浜尾 新【はまおあらた】

浜尾 新
(1849~1925)

嘉永2年4月20日、兵庫県豊岡市京町に生まれる。東京美術大学(現芸大)を創立し、東京大学総長として東京大学のために尽くした。

元老院議官・貴族院議員・文部大臣・枢密院議長・東宮大夫

東京大学構内に建つ銅像

●生い立ち
東京大学の発展に一生を捧げた浜尾新は、嘉永2年(1849)4月20日、豊岡市京町に豊岡藩江戸詰めの下級武士・浜尾嘉兵治の子として生まれました。5歳の時、父を失いました。

14歳の時、藩主夫人が豊岡に帰ることになり、浜尾は母親ゆうと同行し、豊岡で生活することになりました。幼くして藩に出仕して、父と同じく記録係の仕事をしました。
藩邸の東側には武術の稽古場と藩校稽古堂があり、文武両道に励みました。また藩邸の北側一帯は武家屋敷で豊岡藩の頭脳集団の住居でもありました。家老の船木克己、京都大学医学部名誉教授の猪子止か之助(いのこしかのすけ)、東京大学法学部教授の和田垣謙三、東京大学医学部眼科の権威・河本重次郎、文部大臣の久保田譲、政界のご意見番・古島一雄など明治・大正に活躍する秀才たちがたくさんいました。彼らとの交遊は浜尾の人間の幅を広げていく要因となりました。
但馬聖人・池田草庵は稽古堂に出張して講義し、藩の子弟たちに多くの感銘を与えたました。浜尾の知的人格形成は草庵によって形成されたといってもよいでしょう。

●東京大学と共に生きる

豊岡藩では人材育成のために藩費遊学制度をつくって廃藩まで、のべ11人の優秀な人材を江戸へ送り、勉強させました。浜尾は20歳の時選ばれて、慶應義塾・大学南校(東大)に学び、主としてフランス語を専攻しました。その後、東京大学舎監として学生たちの世話係をつとめる一方、アメリカ留学も果たしました。
明治10年(1877)、出石町出身の加藤弘之は開成学校(のちの東京大学)の綜理(総長)を命じられ、浜尾は副綜理として、加藤とコンビを組んで東大の運営と改革に献身しました。その後、文部省学務局長もつとめ、教育改革の一環として美術教育振興のため、上野に美術学校(のちの芸大)を創立させました。

明治26年(1893)加藤弘之は東京大学総長を辞任し、後任に浜尾を推薦、浜尾45歳にして東京帝国大学総長に就任しました。その後、しばらく文部大臣をつとめたあと、再び東京帝国大学総長をつとめました。

但馬の加藤弘之・浜尾新のコンビは東京大学育ての親といえます。東京大学構内には浜尾の銅像が設置されており、浜尾が植えた銀杏並木は東京大学100年の歴史を物語っています。