2023/01/16  

城崎温泉駅舎【きのさきおんせんえきしゃ】

 

城崎温泉駅舎
【きのさきおんせんえきしゃ】

城崎温泉駅舎
・豊岡市城崎町今津
・近畿の駅100選選定
●軒下、壁面上部、腰壁の3本の木質調のラインと
白壁とのコントラストが見事

1926年(大正15)に建設された山陰本線・城崎温泉駅の駅舎。前年の北但大震災で旧駅舎が壊滅したため、防火を目的として鉄筋コンクリートで建造されています。以前は勾配のない陸屋根でしたが、現在は瓦葺きの切妻屋根に改造され、玄関入口には大きな庇(ひさし)が設けられています。庇からは5本の柱を大胆に配置されており、白壁と黒い柱のコントラストが美しく建っています。
2016年にリニューアルされ、コンコースは「街並みとの調和」をテーマに、床面には「大谿川(おおたにがわ)」、「玄武岩」、「柳」をモチーフとしたデザインが施されています。

2023/01/13  

グンゼ八鹿工場事務所棟【ぐんぜようかこうじょうじむしょとう】

 

グンゼ八鹿工場事務所棟
【ぐんぜようかこうじょうじむしょとう】


グンゼ八鹿工場事務所棟
・養父市八鹿町八鹿
・兵庫県景観条例景観形成重要建造物等

●昭和初期のモダンデザイン
1928年(昭和3)建設された、旧グンゼ八鹿工場の事務所棟。薄橙色の外壁でモダンなデザインが特徴的です。事務所の入口が建物の角部分に面し、さらに中央部に柱を設けた左右対称の出入り口が2カ所あります。さらに事務所内に入ると、円形の垂れ壁(天井から垂れ下がった形状の壁)と、中央にそびえるギリシア神殿のエンタシス柱をモチーフにした柱を見ることができます。

外部に面した窓は上げ下げ窓で、昭和初期の流行を取り入れたモダンな様式です。スレート瓦だった屋根は、改築工事により日本瓦に葺きかえられています。

2022/01/15  

進藤家住宅/佐中千年家【しんどうけじゅうたく/さなかせんねんや】

 

進藤家住宅/佐中千年家
【しんどうけじゅうたく/さなかせんねんや】


佐中千年家
・朝来市佐中
・市指定文化財

●金融・産業界の中枢的存在、原六郎の生家
明治時代の金融・産業界の中枢的存在であった原六郎(進藤俊三郎)の生家。進藤家は天授年間(1375~1380)頃、佐中に居住したといわれています。主屋は、東西を旨とした入母屋式茅葺2階建てで、その西側及び東側に建てられた桟瓦葺、切妻屋根で平屋、もしくは2階建ての建物が付属しています。平成2年、通称「千年家」と呼ばれるようになりました。
建設年代の詳細は不明ですが、進藤家が大地主となるのが江戸時代中期であることや進藤家屋敷の北側には元々進藤家の仏間(菩提所)があり、その場所に進藤家の菩提寺として現在の深高寺が1711年(正徳元)に建てられていることなどから、これらのことを重ね合わせると1600年代の建物であると考えられています。

2022/01/15  

北前船の寄港地【きたまえせんのきこうち】

 

北前船の寄港地
【きたまえせんのきこうち】

諸寄港


日和山の常夜灯の一部
・新温泉町諸寄
・日本遺産

●日本遺産認定の風待ち・潮待ち港
かつて北前船の“風待ち・潮待ち港”として栄えた新温泉町の諸寄(もろよせ)地区。北前船とは、江戸時代中期から明治30年代にかけて大阪と北海道を日本海航路で結んだ帆船のことです。荷物の運搬だけでなく、途中各地の港に立ち寄り船主が荷主となって物資を売り買いしていました。船の出入りとともに人や物が行き交うことで全国の文化が混成し、寄港地の経済・文化的な発展に影響を与えたことも北前船の大きな特徴といえます。2018年5月、文化庁が認定する日本遺産『荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落』に、諸寄を含む27市町が追加認定を受けました。

諸寄港からは海産物や諸寄砥石などが船積みされましたが、他の認定地のような城下町や物流の拠点があったわけではありません。しかし、因幡地方に入ってから島根県の美保関までは砂丘地帯が続くため、水の補給地や避難港として貴重な場所にあったことが特徴にあげられます。また、諸寄は明治の歌人・前田純孝や日本画家・谷角日沙春など、他地域に比べて多くの文化人を輩出していることも特徴のひとつです。

諸寄には北前船に関する史跡や資料が数多く残っており、船主や船乗りたちが航海の安全を祈願した為世永神社や藤田家・道盛家といった廻船問屋の母屋など、11箇所が構成文化財として選定されています。まちの西側にある岬は日和山と呼ばれており、船乗りたちが出港前に天候を予測したといわれています。高台にある灯台の傍らには、廻船の道しるべとなった常夜灯の一部が現存しています。港の南にある為世永神社の境内には、全国の船首が寄進した玉垣や灯篭が残り、幅広い交流が行われていたことが読みとれます。城山園地の展望台からは、北前船の寄港地として成り立った諸寄の湾が一望できるので、フォトスポットとしてもオススメです。

