北前船【きたまえせん】
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●但馬での北前船のおこりと歴史 江戸中期から明治末期にかけて、大阪から瀬戸内海を経て、日本海から北海道まで、西廻り航路で不定期に往復した商船を上方では「北前船」と呼んでいました。港に寄っては、米や塩、油、鉄などその土地の産物を買い集め次の港で売っていました。但馬海岸の港は、それらの船にとって嵐の時の避難、風のない時の風待ちなどのための大事な寄港地となりました。 そこで、但馬の人たちも北前船をしたて、北海道や下関・大坂まで広く廻漕する廻漕(かいそう)業が盛んにおこなわれるようになりました。その船数は、弘化2年(1845)の記録によると170艘あり、中でも竹野村(竹野町)が56艘と最も多かったと記されています。また、浜坂町の市原惣兵衛が興した縫い針「みすや針」は、こうした海運により販路を確立し、生産は日本一となりました。 船主の家などに残る船箪笥(ふなだんす)や船道具、竹野町の鷹野神社をはじめ各地に、航海の安全を祈願して奉納された船絵馬など、当時の廻船の構造などを知る貴重な資料が残されています。また、北前船は商いの他にも、各地の文化や風俗なども運び寄港地の人々との交流も深めました。 しかし、明治期になると交通・運輸が発達し、とりわけ鉄道が普及したことから、和船による廻漕業は哀えていきました。 |