●日本近現代彫刻界に大きく貢献
淀井敏夫は明治44年に朝来市佐中に生まれ、6歳まで朝来市で過ごしました。その後、大阪の工芸学校を経て、東京美術学校(今の東京藝術大学)彫刻科に入学します。所属していた木彫部では、空いた時間のすべてを制作に費やすほど、作品づくりに没頭していました。卒業後は主に美術団体「二科会」を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で、日常の何気無いシーンを表現した彫刻を発表していきます。
54歳から同大学の教授・美術学部長を務め、東京スカイツリーを設計した澄川喜一ら多くの逸材を育てました。日本芸術院会員や「二科会」の理事長を務め、日本近現代彫刻界に大きく貢献しました。
●晩期には野外彫刻に没頭
淀井作品は労働者をモチーフにした力強い作品から、後年になるとのびのびとした複雑な形の新しい表現に変わっていきます。自然界に生きる生命の躍動感と自由への感動を形にした作品を多く生み出しました。晩期には野外彫刻を中心に彫刻づくりをした敏夫。遠い山並み、青い空と白い雲、木立を吹きわたる風と鳥のさえずり…朝来で過ごした幼い日の記憶が、作品の原点になっていると本人も語っています。地元に建設された「あさご芸術の森美術館」には、淀井敏夫の作品を屋内外に常設展示しています。
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