2011/06/22  

古島一雄【こじまかずお】

 

古島一雄【こじまかずお】

古島一雄
(1865~1952)

兵庫県豊岡市に生まれる。「日本」に新聞記者として入社。戦後、政界の指南番と称された。

衆議院議員当選6回・政務次官・貴族院議員

●戦後の政界の指南番

豊岡市に生まれた古島一雄は、浜尾新の世話になり、杉浦重剛(すぎうらじゅうこう)のもとに通って教えを受けました。むこう意気が強く筋を通すところが重剛に気に入られ、彼の推薦で『日本』に新聞記者として入社しました。

のちに政界に転じて代議士に、また貴族院議員にも選ばれました。戦後には総理大臣の進退にも関わり、政界の指南番と称されました。

2011/06/22  

河本重次郎【こうもとじゅうじろう】

 

河本重次郎【こうもとじゅうじろう】

河本重次郎

(1859~1938)

兵庫県豊岡市生まれ。日本近代眼科の父と呼ばれる。

●日本近代眼科の父

河本重治郎は豊岡に生まれ、藩校稽古堂で池田草庵に学びました。13歳の時に豊岡出身の猪子止か之助(いのこしかのすけ)、和田垣謙三(わだがきけんぞう)と共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京しました。

横浜在住の叔父・中江種造方からドイツ語の学校へ通い、のち東京大学医学部へと進みました。同級生に北里柴三郎がいました。ここを首席で卒業した重治郎は、同学部外科学教室の助手となり、明治18年(1885)に留学を命じられて渡欧しました。明治22年(1889)に帰国すると東京大学眼科学教室主任教授に任じられ、以後33年間その職にあって、日本の眼科を先進国の水準に近づけ、さらに発展させて、日本近代眼科の父と称せられる人となりました。

 

2011/06/22  

長 熈【ちょうひろし】・長 耕作【ちょうこうさく】

 

長 熈【ちょうひろし】・長 耕作【ちょうこうさく】

長 熈
(1851~1911)
安政6年1月20日、兵庫県美方郡香美町香住区一日市に生まれる。初代香住村漁業組合長に就任。香住漁港をつくるために奔走。


長 耕作
(1887~1929)
明治20年1月11日、兵庫県美方郡香美町香住区一日市に生まれる。長熈の次男。父の遺志を継ぎ、香住漁港起工にこぎつける。

●生い立ち
美方郡香美町香住区一日市の資産家・長九郎右衛門久助の長男として、安政6年(1851)1月に生まれました。若い頃、草場塾で漢字を修め、明治維新の動乱期の中であらゆる書物を読みあさり、数学や経済などを独学で勉強しました。30歳になった明治21年(1888)4月に、美含郡(みぐみぐん)代表の県議会議員に当選しました。

その後、家を継いで農林業のかたわら、サバ・アジ・イワシなどの漁を手がけました。半農半漁の貧しい生活のため、冬になると出稼ぎをしなければならない漁師の生活を、なんとか良くしたいと思い、漁業の発展をめざして努力しました。そして、初代漁業組合長に選ばれました。

●香住の漁業発展の基礎を築く

大正5、6年頃になると、柴山や津居山で発動機付漁船による沖手ぐり網漁が営まれ、帆船による漁法に比べて、漁獲成績に大きな差が出てきました。港をつくらなければ、香住の漁業はダメになってしまうと思い、香住漁港修築を第一の使命と考えました。

港湾修築の先頭に立っていた熈組合長が病に倒れ、大正10年(1921)8月29日、思いを残したままこの世を去りました。しかし、その志は息子の耕作へと受け継がれました。

耕作は、明治20年(1887)1月11日、熈の次男として生まれました。豊岡中学校、早稲田実業学校(のちの早稲田大学)を卒業しましたが、兄が若くして亡くなったので、父の死去によりその跡を継ぎました。父と同じように、大正11年(1922)には香住村漁業組合の第三代目組合長に就任。続いて、翌12年には37歳の若さで香住村の村長にもなりました。

