藤原東川【ふじわらとうせん】
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●生い立ち 明治20年(1887)1月18日、朝来市和田山町宮に、父・久蔵、母・さとの長男として生まれ、与八郎と名付けられました。素直で明るく、成績もよかったので、学校や村の人たちからの信頼もあつく、みんなから大切にされていました。小学校高等科を主席の成績で卒業し、本人も学校も進学を希望したのですが、跡取りとして百姓をしなければならず、進学はかないませんでした。 農業にあけくれる生活の中で、これではだめだと村を出る決心をし、明治37年(1904)、17歳の時、突然神戸へ出ていきました。しかし、学歴もなく特別な技術も持たない彼は、その日その日によって仕事を転々とする日雇い人夫しか働き口がなく、ついに絶望の果て、郷里に帰ることになりました。 故郷に帰った彼は、農業のかたわら漢詩を学び、新聞・雑誌の文芸欄に投稿し続け、作品がしばしば入選し、認められるようになりました。 ●農民の喜びや悲しみを歌に 明治43年(1910)、いよいよ文筆活動で世に立とうと考え、家族の反対を押し切って東京に出ました。当時24歳でした。ところが、生活費に困り、学費が続かず、途中で退学。翌44年(1911)、東京での生活を断念、再び故郷へ帰らざるを得なくなりました。 帰郷後の彼は、ますます勉強に励み、大正4年(1915)29歳の時、中路よしと結婚。翌年、若山牧水主宰の歌誌『創作』の詩友となり、本格的な歌人としてのスタートを切りました。 東川の但馬歌壇における功績は、但馬の歌人を結集して一つの大きなエネルギーを作り出したことです。これまで、但馬の歌壇は結社ごとに独立して、他の結社との交渉はほとんどありませんでした。東川の作った『雪線』はそれぞれの独立性を尊重しながら、短歌を作るという共通の目標を結集した原点です。『雪線』は昭和58年(1983)400号を突破し、会員も300名を越えました。『雪線』は平成元年(1989)1月号より『但丹歌人』と改め、現在に及んでいます。東川が但馬歌壇の父といわれ、今も多くの人から敬愛され、圧倒的な地位を占めている理由がここにあります。また、但馬史研究会の創設に力を尽くしたことも忘れてはなりません。 春いまだ野は 冬枯れのままながら 柳畑のいろのあかるさ 野良ぐるま ひきてかえるに道遠く いつしか月の光をぞ踏む 春によし 夏はまたよし 秋はなほ今日あたためて飲む冬の酒 張り替えて 吉き日をぞ待つわが家の障子 さやけき今朝は雪晴れ 昭和41年(1966)3月19日、多くの人々に惜しまれながら、生涯を閉じました。享年79歳でした。 |