丸山修三【まるやましゅうぞう】

丸山修三
(1904~1990)
明治37年3月16日、兵庫県美方郡香美町村岡区野々上に生まれる。歌人。京都府立医大を卒業後、開業医をしながら、アララギに入会。歌集「栃の木」「白き花」「暦日」「雑木山」「雑木原」など。兵庫県ともしび賞、半どん賞受賞
●生い立ち
丸山修三は明治37年(1904)、美方郡香美町村岡区野々上に父福井国太郎、母もとの四男四女の三男として生まれました。福井家は旧家で、父国太郎は文化人として俳句をよくしていました。彼の兄福井一雄氏は「明星」の同人でしたが、修三は「アララギ」に所属し活躍しました。
大正13年(1924)、京都府立医科大学在学中に、「アララギ」に入会し、土田耕平氏に師事しました。はやくから修三の資質の高さは異彩を放っていました。土田が病むと森山汀川につき、やがて土田の病状が進行した際、斉藤茂吉の診察にも立ち会いました。
大正15年(1926)、香美町村岡区原の丸山家の養子として迎えられました。丸山家もまた、代々続いた庄屋でした。昭和5年(1930)、大学卒業と共に丸山久子と結婚、大学助手を勤めることになりました。京都に住んでいた十余年の間に修三の短歌の方向が決まったとも言えます。京都花園の修三宅を土屋文明が幾度か訪れてもいます。
昭和8年(1933)、家を守ることと、地元からの医療充実への強い要望に応えて村岡町へ帰ってきて、自宅診療を開始しました。そして、2年後には香美町村岡区福岡に開業し、生涯を僻地医療に捧げることとなりました。

●但馬と共に生きた歌人
修三は「但馬アララギ」を創刊する一方、「雪線」・「但馬歌人」・京都の「林泉」の同人であり育ての親でもありました。修三がこれらの機関誌の選者になるや投稿者は激増し、但馬はもちろん丹波・丹後一円から師事した人は数え切れません。

さまざまに断りたりし挙句には 吹雪の中に往診に出づ
この村が好きのならむとつとめ来て 都忘れの花も植えたり

昭和49年(1974)12月、但馬の歌人たちが集い、丸山修三顕彰碑を香美町村岡区の兎和野高原に建てました。

つらなりて山遠く見ゆ夕映えは ただしばらくの間なれども

と刻された歌碑は背後に瀞川・鉢伏・氷ノ山を背負い、前方に妙見山・蘇武岳の連峰を望む地に建っています。自然を愛し、但馬の山を愛した修三の魂の安らぎの地でもあります。
晩年、目も耳も不自由になりながら、平成2年(1990)7月死の直前まで淡々と歌を詠み続けました。

(絶筆) 裏山に鳩啼きゐる声を聞く 八十六歳まだ生きている

長男・丸山茂樹氏は父修三の文学的資質を受け継ぎ、さらに発展させ、あちこちの短歌会の指導に忙しい日々をおくっています。