そして、香住漁港修築を香住村最大の問題として取り上げ、役場と漁業組合が一体となって取り組みました。昭和3年(1927)、漁港修築のための測量が農林省から派遣された技師によって行われました。翌年には漁港修築の企画案が届きました。7月の吉日に竣工式が行われ、漁業関係者や多くの町民が喜び合いました。

昭和4年8月12日、突然病に倒れ、町のため漁業組合のために尽くした43歳の生涯を静かに閉じました。

昭和37年(1962)7月、香住町漁業協同組合によって、香住漁港修築をはじめ一連の漁業発展のために情熱と命と私財を捧げてきた、長熈・耕作父子の功績をたたえる顕彰碑の除幕式が行われ、たくさんの人々が参列しました。今もこの顕彰碑は漁業発展の守護神のように出入りする漁船をじっと見守っています。

2011/06/22  

浜尾 新【はまおあらた】

 

浜尾 新【はまおあらた】

浜尾 新
(1849~1925)

嘉永2年4月20日、兵庫県豊岡市京町に生まれる。東京美術大学(現芸大)を創立し、東京大学総長として東京大学のために尽くした。

元老院議官・貴族院議員・文部大臣・枢密院議長・東宮大夫

東京大学構内に建つ銅像

●生い立ち
東京大学の発展に一生を捧げた浜尾新は、嘉永2年(1849)4月20日、豊岡市京町に豊岡藩江戸詰めの下級武士・浜尾嘉兵治の子として生まれました。5歳の時、父を失いました。

14歳の時、藩主夫人が豊岡に帰ることになり、浜尾は母親ゆうと同行し、豊岡で生活することになりました。幼くして藩に出仕して、父と同じく記録係の仕事をしました。
藩邸の東側には武術の稽古場と藩校稽古堂があり、文武両道に励みました。また藩邸の北側一帯は武家屋敷で豊岡藩の頭脳集団の住居でもありました。家老の船木克己、京都大学医学部名誉教授の猪子止か之助(いのこしかのすけ)、東京大学法学部教授の和田垣謙三、東京大学医学部眼科の権威・河本重次郎、文部大臣の久保田譲、政界のご意見番・古島一雄など明治・大正に活躍する秀才たちがたくさんいました。彼らとの交遊は浜尾の人間の幅を広げていく要因となりました。
但馬聖人・池田草庵は稽古堂に出張して講義し、藩の子弟たちに多くの感銘を与えたました。浜尾の知的人格形成は草庵によって形成されたといってもよいでしょう。

●東京大学と共に生きる

豊岡藩では人材育成のために藩費遊学制度をつくって廃藩まで、のべ11人の優秀な人材を江戸へ送り、勉強させました。浜尾は20歳の時選ばれて、慶應義塾・大学南校(東大)に学び、主としてフランス語を専攻しました。その後、東京大学舎監として学生たちの世話係をつとめる一方、アメリカ留学も果たしました。
明治10年(1877)、出石町出身の加藤弘之は開成学校(のちの東京大学)の綜理(総長)を命じられ、浜尾は副綜理として、加藤とコンビを組んで東大の運営と改革に献身しました。その後、文部省学務局長もつとめ、教育改革の一環として美術教育振興のため、上野に美術学校(のちの芸大)を創立させました。

明治26年(1893)加藤弘之は東京大学総長を辞任し、後任に浜尾を推薦、浜尾45歳にして東京帝国大学総長に就任しました。その後、しばらく文部大臣をつとめたあと、再び東京帝国大学総長をつとめました。

但馬の加藤弘之・浜尾新のコンビは東京大学育ての親といえます。東京大学構内には浜尾の銅像が設置されており、浜尾が植えた銀杏並木は東京大学100年の歴史を物語っています。

2011/06/22  

桜井 勉【さくらいつとむ】

 

