沢庵和尚【たくあんおしょう】
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●生い立ち たくあん漬けの考案者とも重用者とも言われる沢庵和尚は、天正元年(1573)豊岡市出石町に生まれました。父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)です。 沢庵和尚は10歳で出家、14歳にして出石藩主菩提寺・宗鏡寺(すきょうじ)に入りました。彼が20歳の時、藩主・前野長泰の招きで京都の大徳寺から薫甫宗忠(とうほそうちゅう)が住職に任じました。宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、沢庵と大徳寺との関係が生まれました。 22歳の時、宗忠が大徳寺の住持となるのに従って上京し、大徳三弦院で春屋宗園に仕えました。沢庵は29歳の時、勅令によって大徳寺の住持に出世しましたが、立身出世を求めない彼は3日間で野僧に徹すべしとして退山してしまいました。 31歳の時、堺の南宗寺陽春院の一凍紹滴(いっとうじょうてき)に師事し、沢庵の称号を受けました。やがて住持を兼ねるようになります。 沢庵は研ぎ澄まされた感覚から漢文に通じ、但馬にも多くの歌を残しています。 めぐりきて 入佐の山の月も日も はるやむかしに 我身ひとつは ●紫衣(しえ)事件 寛永4年(1627)、紫衣事件が起こりました。大徳寺・妙心寺の住持は天皇の詔(みことのり)で決まっていましたが、今後は幕府が許可を与え天皇の権威をそぎ、命令に服さない者の紫衣の着用を禁止したのです。 沢庵は投淵軒から怒って上京し、大徳寺反対派をまとめて反対運動の先頭に立ち、幕府に対する抗弁書(こうべんしょ)は沢庵自らが書いたといいます。幕府は中心人物である沢庵を羽州(山形県)上ノ山に流罪にしました。 3年後、将軍秀忠の死による大赦(たいしゃ)があり、許され江戸に帰ってきました。三代将軍家光は柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)の言葉を聞き入れ、品川に4万坪の土地を与え、万松山東海寺を建ててその開山に沢庵を迎えました。 これを受け入れた時から、野僧に徹すべしの生き方を捨てました。そして、自分を権力者にこびる「つなぎ猿」と自分を自分で軽蔑しあざ笑う晩年でした。 ●沢庵の遺言 正保2年(1645)12月、沢庵は万松山東海寺で没しました。時に73歳でした。死ぬ前に残す言葉を弟子が求めると自分で筆を取り、「夢」の一字を書いて筆を投げ捨てるようにして息を引き取ったといいます。 「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」 と遺言を残しました。 |