2014/12/10  

ネッテイ相撲【ねっていずもう】

 

ネッテイ相撲【ねっていずもう】
ネッテイ相撲
・国選択文化財
・県指定文化財
・養父市奥米地

 

●現代の相撲の原型といわれる
養父市奥米地の水谷神社で行われる「ネッテイ相撲」は、平安時代から朝廷儀式として行われていたもので、四股を踏むことで悪霊を鎮めるとされる相撲神事です。 青色の裃姿の舞い手男性二人が、木太刀で一連の所作を行ったあと、相撲が奉納されます。上半身裸になり、「ヨイ、ヨイ、ヨイ」の掛け声で四股を踏み地を固め、手を振り下ろすことにより、天地が荒ぶれるのを鎮めます。その後、お互いの首をとって三度跳び上がり、元の位置に戻れるかどうかで豊凶を占います。当地では何度も繰り返すことを「練って、練って」といい、相撲の所作で行われる何回も足踏みを繰り返すことから「ネッテイ相撲」と言われるようになったとされています。
古くから伝わるこの「ねっていすもう」は、今の相撲の原型ともされ国選択無形民俗文化財、県指定文化財に指定され、地元の人たちが大切に守り続けています。

2012/02/11  

農村歌舞伎【のうそんかぶき】

 

農村歌舞伎【のうそんかぶき】
農村歌舞伎舞台
農村歌舞伎舞台
(養父市関宮) 民家型入母屋造りの茅葺き。農村歌舞伎舞台で大切な7つの機構を全部備えています。
・国指定重要文化財

■葛畑コミュニティセンター
(養父市葛畑)
・見学希望、問い合わせ
養父市教育委員会
TEL.079-664-1628

●農村歌舞伎のおこり
葛畑(かずらはた)農村歌舞伎舞台は江戸末期、安政5年(1858)頃、荒御霊神社境内に建立されました。藤田甚左衛門らが葛畑座を結成し、農閑期に歌舞伎を上演したのが始まりといわれています。娯楽が少なかった農村では唯一、最大の楽しみで、田植えや蚕(かいこ)飼いが終わる閑期や雨乞いの祈願に、また秋の実りを祝う収穫祭や村祭りに、村人達は自らの手による地狂言を演じたり、あるいは旅役者の一座を招いて村芝居をおこなってきました。 元禄年間、歌舞伎芝居は農村の娯楽として盛んでした。七美郡誌に「百姓の鎧着て出る祭かな」という句も残っています。

●農村歌舞伎舞台の構造
 構造は民家型入母屋造りの茅葺き、内部は地下で舞台をまわす独楽廻式で、舞台の背景を天井から吊るし上げ下げするブドウ棚や、スッポンといわれ、役者を奈落から舞台に上げるせり上がりロ、田楽がえしといわれる背景の移動装置、がんどう返し、二重合など、農村歌舞伎舞台で大切な7つの機構を全部備えています。
明治25年(1892)に本格的な歌舞伎舞台にするため、大阪の舞台建築技術を習い村人総出で修復しました。現存の舞台は昭和51年(1976)に全面改修され、昭和60年(1985)に屋根の葺き替えをおこなっています。
衣裳や小道具も江戸時代から使用されてきたものが、葛畑コミュニティセンターに保存されています。

2011/06/28  

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】

 

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】
大杉
大杉ざんざこ踊
(養父市)
・養父市大屋町大杉二宮神社
8月16日
・国指定無形民俗文化財
若杉
若杉ざんざか踊
(養父市)
・養父市大屋町若杉三宮神社
8月16日
・県指定無形民俗文化財

●関連情報
養父市役所

 

大杉ざんざこ踊
・養父市大屋町/大杉二宮神社/8月16日/国指定無形民俗文化財

大杉ざんざこ踊は鬼踊りとも呼ばれ、かけ声の中、大シデを背負った4人の中踊りを大勢の踊り子が取り囲み、古式にのっとり踊られます。発祥は明らかではありませんが、一説によると、昔、カガミという流行病が村を襲い、これを嘆いた庄屋が慶安2年(1649)に伊勢に参拝した帰途、奈良にてこの踊りを習い覚え、旧暦7月16日、氏神に奉納したところ、村が次第に平穏になったと伝えられています。

若杉ざんざか踊
・養父市大屋町/若杉三社神社/8月16日/県指定無形民俗文化財

大杉ざんざこに対して若杉ざんざか踊は姫踊りという別名が表すように、優雅でかつ古式ゆかしい踊りです。村に残る文書の中に、その昔、大和の修業者が一人やって来て、村で流行していた大難の病気を平癒するため、氏神様に踊りを奉納したことから始まったとされています。

九鹿ざんざか踊り
(養父市)
・養父市八鹿町九鹿日枝神社
10月第3日曜日
・県指定無形民俗文化財

 

