浅田貞次郎【あさだていじろう】
浅田貞次郎
(1855-1942)
安政2年に兵庫県神崎郡神崎町で生まれる。生野銀山払い下げに際し、御下賜金が生野町民に下賜されるよう尽力した。
●生野銀山の地役人へ養子に入る
旧生野町の発展に多大な貢献をした浅田貞次郎は、安政2年(1855)に福本藩士(兵庫県神崎郡神崎町)の四男として生を受けました。17歳の時に、生野銀山の地役人・浅田家の養子となります。地役人とは、代々、生野代官所に仕えた役人のことです。以後、浅田貞次郎はこの銀山のために東奔西走します。

●御下賜金が下賜されるよう奔走
生野の人々の信頼を集めた貞次郎は、銀山廻り11町村の戸長に就任。その後、兵庫県議会議員を経て衆議院議員となり、国政に従事しました。
明治29年(1896)、当時宮内省所轄の官営であった生野銀山が、民間へ払い下げられることになります。貞次郎は町民の永年にわたる協力を政府に訴えるため、町民の代表として上京。宮内大臣や関係役人と交渉を重ね、生野町に当時としては莫大な金額の六萬九千円が下賜されることに貢献しました。町は御下賜金を元に町政の振興を図り、但馬でもいち早く近代化した町となりました。
その後も、貞次郎は生野町の発展に力を注ぎます。交通の近代化なくしては、産業の発展はないと考え、明治29年(1896)に姫路~生野間に播但鉄道を開設。官営の山陰線も開通していない当時としては、画期的な事業でした。
さらに、道路の路面補修、教育発展のために育英金や助成金を私財を投じて捻出するなど、町の振興に多大な貢献を果たしました。その功績を讃え、紺綬褒章・緑綬褒章を授与されました。