2011/06/22  

池田草庵【いけだそうあん】

 

池田草庵【いけだそうあん】

池田草庵

(1813~1878)
文化10年7月23日、兵庫県養父市八鹿町宿南に生まれる。青谿書院を開き、子弟教育に励む。但馬聖人と呼ばれた。



青谿書院

たくさんの門下生たちが学んだ青谿書院。今でも予約をすれば、見学や集会などにも使用可能。
・養父市八鹿町宿南171

・TEL.079-662-4378

●関連情報
養父市役所

●生い立ち
但馬の生んだ偉大な儒学者(中国の古典を研究する人)であり、教育者の池田草庵は養父市八鹿町宿南に文化10年(1813)7月23日に生まれました。池田家はもともと旧家で、村三役(庄屋・組頭・百姓代)の組頭の孫左衛門の三男として生まれ、名を禎蔵といいました。

草庵10歳の時、母が亡くなり、兵庫県養父郡広谷十二所の満福寺にあずけ、僧侶としての修行を積ませることにしました。翌年には父も亡くなりました。住職の不虚上人(ふきょしょうにん)の熱心な指導により、草庵は寺一番の高弟と認められるようになりました。

しかし、天保2年草庵19歳の時、たまたま養父町を訪れた儒学者・相馬九方(そうまきゅうほう)の教えを受け、儒学を志す決心をし、不虚上人の許しのないまま寺を出てしまいました。のちにこの不義理な行動を深く反省し、絵師に「満福寺出奔図」を描かせ、掛け軸として生涯部屋にかけて自らの戒めとしたといいます。

京都へ行った草庵は相馬九方に入門。儒学の他、朱子学、陽明学の哲学を勉強し続けました。自信を得た草庵は、京都一条坊に塾を開きました。草庵の学問や人格の立派なことが故郷の人たちにも知られるようになり、そんな立派な先生ならはやく故郷に帰って、但馬の弟子を教育してもらいたいと願う人が多くなってきました。

但馬でも学習熱が高まり、但馬全体でも40くらいの寺子屋があったといわれます。草庵はこわれるままに故郷に帰ってきました。天保14年(1843)、満福寺を逃げ出して以来13年ぶり、草庵は31歳になっていました。

●青谿書院を開く
故郷に帰った草庵は、八鹿町の「立誠舎」(りっせいしゃ)という建物を借り受け、弟子の教育を開始しました。最初の門人たちの中には、北垣国道原六郎など、のちに大成する人物がたくさんいました。

弘化4年(1847)、草庵35歳の時、自分の生まれた宿南村に念願の学舎を建て、「青谿書院」(せいけいしょいん)と名づけました。この年、草庵は八鹿町の医師・国屋松軒(くにやしょうけん)の妹・久子と結婚しました。

草庵の門人たちは子弟共々共同生活をし、知識を与えるより人間の生き方、人格の完成をめざすもので、知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心を砕きました。門人たちは士族に限らず、農家の後継者としての働き手も多く、農繁期は帰宅して働くなど悪条件での勉学でした。のべ700人に達する但馬内外の子弟を教育しました。

草庵の名声は次第に広がり、遠い宇都宮藩の幼君の教育係としての要請もありましたが、動かず但馬の人材の育成につくしました。

「子は親の鏡という。親を見んとすれば先ずその子弟を見よ」

草庵の門下生からは近代化をめざす明治・大正の日本のリーダーとしての人材を多数輩出しました。まさに草庵は但馬聖人でした。

2011/06/22  

斎藤畸庵【さいとうきあん】

 

斎藤畸庵【さいとうきあん】
斎藤畸庵
(1805~1883)
兵庫県豊岡市城崎町城崎温泉に生まれる。幕末・明治の南画家。
●スケールの大きな南画家

斎藤畸庵は城崎温泉の旅館「伊勢屋」の長男として生まれました。

幼い頃から詩や絵を好み、16歳の時、京都へ出て中林竹洞(なかばやしちくとう)の門に入り、南画(なんが)を学んだと伝えられています。その後、奈良の月ヶ瀬、和歌山の那智(なち)、九州の耶馬渓(やばけい)など各地を旅行し、その風景を描き残しました。

畸庵の作品は山水図が中心で、幕末から明治の南画家としては、スケールの大きな作風を展開しています。郷里・但馬には、各地の寺院を中心に多くの作品が残されてます。

2011/06/22  

前田周助【まえだしゅうすけ】

 

