原 六郎【はらろくろう】
|
||
|
●生い立ち 天保13年(1842)、朝来市佐中の大地主、 進藤丈右衛門長廣の第10子、姉4人、兄5人の末っ子として生まれました。22歳までは進藤俊三郎、それから後は原六郎と名前を変えます。 安政2年(1855)13歳の時、池田草庵の青谿書院へ入門しました。当時は尊皇攘夷派の動きが激しくなる頃で、原六郎は尊攘論を唱え、政治活動を学問の邪道と考える池田草庵と相容れず、北垣国道たちと共に青谿書院を脱退しました。 文久3年(1863)生野義挙が起こり、これに身を投じましたが戦いに破れ、鳥取に逃げました。生野義挙に関係した者に対する捜索はきびしく、名前を原六郎と改め、以後本名を生涯使うことはありませんでした。 慶応元年(1865)、高杉晋作に会い、長州藩の守備隊に入り、翌2年には長州征伐の幕府軍と戦い、のち山口の陸軍兵学校明倫館で大村益次郎について、フランス式の練兵を学びました。王政復古ののち、長州を去り、以後、官軍にあってはなやかな軍人としての道を選びました。 ●金融・産業界の中枢的存在 明治4年(1871)、政府の推薦でアメリカに留学。6年(1873)春エール大学で経済学を学び、7年(1874)イギリスに渡りレオン・レヴィについて経済学・社会学を修め、10年(1877)5月に帰国しました。帰国した彼は金融業界へ入り、第百国立銀行の頭取として活躍し、その手腕は世間に高く評価されました。 当時、わが国の貿易関連の横浜正金銀行は、経済不況の影響を受けて倒産寸前に追い込まれていました。明治16年(1883)原六郎に、この大事を託すべく頭取となり、銀行改革の大事業を成功させました。その他の金融業にあっては帝国商業銀行、台湾銀行、日本興業銀行の創設にも関与しています。 原六郎の経済人としての仕事は金融業だけにとどまらず、山陽鉄道、播但鉄道、阪鶴鉄道、総武鉄道、東部鉄道、南和鉄道、九州鉄道、北陸鉄道など、関係した鉄道は多く、東京電燈、横浜ドック、富士製紙、富士紡績、横浜水道の設備などにも多くの貢献をしました。わが国の金融・産業界の中枢的存在として活躍しました。 昭和8年(1933)11月14日、92歳の天寿をまっとうしました。 |