京極杞陽【きょうごくきよう】

京極杞陽
(1908~1982)

明治41年2月20日、東京市本所亀沢町に生まれる。旧豊岡藩主14代当主。「ホトトギス」同人。高浜虚子師事。句集「くくたち」など。

京極家宗廟

豊岡市三坂町に眠っている。

●生い立ち

俳人・京極杞陽は明治41年(1908)、豊岡藩主の14代目当主として東京に生まれました。小学校から学習院中等科へとすすみましたが、大正12年(1923)、関東大地震により生家は消失し、祖母、父母、弟2人、妹2人の多くの家族を失いました。ただ1人、姉だけが東京を離れていて難を逃れました。

昭和3年(1928)、学習院高等科から東北帝国大学に入学しますが、1年で中退し、京都帝国大学へ入り、さらに昭和5年(1930)には東京帝国大学文学部に入学しました。昭和8年(1933)、秋子と結婚。翌9年3月卒業。昭和10年(1935)から11年(1936)にかけてヨーロッパに遊学しました。

ドイツのベルリンに下宿中に現地で開かれた高浜虚子の講演・句会に参加し、この時つくった句が入選に選ばれています。これが虚子との運命的な出会いでした。

昭和12年(1937)、杞陽は宮内省に勤務し、式部官という職につきました。以後、21年(1946)まで宮内省勤めは続きました。


●「ホトトギス」同人

帰国した虚子との再会をきっかけに門下となりました。この時期、ともに「ホトトギス」で活躍していたのは、星野立子、中村草田男、高野素十、中村汀女など多くの俳句仲間がいました。

昭和21年(1946)7月、京極杞陽が主宰となり豊岡で俳誌「木兎」が再刊されました。薄い冊子ながら戦後いち早く発行された俳誌のひとつです。一方では、「ホトトギス」の同人としても毎月誌上で活動を続け、虚子との吟行旅行もひんぱんでした。のちに豊岡に帰った杞陽は、俳句への情熱を黙々と燃やし続けました。

5冊の杞陽句集に収録されている句は9996句、他に各句会に残ったものを入れると数倍にものぼるといわれています。

昭和56年(1981)11月8日逝去。豊岡市三坂町京極家宗廟に眠っています。

美しく木の芽の如くつつましく

但馬路の狭霧狭霧のどこまでも

おもむろに晴れ上りたる雪山河