北垣国道【きたがきくにみち】

北垣国道
(1836~1915)
天保7年8月、兵庫県養父市能座村に生まれる。生野義挙に参加。京都府知事、北海道庁長官、貴族員議員、明治維新資料編纂委員、枢密院顧問官を歴任し明治の官界で活躍。
●生い立ち
若くして池田草庵に学び、生野義挙に参画した北垣国道(幼名晋太郎)は、養父市能座村の庄屋・北垣家の長男として天保7年(1836)8月に生まれました。父・三郎左衛門は、儒学を修めまわりの農民から信頼されていました。母・利喜は村岡藩岡丹治郎の娘で、物静かで気丈な人でした。

天保14年(1843)、北垣は父のすすめに従い、池田草庵のもとで原六郎らとともに論語など漢学を学びました。勉強も大変良くできたといいます。

長く続いた徳川の幕藩体制が揺らぎ、近代国家に生まれ変わろうとする幕末。北垣国道は尊皇攘夷派の活動にのめり込んでいきました。師である池田草庵の反対を押し切って、慶応元年(1865)原六郎たちといっしょに生野義挙に参加しましたが、生野挙兵は失敗に終わりました。

●明治の官界で活躍

因幡に逃れた北垣国道は、名前を変えて鳥取藩に仕官しました。戊辰(ぼしん)戦争の北越征討軍に参加し、新政府から認められたのが、官界に入る第一歩となりました。

その後、元老院少書記官、熊本県知事、内務少書記官、高知県知事を経て、明治14年(1881)京都府知事になりました。在任中、琵琶湖の水を京都市に引く疎水工事を完成させたことは有名で、その後の京都の開発に大きく貢献しました。

のち北海道庁長官、拓殖務次官、貴族員議員、枢密院顧問官を歴任し、明治の官界で活躍しました。