2011/06/22  

加藤文太郎【かとうぶんたろう】

 

加藤文太郎【かとうぶんたろう】

加藤文太郎
(1905~1936)
明治38年3月11日、兵庫県美方郡新温泉町(旧浜坂町)浜坂に生まれる。単独行のパイオニアとして知られる登山家。但馬・関西・日本アルプスの山のほとんどを単独登頂。

加藤文太郎記念図書館
2Fフロアーに「加藤文太郎記念資料室」があり、文太郎が使ったスキーなどの道具や手帳、写真・資料が展示されている。また、閲覧室には山に関係する貴重な資料がたくさんある。
・新温泉町浜坂
・TEL.0796-82-5251
・午前10時~午後6時
(月~金)
・午前9時~午後5時
(土・日)
・木曜定休

●関連情報
加藤文太郎記念図書館

●生い立ち
加藤文太郎は明治38年(1905)、浜坂町(現新温泉町)で父加藤岩太郎、母よねの四男として生まれました。家は浜の近くで稼業は漁師でした。外見は温和・寡黙で心優しい文太郎ですが、主体性に富み、一徹で、ひとつの事に熱中すると脇目も振らず熱中するタイプでした。
浜坂小学校高等科を卒業すると、神戸三菱内燃機製作所に製図研究生として入社しました。下宿から会社までの4キロ近くの道を、毎日歩いて通勤していたとか。
大正10年(1921)になると第三学年の副級長を任命されました。また、同時に市立神戸実業補修学校にも入り、2回も優等賞と皆勤賞を受けました。大正12年(1923)には兵庫県立工業学校別科機械科を皆勤で卒業、15年には神戸高等専修学校電気科の課程を卒業し、有能な技師としての知識と技術を磨いていきました。
文太郎は理数系に優れ、趣味もなく仕事一筋でしたが、社内に余暇を遠足で楽しむ目的の会「デテイル会」が結成されるや、たちまちリーダーとして率先、余暇は山歩き一筋に変わりました。それは遠足の域を越えて本格的な登山へ発展していきました。

●単独行の登山家
足の速い彼は次第に驚異的存在となっていきました。彼の単独行の最初は大正14年(1925)、六甲山脈全縦走をおこなった時でした。この時、家を出てから家に帰り着くまで全部歩きづめで約100キロを歩き続けました。この頃から、歩くことに本格的に興味と自信を持つようになり、県下の国道、県道歩きが始まりました。神戸から浜坂の生家に時々帰っていますが、全行程100キロ以上を何度も徒歩で帰っています。但馬の山はほとんど踏破していました。
大正14年(1925)、日本アルプスに登り、本格登山歴の出発点となりました。当時登山する人たちはどちらかというと貴族趣味で、金と時間の充分ある人たちが多かったので服装も派手でした。文太郎の服装は地味で、しかも手づくりの服でしたし、靴も地下足袋を用い、いつも一人だったので、登山家たちからは「単独行の加藤」「地下足袋の加藤」と呼ばれていました。登山では単独行はタブー視され、ポーターを連れずに登る文太郎は軽蔑的に見られ、山岳会では異色でした。
しかし、文太郎自身は、そういう視線に無頓着で黙々と登山を続けました。そして、冬山単独行を成功させ、次第に有名になり名声は上がる一方でした。
昭和10年(1935)、花子と結婚。娘の登志子も生まれ、幸せな日々でした。
昭和11年(1936)元旦、いつもは単独行の文太郎がこの時は友達といっしょに山にいました。そして、遭難。暖かくなった4月、加藤文太郎の遺体が発見されました。
加藤文太郎の生涯は新田次郎氏の名作「孤高の人」となって出版され、多くの人々に感動を与えています。

2011/06/22  

前田純孝【まえだじゅんこう】(翠渓すいけい)

 

前田純孝【まえだじゅんこう】(翠渓すいけい)

前田純孝(翠渓)
(1880~1911)
明治13年4月3日、兵庫県美方郡新温泉町(旧浜坂町)諸寄に生まれる。東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。

歌碑

ふるさとの浜坂町諸寄の海にのぞみ建てられている歌碑

●生い立ち
東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。前田純孝は明治13年(1880)4月3日、浜坂町諸寄(現新温泉町)の旧家に父純正、母うたの長男として生まれました。

父はかつて池田草庵(いけだそうあん)の青谿書院(せいけいしょいん)の門下生で、村一番の教養人でしたが、生活力がなく前田家はどんどん落ちぶれていきました。また、うたを正妻に迎えても愛人との関係を断つことができず、妻の親族から離婚を突きつけられ、母は村岡町の実家へ帰って行きました。純孝3歳の時でした。離婚すると、すぐに愛人が正妻として入り、継母と異母兄弟との生活が始まりました。継母とうまくいかず、悲しみ多い幼児期を過ごしました。

純孝は7歳にして家族と別れ、鳥取師範付属小学校に入学。卒業する15歳まで一度も帰省せず勉学一途に励みました。彼の孤独な感覚は次第に文学へと転化されていきました。

●薄幸の歌人

文学的才能は御影師範学校・東京高等師範学校在学中から発揮され、雑誌「明星」(みょうじょう)の投稿によって、個人的感情的表現は彼の生い立ちと相まって一段と磨かれていきました。

秋雨は親はなくとも育ちたる 我と知りつつ降るとし思ふ

牛の背に我を乗せずや草刈女 春来峠はあう人もなし

君を思う我をはた思う君我の 二人の中のいとし児ぞこれ

大阪島之内高等女学校教頭として赴任、妻信子を得てしばしの幸福感に浸りましたが、長くは続きませんでした。純孝は過労から倒れたのです。肺結核でした。時を同じくして妻も産後の肥立ちが悪化、夫婦枕を並べての療養生活が始まりました。妻子に迷惑をかけないように純孝は療養場所を故郷に移しました。

死の直前まで数々の学校唱歌や歌集を創作し、前田純孝は明石に残した妻子を思いながら31歳の生涯を閉じました。

干からびし我が血を吸いていきてある 虱はさらにあわれなるもの

(絶筆)

風吹かば松の枝なる枝なれば 明石を思ふ妹と子思ふ

純孝の二千数首の珠玉の歌集は純孝研究者たちの力で世の中に蘇ってきました。