加藤弘之【かとうひろゆき】

加藤弘之

(1836~1916)
天保7年6月23日、兵庫県豊岡市出石町谷山に生まれる。東京大学初代総長をはじめ、官界学界の多数の官職を歴任。

文部大丞・元老員議官・貴族員議員・宮中顧問官・学士院院長・枢密顧問官



生家

現在も豊岡市出石町に残る生家。

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

●生い立ち
加藤弘之は天保7年(1836)6月23日、豊岡市出石町谷山に、出石藩用人・加藤正照の長男として生まれました。10歳になった加藤は藩校弘道館に通って朱子学を中心とした儒学を学びましたが、兵学師範の子としては兵学も学ぶ必要があり、練兵・武術の手ほどきも受けました。

17歳の時、父に従って江戸に行き、甲州兵学・儒学・洋学を学んだ加藤は、次第に洋学に魅せられ哲学・倫理学・法学などを勉強していきました。

江戸で貧しさと戦いながら勉学に励んでいた頃、郷土の父が亡くなりました。母は早く死亡し兄弟もすでに亡くなっていたので、加藤は天涯孤独の身となりました。

●明治維新の担い手

桜田門外の変の起こった万延元年(1861)、幕府より蕃書調所(東大の前身)教授手伝に採用されました。蕃書調所は幕府が各藩の指導者を養成するためにつくった学校です。加藤は幕府の御用学者としての権威主義的色彩を強く持つようになります。福沢諭吉の私塾(慶應義塾)経営の方向とは好対照でした。

加藤はドイツ学を究め、明治天皇教育のため「国法汎論」を講義し、憲法・三権分立・市町村自治のだいたいの意味をたたき込んだといわれます。また、ヨーロッパから輸入された「天賦人権論」(すべての人間は生まれながらにして自由・平等の生活をする権利を有するとする思想)を信じ尊びました。明治維新により四民平等(江戸時代につくられた身分制度である士・農・工・商が廃止された)がうたわれているのに、被差別部落民はいぜん差別されている現実を嘆き、恥ずかしいと主張。文部大丞権判事であった加藤は「被差別部落民を平民とする」という解放令の議案を公議所(議会)に提出可決し、明治4年8月解放令の大政官布告となったのです。

加藤は明治10年(1877)開成学校(のちの東京大学)綜理を命じられ、のち、明治23年(1890)再び、初代東京帝国大学総長になり、貴族院議員にも選ばれました。明治21年(1888)には文学博士、38年(1905)には法学博士を授けられました。26年(1893)には東大総長を辞任し、宮中顧問官を任じられ、33年(1900)華族となり男爵を授けられました。39年(1906)には枢密顧問官になりました。

その後、役職としては教育調査会総裁、高等教育会議議長、文学博士会会長、哲学会会長、国家学会評議員長、ドイツ学協会学校長、学士院院長など、その経歴は多彩で華やかなものでありました。また、憲法・政治・道徳・法律・哲学に関する膨大な著書を残しています。

官界学界の多数の官職を歴任し、明治の総帥(そうすい)として頂点を極め、大きな功績を残し、大正5年(1916)81歳の生涯を全うしました。