九鹿ざんざか踊り
・養父市八鹿町/九鹿日枝神社/10月第3日曜日/県指定無形民俗文化財

神功皇后の三韓征伐の凱旋を祝って踊ったのが始まりと伝えられていますが、由来を明らかにするものがありません。踊りの動作、歌詞、服装などに室町時代の色が濃く、当時の修験者らが疫病退散、五穀豊穣を祈願して、奉納したのが起源と推測されています。
4~5人からなる、かみしも姿の唄い手の踊り唄と、「サンザカザンザカ ザンザカザットゥー」の掛け声に合わせ、紺の筒袖と股引姿の踊り手が踊ります。小中学生が角兵衛獅子の所作に似た子ども踊りで前座をつとめ、青年を中心とした8人が大人踊りを踊り、豆しぼりの手拭いで向こう鉢巻、腰に太鼓、手に木ばちなど古式にのっとたいでたちで、荘重さの中にも力強く、気迫に満ちています。


寺内
寺内ざんざか踊り
(朝来市和田山町)
・朝来市和田山町寺内山王神社
7月第3日曜日
・県指定無形民俗文化財

 

寺内ざんざか踊り
・朝来市和田山町/寺内山王神社/7月第3日曜日/県指定無形民俗文化財

五穀豊穣や子孫繁栄を願って、慶安(1648~1652)のころに始まったといわれ、以来、地元衆の皆さんによって引き継がれています。山王の遣いである猿にふんした12人の踊り手が円陣を組み、腰の太鼓を「ザンザカザットウ」の囃子(はやし)に合わせて打ち鳴らします。また、その中心では2人の踊り手が飾り付けをした高さ3メートルの「しない」と呼ばれる竹を背負い、それをからませたり地面に打ちつけたりしながら踊りを奉納します。


s
久谷ざんざか踊り
(新温泉町・旧浜坂町)
・新温泉町久谷八幡神社
9月15日
・県指定無形民俗文化財

 

久谷ざんざか踊り
・新温泉町(旧浜坂町)/久谷八幡神社/9月15日/県指定無形民俗文化財

全国各地に分布している風流太鼓のひとつで、八幡神社の祭りに、神前や家々の庭先で五穀豊穣や氏子の安全を願って踊られます。踊り手は若い中高生で、華やかな一文字笠をかぶり、腰につけた締太鼓を叩きながら踊ります。
起源は、地元に伝わる伝承や歌の歌詞から、室町時代末から江戸時代のはじめごろに確立したと考えられています。風流太鼓踊りは、手に持つ持ち物や音から西播ではチャンチャコ踊りなどとも呼ばれ、但馬や西播、丹波地方にも残っています。

2011/06/22  

別宮のお綱うち【べっくうのおつなうち】

 

別宮のお綱うち【べっくうのおつなうち】
お綱打ち
別宮のお綱うち(養父市)
・養父市別宮

1月9日

別宮のお綱うち
養父市/別宮/1月9日
150年は続いていると思われる伝統行事。早朝、地区の男たちが集まり、大きな声をかけて、太い藁(わら)をねじりながら回り、三ッ組の太さ約30cm、長さ17~18m、重さ70~80kg大綱を作ります。20数人もの男が交代しながら汗を流す大がかりなもの。できあがった綱は、お綱屋敷で上と下地区に別れ、村中で綱引きをします。7回綱引きをし、最後に上地区が勝ち、その年は豊作になるとされています。綱はその後、カンザキの岡まで運び、大きな2本のケヤキの木に飾るように結びつられます。カリマタの方からくる悪魔を鎮めるとされています。

2011/06/22  

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】

 

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】
お好みのサイズをダウンロードして動画をお楽しみください。

 

高速回線用 低速回線用
5.9MB 1.1MB
PLAY TIME:2分43秒
動画を楽しむためにはMicrosoft社のWindows Media Playerが必要です。

←お持ちでない方はこちらから無償でダウンロードできます。

2011/06/22  

大わらじ・大ぞうり【おおわらじ・おおぞうり】

 

大わらじ・大ぞうり【おおわらじ・おおぞうり】
田ノ口賽の神祭
(豊岡市日高町)
・豊岡市日高町田ノ口

1月第2月曜日

 

田ノ口賽の神祭
豊岡市日高町/田ノ口/1月第2月曜日

賽(さい)の神は、道を遮り悪霊の侵入を防ぐ「道切り」の神として、古くから人々のあつい信仰を集めてきました。一般的には注連縄(しめなわ)をまつりますが、田ノ口では大きさ約1.5mの大草鞋(おおわらじ)と大草履(おおぞうり)をつくります。朝、氏子たちがお堂に集まってつくり、村の賽の神へ運びます。はしごを使って神木に奉納し、神事がとりおこなわれます。


