2011/06/22  

斎藤畸庵【さいとうきあん】

 

斎藤畸庵【さいとうきあん】
斎藤畸庵
(1805~1883)
兵庫県豊岡市城崎町城崎温泉に生まれる。幕末・明治の南画家。
●スケールの大きな南画家

斎藤畸庵は城崎温泉の旅館「伊勢屋」の長男として生まれました。

幼い頃から詩や絵を好み、16歳の時、京都へ出て中林竹洞(なかばやしちくとう)の門に入り、南画(なんが)を学んだと伝えられています。その後、奈良の月ヶ瀬、和歌山の那智(なち)、九州の耶馬渓(やばけい)など各地を旅行し、その風景を描き残しました。

畸庵の作品は山水図が中心で、幕末から明治の南画家としては、スケールの大きな作風を展開しています。郷里・但馬には、各地の寺院を中心に多くの作品が残されてます。

2011/06/22  

前田周助【まえだしゅうすけ】

 

前田周助【まえだしゅうすけ】

前田周助
(1797~1872)
寛政9年、兵庫県美方郡香美町小代区水間に生まれる。但馬牛の改良に人生をかけ、優良な系統牛「周助ツル」を作り出した。今の「但馬牛」の系統の基礎となった。
●生い立ち
美方郡香美町小代区に生まれた前田周助の幼年は、「牛飼い坊主」といわれたほどの牛好きでした。長じてますます牛を愛し、鑑識力に優れ、資財をなげうって、数々の良牛を買い求め続けました。
彼の評判を伝え聞いた兵庫県養父市吉井に住む大博労(だいばくろう)孫左衛門が、はるばる前田家をたずね、その牛を一目見て優秀なのに驚きました。孫左衛門の啓発と援助によって、当時但馬唯一の牛市場であった養父市場に進出しました。周助の取り扱う牛は値段が高いのにかかわらず、飛ぶように売れたので、周助の名とともに小代牛(おじろぎゅう)の名声はますます高くなりました。

●人生をかけた但馬牛の改良
弘化年間、村岡藩主の助力を得て、村岡に臨時の牛市場を開設しました。小代牛の基礎と販路の見通しをつけた周助は、いよいよ念願とする良牛の固定化に向かって動き出しました。しかし、これが至難の業で系統牛となる良い牛の中の良い牛を探し求めて数年間、東へ西へと走り回りました。その間に多額の借金をつくり、家族から見放されてもひるみませんでした。
100年に一度かもしれないという良牛、香美町村岡区の三歳メス牛を手に入れ、飼料の吟味から一切の手入れ、特に繁殖には長年の経験を結集して努力した結果、年々続いて良い子牛を産み、遺伝力も優れており、ここに「周助ツル」の開祖ができあがりました。

※博労(ばくろう)とは
馬や牛の売買や中に入って世話をする人
※ツル(蔓)とは
すじ、系統、類のこと。

2011/06/22  

上田広甫【うえだこうほ】

 

上田広甫【うえだこうほ】

上田広甫
(1791~1861)
兵庫県豊岡市日高町土居に生まれる。未生流二代目家元。

 

●初代いけばなを発展させ、未生流の基盤を築く
上田広甫は豊岡市日高町土居に生まれ、幼名を安太郎といい、遠縁の豪農上田家で働いていました。その頃、未生流の祖(そ)「未生斎一甫(みしょうさいいっぽ)」と出会いました。生け花の素質を認められ、一甫に仕えることになりました。連れられて大阪へ出て修行を積み、未生流華道の奥義を極めました。

2011/06/22  

大石りく【おおいしりく】

 

大石りく【おおいしりく】

大石りく

(1669~1736)
寛文9年、兵庫県豊岡市に生まれる。赤穂浪士の討ち入りで有名な大石内蔵助の妻。


遺髪塚

正福寺にひっそりとたたずむ遺髪塚。中央がりくの遺髪塚、向かって右が吉千代の墓、左がくうの墓。

 

●生い立ち

りくは寛文9年(1669)に豊岡藩の武家屋敷で、石束(いしづか)源五右衛門毎公(つねとも)の長女として生まれました。石束毎公は豊岡藩京極家家臣の筆頭家老でした。
りくは18歳になって、赤穂・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の家臣、首席家老・大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)に嫁ぎます。良雄はこの時28歳でした。大石家は、近江の国(滋賀県)栗太郡(くりたぐん)、宇治川沿いの大石村より出て浅野家に仕え、代々家老をつとめ1500石を賜り内蔵助と称しました。
結婚して間もなく、元禄元年(1688)長男の主税良金(ちからよしかね)が生まれ、3年には長女くう、4年には次男吉之進(きちのしん)(のちに吉千代)が生まれ、にぎやかになりました。

●赤穂浪士の討ち入りのあと妻は…

元禄14年(1701)3月14日、江戸城内、松之廊下で主君浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を腰の小刀で切り付けたのです。浅野内匠頭長矩はただちに切腹。浅野家は断絶、赤穂城は没収となりました。

大石内蔵助が開城準備や残務処理をしました。これらの悲痛な忙しさを裏で支えたのが、妻りくでした。城を明け渡したあと、大石一家は京都の山科へ移り住みました。そこで討ち入りの日を世間をあざむきながら、じっと待ちました。

元禄15年(1702)4月、大石内蔵助は長男・主税を残して、りくと3人の子供たちを豊岡へ返しました。7月には三男・大石大三郎が生まれました。
同年12月14日、大石内蔵助を頭に赤穂浪士たちが吉良上野介邸へ討ち入りました。翌年2月4日、義士一同に切腹を命ぜられました。りくは次女・るりや大三郎と共に豊岡市日撫の隠居所・眞修院(しんしゅういん)に移りました。夫の切腹後は再婚せず、髪を剃り遺児の養育に専念し、良妻賢母で武士の妻の手本として称えられました。

正徳3年(1713)、大三郎が広島藩浅野家に仕官し1500石を賜り、りくも広島で暮らしました。元文元年(1736)11月19日、68歳の生涯を広島でとじました。墓は広島の国泰寺墓地にあり、子どもたちと一緒に眠っています。豊岡市日撫の正福寺には遺髪塚があります。

毎年「りく祭り」が盛大に豊岡市で行われています。