桜井 勉【さくらいつとむ】

桜井 勉
(1843~1931)
天保14年9月13日、兵庫県豊岡市出石町伊木に生まれる。出石藩弘道館長。徳島・山梨・台湾新竹県知事。「校補但馬考」を著す。

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

●生い立ち

桜井家は代々出石藩の儒官の家でした。父・石門には長男・熊一(勉)、次男・熊二、三男・熊三の3人の子供がおり、次男は木村家に、三男は近藤家に養子にいきました。
桜井勉は8歳で弘道館に入学し文武を学び、堀田省軒(ほったしょうけん)にも入門しました。元治元年(1864)江戸に行き、芳野金陵(よしのきんりょう)について学びました。慶応3年(1867)、今度は三重県に行き、漢学者・土井こう牙(が)の門をくぐりました。

●明治の新国家設立に尽くす

明治元年(1868)3月藩主のすすめで貢士(こうし)となり、新政府への与論を答申しました。出石藩の藩政改革に励み、日本で最初の公園といわれる「楽々園」を明治2年に完成させました。明治5年(1872)、横浜税関勤務を命じられ、その後、地租改正や気象測候所の創設、現在の兵庫県が誕生したのも桜井勉の進言によるといわれています。

徳島県知事、衆議院議員、山梨県知事、台湾新竹知事を歴任、明治34年(1901)には内務省神社局長に就任、翌年5月に退官。晩年は出石の自邸・有子山園で悠々自適の生活を送りました。
出石に引退後は「校補但馬考」を著すことに精力的に取り組み、大正11年(1922)に完成しました。但馬の郷土史研究の基礎となる一大著述です。豊岡市出石町に数多くの記念碑を残し、出石神社に武具、刀剣を寄進、弘道小学校に書や古文書数百冊を寄贈しています。

昭和6年(1931)10月12日、88歳で亡くなりました。

2011/06/22  

原 六郎【はらろくろう】

 

原 六郎【はらろくろう】

原 六郎
(1842~1933)
天保13年11月9日、兵庫県朝来市佐中に生まれる。金融・産業界の中枢的存在として活躍。第百国立銀行頭取・東京貯蓄銀行頭取・横浜正金銀行頭取・帝国ホテル開業。
●生い立ち
天保13年(1842)、朝来市佐中の大地主、 進藤丈右衛門長廣の第10子、姉4人、兄5人の末っ子として生まれました。22歳までは進藤俊三郎、それから後は原六郎と名前を変えます。

安政2年(1855)13歳の時、池田草庵の青谿書院へ入門しました。当時は尊皇攘夷派の動きが激しくなる頃で、原六郎は尊攘論を唱え、政治活動を学問の邪道と考える池田草庵と相容れず、北垣国道たちと共に青谿書院を脱退しました。

文久3年(1863)生野義挙が起こり、これに身を投じましたが戦いに破れ、鳥取に逃げました。生野義挙に関係した者に対する捜索はきびしく、名前を原六郎と改め、以後本名を生涯使うことはありませんでした。

慶応元年(1865)、高杉晋作に会い、長州藩の守備隊に入り、翌2年には長州征伐の幕府軍と戦い、のち山口の陸軍兵学校明倫館で大村益次郎について、フランス式の練兵を学びました。王政復古ののち、長州を去り、以後、官軍にあってはなやかな軍人としての道を選びました。

●金融・産業界の中枢的存在

明治4年(1871)、政府の推薦でアメリカに留学。6年(1873)春エール大学で経済学を学び、7年(1874)イギリスに渡りレオン・レヴィについて経済学・社会学を修め、10年(1877)5月に帰国しました。帰国した彼は金融業界へ入り、第百国立銀行の頭取として活躍し、その手腕は世間に高く評価されました。

当時、わが国の貿易関連の横浜正金銀行は、経済不況の影響を受けて倒産寸前に追い込まれていました。明治16年(1883)原六郎に、この大事を託すべく頭取となり、銀行改革の大事業を成功させました。その他の金融業にあっては帝国商業銀行、台湾銀行、日本興業銀行の創設にも関与しています。