大谿川 弓形橋群・王橋【おおたにがわ ゆみがたきょうぐん・おうばし】

 

大谿川 弓形橋群・王橋
【おおたにがわ ゆみがたきょうぐん・おうばし】


大谿川 弓形橋群・王橋
・豊岡市城崎町湯島
・国登録有形文化財(建造物)

●大谿川に架かる弓形の橋群
城崎温泉は、1925年(大正14年)に起こった北但大震災の被害により、焼け野原となり、当時の城崎町長の西村佐兵衛によって復興計画が立ちあげられ、新しいまちづくりが行われました。城崎温泉街の街並みを彩る「弓形橋群」は1926年(昭和元年)、「王橋」は1927年(昭和2年)の建設されました。

大雨の度に水害をもたらす大谿川の治水も大きな課題であり、川と道路の段差は数10cmしかなく、震災後には岸に玄武岩を積み上げ高さ70〜80cmの側壁を張り巡らせました。当然橋も側壁分高くしなければならず、それで弓形の橋となりました。上流の王橋側から、愛宕橋、柳湯橋、桃島橋、弁天橋の弓形橋群は、すべて鉄筋コンクリートで作れました。親柱側面には、橋の名前と「昭和元年十二月架之」の銅板がはめ込まれています。

王橋は一の湯前に架かる主要な橋です。橋幅は8.5mで大型バスが充分すれ違える幅になっていますが、従来は幅も狭く、川に直交して架けられていました。以前、王橋は「玉橋」と書かれていたが、川は濁らない方がよいとされて、昭和30年代に橋銘板から濁点が取り除かれました。親柱は現在でも目を見張る巨大な和風の橋で、すべて御影石造。高欄に、青銅製の飾り窓や装飾を使っています。

2020/01/31  

旧木村酒造場【きゅうきむらしゅぞうじょう】

 

旧木村酒造場
【きゅうきむらしゅぞうじょう】


旧木村酒造場
・朝来市和田山町竹田
・国登録有形文化財(建造物)

●竹田城下町の趣を伝える旧酒蔵
竹田城下町の中心に建つ「旧木村酒造場」。寛永2(1625)年頃から竹田の地で酒造りを始め、現在の建物は明治35(1902)年から36年頃に再建されたと言われています。通りに面する「店舗兼主屋」の屋根には立派なうだつと越屋根を載せ、格子窓を並べる趣は、城下町の景観のシンボルとなっています。その他にも玄米蔵と白米蔵を並べる「米蔵」、かつて麹室を備えて絞りなどを行った「舟蔵」や酒の熟成に用いた「貯蔵所」など、酒造りの遺構も良好に残されています。

こうした貴重な遺産を活用するため、平成25年に「竹田城下町 旧木村酒造場EN(えん)」として、ホテル・レストラン・ショップ、観光案内所として整備再生されました。現在は竹田城下町の観光拠点施設として、多くの観光客が訪れています。

2020/01/31  

城崎温泉ロープウェイ駅舎【きのさきおんせんろーぷうぇいえきしゃ】

 

城崎温泉ロープウェイ駅舎
【きのさきおんせんろーぷうぇいえきしゃ】


城崎温泉ロープウェイ駅舎
・豊岡市城崎町湯島806-1
・国登録有形文化財(建造物)

●黒四ダムのコンクリート技術が生かされた駅舎
城崎温泉街を一望できる「城崎温泉ロープウェイ」。ここは黒部第四ダムの建設に携わった関西電力初代社長「太田垣士郎」の発案により建設され、昭和38年5月に開業しました。大師山の山頂までつながったロープウェイは、山麗駅・温泉寺駅・山頂駅の3つから成っており、中間駅があるロープウェイは全国でも珍しいとされています。山頂からの眺望は旅行ガイドブック『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』に一つ星として掲載されています。円山川の緩やかな流れとその先に広がる日本海の景観が見事です。

ロープウェイの3棟の各駅舎は国の登録有形文化財に指定されています。昭和37年当時からのものが今も現役で建っており、アーチ状屋根の緩やかなアールなど建設当時のデザインを見ることができます。また、5年前に耐震診断をしたところ、築50年を超えているにもかかわらず、ほぼ建設当時のままで耐震基準をクリアしました。あの黒四ダムの建設に使われたコンクリート技術が城崎の地で生きています。

2015/02/10  

山名氏城跡【やまなしじょうせき】

 