前田周助【まえだしゅうすけ】

前田周助
(1797~1872)
寛政9年、兵庫県美方郡香美町小代区水間に生まれる。但馬牛の改良に人生をかけ、優良な系統牛「周助ツル」を作り出した。今の「但馬牛」の系統の基礎となった。
●生い立ち
美方郡香美町小代区に生まれた前田周助の幼年は、「牛飼い坊主」といわれたほどの牛好きでした。長じてますます牛を愛し、鑑識力に優れ、資財をなげうって、数々の良牛を買い求め続けました。
彼の評判を伝え聞いた兵庫県養父市吉井に住む大博労(だいばくろう)孫左衛門が、はるばる前田家をたずね、その牛を一目見て優秀なのに驚きました。孫左衛門の啓発と援助によって、当時但馬唯一の牛市場であった養父市場に進出しました。周助の取り扱う牛は値段が高いのにかかわらず、飛ぶように売れたので、周助の名とともに小代牛(おじろぎゅう)の名声はますます高くなりました。

●人生をかけた但馬牛の改良
弘化年間、村岡藩主の助力を得て、村岡に臨時の牛市場を開設しました。小代牛の基礎と販路の見通しをつけた周助は、いよいよ念願とする良牛の固定化に向かって動き出しました。しかし、これが至難の業で系統牛となる良い牛の中の良い牛を探し求めて数年間、東へ西へと走り回りました。その間に多額の借金をつくり、家族から見放されてもひるみませんでした。
100年に一度かもしれないという良牛、香美町村岡区の三歳メス牛を手に入れ、飼料の吟味から一切の手入れ、特に繁殖には長年の経験を結集して努力した結果、年々続いて良い子牛を産み、遺伝力も優れており、ここに「周助ツル」の開祖ができあがりました。

※博労(ばくろう)とは
馬や牛の売買や中に入って世話をする人
※ツル(蔓)とは
すじ、系統、類のこと。

2011/06/22  

上田広甫【うえだこうほ】

 

上田広甫【うえだこうほ】

上田広甫
(1791~1861)
兵庫県豊岡市日高町土居に生まれる。未生流二代目家元。

 

●初代いけばなを発展させ、未生流の基盤を築く
上田広甫は豊岡市日高町土居に生まれ、幼名を安太郎といい、遠縁の豪農上田家で働いていました。その頃、未生流の祖(そ)「未生斎一甫(みしょうさいいっぽ)」と出会いました。生け花の素質を認められ、一甫に仕えることになりました。連れられて大阪へ出て修行を積み、未生流華道の奥義を極めました。

2011/06/22  

大石りく【おおいしりく】

 

大石りく【おおいしりく】

大石りく

(1669~1736)
寛文9年、兵庫県豊岡市に生まれる。赤穂浪士の討ち入りで有名な大石内蔵助の妻。


遺髪塚

正福寺にひっそりとたたずむ遺髪塚。中央がりくの遺髪塚、向かって右が吉千代の墓、左がくうの墓。

 

●生い立ち

りくは寛文9年(1669)に豊岡藩の武家屋敷で、石束(いしづか)源五右衛門毎公(つねとも)の長女として生まれました。石束毎公は豊岡藩京極家家臣の筆頭家老でした。
りくは18歳になって、赤穂・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の家臣、首席家老・大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)に嫁ぎます。良雄はこの時28歳でした。大石家は、近江の国(滋賀県)栗太郡(くりたぐん)、宇治川沿いの大石村より出て浅野家に仕え、代々家老をつとめ1500石を賜り内蔵助と称しました。
結婚して間もなく、元禄元年(1688)長男の主税良金(ちからよしかね)が生まれ、3年には長女くう、4年には次男吉之進(きちのしん)(のちに吉千代)が生まれ、にぎやかになりました。

●赤穂浪士の討ち入りのあと妻は…

元禄14年(1701)3月14日、江戸城内、松之廊下で主君浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を腰の小刀で切り付けたのです。浅野内匠頭長矩はただちに切腹。浅野家は断絶、赤穂城は没収となりました。

大石内蔵助が開城準備や残務処理をしました。これらの悲痛な忙しさを裏で支えたのが、妻りくでした。城を明け渡したあと、大石一家は京都の山科へ移り住みました。そこで討ち入りの日を世間をあざむきながら、じっと待ちました。

元禄15年(1702)4月、大石内蔵助は長男・主税を残して、りくと3人の子供たちを豊岡へ返しました。7月には三男・大石大三郎が生まれました。
同年12月14日、大石内蔵助を頭に赤穂浪士たちが吉良上野介邸へ討ち入りました。翌年2月4日、義士一同に切腹を命ぜられました。りくは次女・るりや大三郎と共に豊岡市日撫の隠居所・眞修院(しんしゅういん)に移りました。夫の切腹後は再婚せず、髪を剃り遺児の養育に専念し、良妻賢母で武士の妻の手本として称えられました。

正徳3年(1713)、大三郎が広島藩浅野家に仕官し1500石を賜り、りくも広島で暮らしました。元文元年(1736)11月19日、68歳の生涯を広島でとじました。墓は広島の国泰寺墓地にあり、子どもたちと一緒に眠っています。豊岡市日撫の正福寺には遺髪塚があります。

毎年「りく祭り」が盛大に豊岡市で行われています。