原六郎の経済人としての仕事は金融業だけにとどまらず、山陽鉄道、播但鉄道、阪鶴鉄道、総武鉄道、東部鉄道、南和鉄道、九州鉄道、北陸鉄道など、関係した鉄道は多く、東京電燈、横浜ドック、富士製紙、富士紡績、横浜水道の設備などにも多くの貢献をしました。わが国の金融・産業界の中枢的存在として活躍しました。
朝来市の山口小学校には講堂兼体育館を兄丈右衛と二人で寄贈。青谿書院に対しては財団法人とするための基金や祠堂を、また生野義挙で13名が自刀した山口に、招魂社(護国神社)を建立するに際して基金を寄せると共に、祭典に列席するなど故郷への心配りを忘れませんでした。

昭和8年(1933)11月14日、92歳の天寿をまっとうしました。

2011/06/22  

堀田瑞松【ほったずいしょう】

 

堀田瑞松【ほったずいしょう】

堀田瑞松
(1837~1916)

兵庫県豊岡市城南町に生まれる。彫刻家、発明家、専売特許第1号獲得。

●専売特許第1号

堀田瑞松は豊岡市城南町の刀の鞘(さや)の塗師(ぬりし)の家に生まれました。22歳で京都に出て、鉄筆一刀彫(てっぴついっとうぼり)の名手となり、紫檀(したん)の置物台を孝明天皇に彫刻献上し、名前に「瑞」の一字を賜りました。
やがて、東京に移りさび止め塗料を発明し、明治18年(1885)「堀田錆止(さびどめ)塗料及び其塗法(そのとほう)」で我が国の専売特許第1号を獲得しました。

2011/06/22  

北垣国道【きたがきくにみち】

 

北垣国道【きたがきくにみち】

北垣国道
(1836~1915)
天保7年8月、兵庫県養父市能座村に生まれる。生野義挙に参加。京都府知事、北海道庁長官、貴族員議員、明治維新資料編纂委員、枢密院顧問官を歴任し明治の官界で活躍。
●生い立ち
若くして池田草庵に学び、生野義挙に参画した北垣国道(幼名晋太郎)は、養父市能座村の庄屋・北垣家の長男として天保7年(1836)8月に生まれました。父・三郎左衛門は、儒学を修めまわりの農民から信頼されていました。母・利喜は村岡藩岡丹治郎の娘で、物静かで気丈な人でした。

天保14年(1843)、北垣は父のすすめに従い、池田草庵のもとで原六郎らとともに論語など漢学を学びました。勉強も大変良くできたといいます。

長く続いた徳川の幕藩体制が揺らぎ、近代国家に生まれ変わろうとする幕末。北垣国道は尊皇攘夷派の活動にのめり込んでいきました。師である池田草庵の反対を押し切って、慶応元年(1865)原六郎たちといっしょに生野義挙に参加しましたが、生野挙兵は失敗に終わりました。

●明治の官界で活躍

因幡に逃れた北垣国道は、名前を変えて鳥取藩に仕官しました。戊辰(ぼしん)戦争の北越征討軍に参加し、新政府から認められたのが、官界に入る第一歩となりました。

その後、元老院少書記官、熊本県知事、内務少書記官、高知県知事を経て、明治14年(1881)京都府知事になりました。在任中、琵琶湖の水を京都市に引く疎水工事を完成させたことは有名で、その後の京都の開発に大きく貢献しました。

のち北海道庁長官、拓殖務次官、貴族員議員、枢密院顧問官を歴任し、明治の官界で活躍しました。

2011/06/22  

加藤弘之【かとうひろゆき】

 