大草履
安井の大草履(養父市)
・養父市安井

1月3日

 

安井の大草履
養父市/安井/1月3日

安井地区で、村を守るための厄除け祈願として古くから行われている神事。男たちが、きれいな打ちわらを少しずつ持ち寄って大草履をつくります。作るのは片方だけで、幅約1m、長さ約1.3mという大きなもの。大草履づくりに関わるのは6~7人で、あとの人たちは家族の無病息災を祈願するための小草履を片方ずつ作ります。

2011/06/22  

お走り祭り【おはしりまつり】

 

お走り祭り【おはしりまつり】
お走り祭り
お走り祭り(養父市)
・養父市養父神社から斎神社

4月15日~16日

●関連情報
養父市役所

 

お走り祭り
・養父市/養父神社から斎神社/4月15日~16日

祭りの由来は、昔々、但馬がまだ泥海だったころ、但馬五社の神様たちが、養父町斎(いつき)神社の彦狭知命(ひこさしりのみこと)に頼んで、豊岡市瀬戸を切り開いてもらい、豊かな大地が生まれたので、養父大明神が代表として、彦狭知命にお礼参りしたことからはじまったとされています。

また、神功(じんぐう)皇后が三韓出征の帰路、養父神社に「葛(くず)の葉餅」を献上され、その一部を斎神社にお供えされたという故事にちなんでいるともいわれています。さらに、この時養父大明神はみたらし渕に泳いでいる「鮭の大王」の背に乗ってこられたとも伝えられ、鮭を川の使い、または川にいる神とする信仰も、お走り祭りに結びつけられたと考えられています。

祭りの朝、「ハットウ、ヨゴザルカ」とかけ声をかけ合いながら、みこしは養父神社を出発。斎神社までの往復40キロの道のりを重さ150キロのみこしを担いでいきます。みこしがまるで軽く走っていくように見えたことから「お走り」という名が付いたといわれています。

現在は、この道のりをすべて走るのではなく、途中は車で運ばれています。養父神社を出発したみこしは、養父町三谷の厳島(いつくしま)神社で斎神社のみこしと合流し、錬りあった後、養父町建屋で一泊。斎神社に参った後、再び建屋で2台のみこしは練り合って別れを惜しみ、それぞれの神社へと帰っていきます。

現在は春の祭りとしておこなわれていますが、もとは12月ひつじの日、帰りは翌日で、古くから「未(ひつじ)走りの申(さる)戻り」といっていました。ところが、旧暦12月は厳寒のころで、川渡りが大変であったことから、明治10年(1877)に、池山の弁天(現厳島神社)祭りの日になったということです。また、養父神社から斎神社への道筋も昔は、険しい御祓山(みはらいさん)を登って行ったという記録が残されており、荒行だったのでは?という説もあります。

2011/06/22  

まいそう祭り【まいそうまつり】

 

まいそう祭り【まいそうまつり】
まいそう祭り
まいそう祭り(養父市)
・養父市大屋町宮本御井神社

1月14日

・国指定無形民俗文化財

 

まいそう祭り
養父市大屋町/宮本御井神社/1月14日

古くから、神社の氏子たちに受け継がれてきた祭りで、古鬼面姿に木鉾を持った鬼をたたき、その年の無病息災を願います。伝説によると、その昔、この地が泥海であった頃、神が3艘の船に乗って渡っていたところ、2艘の行方がわからなくなりました。1艘は大屋町の隣、養父町建屋の船谷で見つかりましたがもう1艘はみつかりません。見つかった1艘の船は「アッター、アッター」と舞う、「御船祭」または「笑祭」と呼ぶ祭りとして伝えられていましたが、今では途絶えてしまい、資料の中でしか確認できません。

しかし、見つからなかったあと1艘は、「まいそう祭り」として残されています。「マーイソーナイ」(もう1艘ない)と呼びかけながら、夜を徹して捜すということが「まいそう祭り」の起こりとされています。

祭りは本殿で神事のあと、神主の御神火から点火された松明(たいまつ)を手に持ち、円陣を組みます。鬼役を演じるのは厄年の男性3人。太鼓の合図にあわせて、右手に木箱、左手に木鉾を持った一番鬼が拝殿から飛び出し、時計と逆回りに円陣をまわります。氏子たちは、「まいそう祭り」の語源である「マーイソーナイ」(もう1艘ない)とはやし立て、炎々と燃えさかる松明を頭上で振りかざしながら、木箱に激しくたたきつけます。二番鬼、三番鬼の順で続き、円陣を三周したあと、ほえ声をあげて本殿にそれぞれ消えます。燃えさかる松明の炎で鬼を追い払う珍しい火祭りです。