜尾新、琵琶湖疏水を開いた北垣国道などがいます。

2011/06/22  

旧大岡寺庭園【きゅうおおおかじていえん】

 

旧大岡寺庭園【きゅうおおおかじていえん】
大岡寺庭園
旧大岡寺庭園
・豊岡市日高町大岡
・国指定名勝
●戦国末期武家好みの作風

大岡山の山中、標高507mにある旧大岡寺に残る庭園。この枯山水庭園は、巨岩が林立し、特に滝部の石組は桃山初期の様式をよく保ち、朝倉氏諏訪館庭園(福井県)に見られるような作庭手法と感覚的に似たところが多く、戦国末期の作庭と考えられます。
大岡寺の歴史は古く、縁起によると奈良時代に賢者仙人によって開かれたと言われ、永暦2年(1161)の記録によると、薬師堂、護法所、拝殿、温屋、僧坊などの堂舎のほか、大岡神社、白山権現社などが建立されていたことが記されています。しかし、明応4年(1495)の火事で焼失、その後再建され、近年まで護摩堂、鐘楼、梵鐘、仁王門がありましたが、昭和38年頃から周辺の民家が山麓へ集団疎開し、昭和42年、寺も移築、現在は庭園だけが残されています。
庭園構成は、庫裡と本堂の間に作庭された面積約365平方メートル(110坪)の池泉観賞式庭園で、要所に巨石と立石を配し、しかも大岡山の斜面を利用して、裏山も取り込み広がりがあります。中心は滝石組で、もとは頂上付近から流れ出る水が滝へ注がれていたと考えられます。滝上部の立石は守護石と考えられ、本庭の中心地石でもあり堂々とした風格があります。
昭和47年、国の名勝にも指定されています。

2011/06/22  

中谷貝塚【なかのたにかいづか】

 

中谷貝塚【なかのたにかいづか】
中谷貝塚
中谷貝塚
・豊岡市中谷
・県指定遺跡
●縄文時代の人々の重要なタンパク源・貝類の殻の層
人類の歴史が始まったころに干陸化し、平地になったといわれる豊岡盆地。大正2年(1913)に発見された中谷貝塚からは、縄文時代の人々の重要なタンパク源であった貝類の殻を中心に、生活用具である土器、石器が出土しています。昭和61年(1986)に行われた調査によって、東西12.5mにわたる貝層が確認されました。この貝層は、縄文時代中期から後期までの間に、断続的に形成されたもので、ヤマトシジミを主体として、ハマグリ、マガイなどが見られます。自然死した貝類が堆積した層も確認されており、その多くが付近で採取されたものであることもわかっています。
中谷貝塚は、採取地と貝塚がセットで見つかった希少なケースとして注目されています。