山名氏城跡【やまなしじょうせき】

此隅山城跡
・豊岡市出石町宮内
・国指定史跡
●応仁の乱へ出陣、此隅山(このすみやま)城跡
山名氏は、清和源氏の出で、室町時代足利尊氏に従った山名時氏が、その功績によって山陰地方の守護大名となり、その子、時義が但馬守護職となり、此隅山に城を築きました。
山名一族は全国66か国の内、11か国を支配するほどの勢力を持ち、宗全(持豊)の頃になると、天下を二分をもする応仁の乱(応仁元年・1467年)を起こします。宗全は赤ら顔で太っ腹、毘沙門天の化身、赤入道といわれ、山名の四天王、垣谷・太田垣・八木・田結庄などの武将や遠く因幡(鳥取)備後の軍、6万6,000余騎が此隅山城に揃い、京都に攻め入ったとされています。
その後、山名氏は衰退の一途をたどり、戦国時代、織田信長(羽柴秀吉)の2万の兵による但馬征伐にあい、わずか10日間で但馬にある此隅城を含む17とも18とも言われる砦を失ってしまいました。

有子山城跡
・豊岡市出石町
●悲運要塞の城、有子山(ありこやま)城跡
此隅城を失った後、 山名祐豊(すけとよ)は、 321mの急峻な山、有子山山頂に、城を築きました。背後の南は出石川、北面には東より流れる谷山川を外壕に、北は盆地が開け、豊岡・城崎まで一望できる要害の地でした。しかし、羽柴(豊臣)秀吉軍によって再び、但馬征伐にあい有子山城はあえなく落城の運命をたどります。200余年続いた但馬守護山名氏は滅び、現在は石垣を残すのみとなっています。

2015/02/10  

見蔵岡遺跡石棒関連出土品 【みくらおかいせきせきぼうかんれんしゅつどひん】

 

見蔵岡遺跡石棒関連出土品
【みくらおかいせきせきぼうかんれんしゅつどひん】
見蔵岡遺跡石棒関連出土品
石棒関連出土品
・豊岡市竹野町松本
・県指定文化財(考古資料)●関連情報
とよおか発掘情報
●西日本初、子孫繁栄を願う石棒の出土品
縄文時代の遺跡である見蔵岡遺跡は、鎌倉時代の屋敷の下に眠っていました。ここでは、西日本で初めての「石棒」の製作地が発見されています。石棒とは、丸棒状の磨製石器のことをいい、縄文時代中期末頃に子孫繁栄を祈願してつくられていたと考えられる遺物です。この石棒や石棒未製品の出土は、近くで石材の産出地があったことを裏付ける遺跡としても重要だと考えられています。また、土器と混在して、縄文中期から後期のものを主体とする石器が669点も出土しています。石器が原材と推定される石材も一定数出土しており、中でも石棒加工具と推定される槌石(つちいし)は、この遺跡で最も特徴的な石器であるといえます。この出土品は、当時の製作技法や流通状況を知る上で、貴重な資料となっています。

2015/02/10  

但馬国分寺跡・国分尼寺【たじまこくぶんじあと・こくぶんにじ】

 

但馬国分寺跡・国分尼寺【たじまこくぶんじあと・こくぶんにじ】
但馬国分寺跡
・豊岡市日高町

・国指定文化財


塔跡の礎石


国分寺跡から出土した土器


主要伽藍復元模様型

●天平文化が花開く奈良時代、但馬国の勢力をかたむけて建立
はなやかな天平文化が花開いた奈良時代。国内は六十余国に分けられ、それぞれに国衙と呼ばれる役所を置き、都から役人を派遣して統治していました。当時、但馬は「但馬国」(生野町の一部を除く)と呼ばれていました。天平13年(741)、聖武天皇は五穀豊穣、国家鎮護を祈るため、全国六十余りの国ごとに、巨大な国分寺、国分尼寺の建立を命じ、但馬国では、但馬国府があったとされる現在の日高町に建てられました。当時建てられた但馬国分寺は、現在残されていませんが、発掘調査からいろいろなことがわかってきています。
国分寺は普通、講堂、金堂、中門、南大門が南北に並び、周囲を溝や築地で囲んであります。但馬国分寺跡では昭和48年から現在まで21回にわたる発掘調査がおこなわれ、金堂、塔、中門を確認されています。また、寺域の北東と南東の端を示す溝や築地跡の発見で、寺域が一町半(約160m)四方と一般の二町(約220m)より小ぶりだったこともわかっています。
発掘調査でもっとも多く出土している遺物は瓦で、浅く曲がった平瓦と土管を縦に割ったような丸瓦がほとんどを占めていますが、全国でも珍しい当時の釣瓶など貴重なものが出土しています。他にも、奈良・平安時代のものとしては、全国でも最大級の大井戸(縦横約170cm四方、深さ270cm)も見つかっています。この井戸に使われたヒノキの井桁材に樹皮が残っていたことから、その木を伐採した年が763年だと判明しました。
しかし、平安中期以降、律令制の崩壊とともに、しだいに衰退の一途をたどり、但馬国分寺は続日本紀の宝亀8年(777)「但馬の国国分寺の塔に震す」とあり、落雷に見舞われたことが記されています。その後、天正8年(1580)に豊臣秀吉が但馬攻略をした際に、堂を消失してしまい、のちに国中を托鉢して宝暦13年(1763)に堂を再建したことが、現在の護国山国分寺(豊岡市日高町国分寺)に残された棟札に書かれています。