竹田城跡【たけだじょうせき】
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●関連情報 |
●別名「虎臥城」勇壮な石積み全国屈指の山城 竹田城は、嘉吉年間(1441~43年)、但馬の守護大名、山名宗全が出石城の出城として播磨・丹波から但馬への侵略路へ位置するこの地に13ヵ年を費やして築いたと伝えられています。当時は、土塁をもとに作られた城と考えられ、山名氏の武将、太田垣氏が5代にわたって城主となり治めました。しかし、天正5年(1577)、秀吉の2度の但馬征伐で竹田城は落城、山名氏とともに太田垣氏は没落します。 その後、秀吉の弟秀長の属将的な地位にあった桑山修理太夫重晴、続いて播磨龍野城主赤松政秀の子、赤松広秀が城主となります。広秀は朝来郡2万2000石を領有し、文禄年間から慶長の初期(1600年頃)に、現在のような豪壮な石垣積みの城郭を築きます。竹田城の最後の城主、赤松広秀は、関ヶ原の役で西軍に属し敗北。その後、徳川方として鳥取城攻めに加わり戦功をあげますが、城下に大火を放ったとの罪を押しつけられ自刃。竹田城は廃城となりました。 |