中江種造【なかえたねぞう】

中江種造
(1846~1931)
弘化3年2月15日、兵庫県豊岡市京町に生まれる。鉱業家。豊岡市上水道建設費を寄付。


豊岡市寿公園にある像
毎年5月11日に水道まつりが行われる。

●生い立ち

弘化3年(1846)2月10日or15日(?)、豊岡藩の藩主京極甲斐守高行(きょうごくかいのかみたかゆき)の下級武士の子どもとして武家屋敷(豊岡市京町)に生まれました。父は河本筑右衛門元則(こうもとちくえもんもとのり)、母を松子といいました。種造は13歳になった安政5年(1858)8月、急に豊岡藩士・中江晨吉(しんきち)の養子になりました。

種造は豊岡藩内の警備に当たるかたわら、火薬や砲術の技術や数学(和算)、測量も習いました。慶応4年(1868)戊辰(ぼしん)戦争が始まると、種造は豊岡藩兵48人と共に京都に行き、桂御所(かつらごしょ)の護衛に当たりました。そして、京都滞在中に理化学および砲術家として知れ渡っていた久世治作(くぜじさく)と出会い、久世に従って化学を学びはじめました。

今度は大阪から「貨幣司出仕」(かへいししゅっし)の命令が届きました。「貨幣司」とは現在の造幣局の前身のことです。新政府の一番大切な仕事につくことになりました。そして、仕事を通じて専門的な化学の知識、金属類の分析技術を身につけました。

慶応4年(1868)、年号が明治元年と改まった年、貨幣司から鉱山司に転じた種造は、生野銀山でフランス人の鉱山技師コワニエたちと一緒に鉱山開発に当たりました。

●鉱山王への道

その後、裸一貫で東京に飛び出し、明治8年から17年まで、古河市兵衛(ふるかわいちべえ)の顧問技師として、栃木県足尾銅山や新潟県草倉銅山の経営に当たり、それらを「古河鉱業」のドル箱に仕上げていきました。明治17年(1884)、顧問役をつとめた古河家を辞して、独立自営の鉱業家として立ち上がり、岡山県の国盛鉱山を手始めに次々と鉱山を買収していきました。

種造は鉱業だけでなく、植林もすすめました。明治39年(1906)9月「中江済学会」という育英基金を創設し、500万本の植樹を行い、また人材も育てました。この奨学金のおかげで多くの大学教授や弁護士、医師などが育っています。

種造は郷里の産業育成にも力を入れていました。豊岡市の宝林銀行、日高町の兵庫県立製糸工場、豊岡市の中江煉瓦工場などの経営にも関わっていました。

大正10年(1911)豊岡市上水道建設費33万円の寄付を申し出ました。これは工事費の全額です。種造はここで、「上水道が完成して、各戸から水道料を徴収したら、その収益金の中から百万円を積み立て、これを町の奨学基金とする」という条件を付けました。結局、中江の寄付総額は38万800円におよびました。また、奨学金制度は現在も続けられています。

豊岡市街地寿公園(ロータリー)には、中江種造の像が建てられ、毎年5月11日には水道まつりが行われています。