沖野忠雄【おきのただお】

沖野忠雄
(1854~1921)
安政元年1月21日、兵庫県豊岡市大磯に生まれる。治水港湾の始祖として、数多くの土木事業に関わる。内務省技師・内務省技監・勲一等瑞宝章。


出石川防災センター
沖野忠雄の業績が一目で分かるパネルの展示や、円山川の水防や自然環境を学習することができる。
・豊岡市出石町袴峡380-1

・TEL0796-52-7100

・午前9時~午後5時
・木曜定休

●生い立ち
沖野忠雄は安政元年に豊岡藩士沖野春水の子として、豊岡市大磯に生まれました。明治3年に藩の貢進生として大学南校(東京大学)に入り、物理学修得のためフランスに留学。ここで土木建築を学び、帰京後、内務省の土木技師として、一生を治水工事・港湾の開拓に捧げました。

●治水土木に一生を捧げる…
沖野忠雄は日本の治水港湾工事の始祖といわれ、大正7年に内務省を退官するまで、河川改修工事に彼が関わらなかったものはありません。その数多くの土木事業の中で、最も心血を注いだのが、淀川の改修工事と大阪築港事業です。

当時、淀川は大水の度に氾濫を起こす暴れ川で、周辺の住民は家屋の浸水等の被害に悩まされました。そこで、洗堰を要所に設けて淀川の豊富な水量を調節、また、堤防も画一的にせず随所適切に定め、水害を防ぎました。
「大型船が出入港できる港を…」との大阪市民の要望に応えて施工されたのが、大阪築港です。大阪の安治川筋は古来より船の出入りが最も多い場所でしたが、淀川の流砂のため大型船の入港は難しく、河口に港を造ることが早急の課題でした。氏は工事には常に進歩的な工法を用い、機械化を進め、築港建設に尽力しました。今日の大阪繁栄の基礎を作ったこの功績を讃え、天保山公園には銅像が建立されています。
彼の人柄を表すエピソードとして、大阪築港建設の報奨金として、大阪市が送った数万円のお金を最後まで受け取らなかったという話が残っています。金銭や名誉には極めて無頓着で、派手なことには手を出さず、純技術家肌の人でした。土木事業の大御所となりながらも、その気取らない人柄は、数多くの人々から慕われました。