前田純孝【まえだじゅんこう】(翠渓すいけい)

前田純孝(翠渓)
(1880~1911)
明治13年4月3日、兵庫県美方郡新温泉町(旧浜坂町)諸寄に生まれる。東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。

歌碑

ふるさとの浜坂町諸寄の海にのぞみ建てられている歌碑

●生い立ち
東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。前田純孝は明治13年(1880)4月3日、浜坂町諸寄(現新温泉町)の旧家に父純正、母うたの長男として生まれました。

父はかつて池田草庵(いけだそうあん)の青谿書院(せいけいしょいん)の門下生で、村一番の教養人でしたが、生活力がなく前田家はどんどん落ちぶれていきました。また、うたを正妻に迎えても愛人との関係を断つことができず、妻の親族から離婚を突きつけられ、母は村岡町の実家へ帰って行きました。純孝3歳の時でした。離婚すると、すぐに愛人が正妻として入り、継母と異母兄弟との生活が始まりました。継母とうまくいかず、悲しみ多い幼児期を過ごしました。

純孝は7歳にして家族と別れ、鳥取師範付属小学校に入学。卒業する15歳まで一度も帰省せず勉学一途に励みました。彼の孤独な感覚は次第に文学へと転化されていきました。

●薄幸の歌人

文学的才能は御影師範学校・東京高等師範学校在学中から発揮され、雑誌「明星」(みょうじょう)の投稿によって、個人的感情的表現は彼の生い立ちと相まって一段と磨かれていきました。

秋雨は親はなくとも育ちたる 我と知りつつ降るとし思ふ

牛の背に我を乗せずや草刈女 春来峠はあう人もなし

君を思う我をはた思う君我の 二人の中のいとし児ぞこれ

大阪島之内高等女学校教頭として赴任、妻信子を得てしばしの幸福感に浸りましたが、長くは続きませんでした。純孝は過労から倒れたのです。肺結核でした。時を同じくして妻も産後の肥立ちが悪化、夫婦枕を並べての療養生活が始まりました。妻子に迷惑をかけないように純孝は療養場所を故郷に移しました。

死の直前まで数々の学校唱歌や歌集を創作し、前田純孝は明石に残した妻子を思いながら31歳の生涯を閉じました。

干からびし我が血を吸いていきてある 虱はさらにあわれなるもの

(絶筆)

風吹かば松の枝なる枝なれば 明石を思ふ妹と子思ふ

純孝の二千数首の珠玉の歌集は純孝研究者たちの力で世の中に蘇ってきました。