桜井 勉【さくらいつとむ】

桜井 勉
(1843~1931)
天保14年9月13日、兵庫県豊岡市出石町伊木に生まれる。出石藩弘道館長。徳島・山梨・台湾新竹県知事。「校補但馬考」を著す。

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

●生い立ち

桜井家は代々出石藩の儒官の家でした。父・石門には長男・熊一(勉)、次男・熊二、三男・熊三の3人の子供がおり、次男は木村家に、三男は近藤家に養子にいきました。
桜井勉は8歳で弘道館に入学し文武を学び、堀田省軒(ほったしょうけん)にも入門しました。元治元年(1864)江戸に行き、芳野金陵(よしのきんりょう)について学びました。慶応3年(1867)、今度は三重県に行き、漢学者・土井こう牙(が)の門をくぐりました。

●明治の新国家設立に尽くす

明治元年(1868)3月藩主のすすめで貢士(こうし)となり、新政府への与論を答申しました。出石藩の藩政改革に励み、日本で最初の公園といわれる「楽々園」を明治2年に完成させました。明治5年(1872)、横浜税関勤務を命じられ、その後、地租改正や気象測候所の創設、現在の兵庫県が誕生したのも桜井勉の進言によるといわれています。

徳島県知事、衆議院議員、山梨県知事、台湾新竹知事を歴任、明治34年(1901)には内務省神社局長に就任、翌年5月に退官。晩年は出石の自邸・有子山園で悠々自適の生活を送りました。
出石に引退後は「校補但馬考」を著すことに精力的に取り組み、大正11年(1922)に完成しました。但馬の郷土史研究の基礎となる一大著述です。豊岡市出石町に数多くの記念碑を残し、出石神社に武具、刀剣を寄進、弘道小学校に書や古文書数百冊を寄贈しています。

昭和6年(1931)10月12日、88歳で亡くなりました。