長 熈【ちょうひろし】・長 耕作【ちょうこうさく】
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●生い立ち 美方郡香美町香住区一日市の資産家・長九郎右衛門久助の長男として、安政6年(1851)1月に生まれました。若い頃、草場塾で漢字を修め、明治維新の動乱期の中であらゆる書物を読みあさり、数学や経済などを独学で勉強しました。30歳になった明治21年(1888)4月に、美含郡(みぐみぐん)代表の県議会議員に当選しました。 その後、家を継いで農林業のかたわら、サバ・アジ・イワシなどの漁を手がけました。半農半漁の貧しい生活のため、冬になると出稼ぎをしなければならない漁師の生活を、なんとか良くしたいと思い、漁業の発展をめざして努力しました。そして、初代漁業組合長に選ばれました。 ●香住の漁業発展の基礎を築く 大正5、6年頃になると、柴山や津居山で発動機付漁船による沖手ぐり網漁が営まれ、帆船による漁法に比べて、漁獲成績に大きな差が出てきました。港をつくらなければ、香住の漁業はダメになってしまうと思い、香住漁港修築を第一の使命と考えました。 港湾修築の先頭に立っていた熈組合長が病に倒れ、大正10年(1921)8月29日、思いを残したままこの世を去りました。しかし、その志は息子の耕作へと受け継がれました。 耕作は、明治20年(1887)1月11日、熈の次男として生まれました。豊岡中学校、早稲田実業学校(のちの早稲田大学)を卒業しましたが、兄が若くして亡くなったので、父の死去によりその跡を継ぎました。父と同じように、大正11年(1922)には香住村漁業組合の第三代目組合長に就任。続いて、翌12年には37歳の若さで香住村の村長にもなりました。 そして、香住漁港修築を香住村最大の問題として取り上げ、役場と漁業組合が一体となって取り組みました。昭和3年(1927)、漁港修築のための測量が農林省から派遣された技師によって行われました。翌年には漁港修築の企画案が届きました。7月の吉日に竣工式が行われ、漁業関係者や多くの町民が喜び合いました。 昭和4年8月12日、突然病に倒れ、町のため漁業組合のために尽くした43歳の生涯を静かに閉じました。 昭和37年(1962)7月、香住町漁業協同組合によって、香住漁港修築をはじめ一連の漁業発展のために情熱と命と私財を捧げてきた、長熈・耕作父子の功績をたたえる顕彰碑の除幕式が行われ、たくさんの人々が参列しました。今もこの顕彰碑は漁業発展の守護神のように出入りする漁船をじっと見守っています。 |