赤木正雄【あかぎまさお】
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●生い立ち
日本治水砂防の神様・赤木正雄は明治20年(1887)3月24日、豊岡市引野に生まれました。父甚太夫、母たみの四女二男の末っ子で、地方の豪農であった赤木家は甚太夫で11代目に当たります。 正雄の生まれたこの一帯は円山川の右岸にあり、過去に幾度も氾濫を繰り返し被災しました。洪水の恐ろしさは小さな頃から心に刻み込まれたに違いありません。 豊岡中学を卒業後、単身上京した正雄は、早稲田大学生の兄に迎えられ一緒に同居し勉強することとなりました。明治41年(1908)念願の第一高等学校に入学。明治43年(1911)9月我が国は大水害を受けました。その時、新渡戸稲造第一高等学校長は始業式で「治水事業は華々しい仕事ではないが、諸君のうち一人でも治水に身を捧げて、水害をなくすことに志を立てる者はいないか」とお話をされました。 これを聞いた正雄は、「よし、治水事業に自分の身を投げ出そう。そして、その上の砂防を研究しよう」と決心しました。 ●治水砂防の神様 東京帝国大学農学部林学科砂防に学び、林学出身者ではじめて内務省に就職しました。鬼怒川、信濃川、木津川、瀬田川、富士川、神通川、天竜川、六甲山など全国の砂防工事を指導しました。 在職すること28年、内務省技術陣のほとんどが土木出身者という中で一人、林学出身の赤木は困難を克服しようと努力しました。そして、数々の実績を積み、日本に「赤木砂防」を普及させました。また、渓流河川(上流)の改修を一般河川改修の分野から取り外して砂防工事の分野に入れ、ついに土木局内から砂防課を創設するという治水機構の根本的改正を実現させました。 円山川直轄工事・一級河川編入・山陰海岸国立公園編入をはじめ、但馬小中河川改修に果たした功績は大きいものがあります。 ※砂防とは 山地・海岸・河岸などで土砂の破壊・流出・移動などを植林・護岸・水制・ダムなどにより防止すること。 |