加藤弘之【かとうひろゆき】

加藤弘之

(1836~1916)
天保7年6月23日、兵庫県豊岡市出石町谷山に生まれる。東京大学初代総長をはじめ、官界学界の多数の官職を歴任。

文部大丞・元老員議官・貴族員議員・宮中顧問官・学士院院長・枢密顧問官



生家

現在も豊岡市出石町に残る生家。

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

●生い立ち
加藤弘之は天保7年(1836)6月23日、豊岡市出石町谷山に、出石藩用人・加藤正照の長男として生まれました。10歳になった加藤は藩校弘道館に通って朱子学を中心とした儒学を学びましたが、兵学師範の子としては兵学も学ぶ必要があり、練兵・武術の手ほどきも受けました。

17歳の時、父に従って江戸に行き、甲州兵学・儒学・洋学を学んだ加藤は、次第に洋学に魅せられ哲学・倫理学・法学などを勉強していきました。

江戸で貧しさと戦いながら勉学に励んでいた頃、郷土の父が亡くなりました。母は早く死亡し兄弟もすでに亡くなっていたので、加藤は天涯孤独の身となりました。

●明治維新の担い手

桜田門外の変の起こった万延元年(1861)、幕府より蕃書調所(東大の前身)教授手伝に採用されました。蕃書調所は幕府が各藩の指導者を養成するためにつくった学校です。加藤は幕府の御用学者としての権威主義的色彩を強く持つようになります。福沢諭吉の私塾(慶應義塾)経営の方向とは好対照でした。

加藤はドイツ学を究め、明治天皇教育のため「国法汎論」を講義し、憲法・三権分立・市町村自治のだいたいの意味をたたき込んだといわれます。また、ヨーロッパから輸入された「天賦人権論」(すべての人間は生まれながらにして自由・平等の生活をする権利を有するとする思想)を信じ尊びました。明治維新により四民平等(江戸時代につくられた身分制度である士・農・工・商が廃止された)がうたわれているのに、被差別部落民はいぜん差別されている現実を嘆き、恥ずかしいと主張。文部大丞権判事であった加藤は「被差別部落民を平民とする」という解放令の議案を公議所(議会)に提出可決し、明治4年8月解放令の大政官布告となったのです。

加藤は明治10年(1877)開成学校(のちの東京大学)綜理を命じられ、のち、明治23年(1890)再び、初代東京帝国大学総長になり、貴族院議員にも選ばれました。明治21年(1888)には文学博士、38年(1905)には法学博士を授けられました。26年(1893)には東大総長を辞任し、宮中顧問官を任じられ、33年(1900)華族となり男爵を授けられました。39年(1906)には枢密顧問官になりました。

その後、役職としては教育調査会総裁、高等教育会議議長、文学博士会会長、哲学会会長、国家学会評議員長、ドイツ学協会学校長、学士院院長など、その経歴は多彩で華やかなものでありました。また、憲法・政治・道徳・法律・哲学に関する膨大な著書を残しています。

官界学界の多数の官職を歴任し、明治の総帥(そうすい)として頂点を極め、大きな功績を残し、大正5年(1916)81歳の生涯を全うしました。

2011/06/22  

池田草庵【いけだそうあん】

 

池田草庵【いけだそうあん】

池田草庵

(1813~1878)
文化10年7月23日、兵庫県養父市八鹿町宿南に生まれる。青谿書院を開き、子弟教育に励む。但馬聖人と呼ばれた。



青谿書院

たくさんの門下生たちが学んだ青谿書院。今でも予約をすれば、見学や集会などにも使用可能。
・養父市八鹿町宿南171

・TEL.079-662-4378

●関連情報
養父市役所

●生い立ち
但馬の生んだ偉大な儒学者(中国の古典を研究する人)であり、教育者の池田草庵は養父市八鹿町宿南に文化10年(1813)7月23日に生まれました。池田家はもともと旧家で、村三役(庄屋・組頭・百姓代)の組頭の孫左衛門の三男として生まれ、名を禎蔵といいました。

草庵10歳の時、母が亡くなり、兵庫県養父郡広谷十二所の満福寺にあずけ、僧侶としての修行を積ませることにしました。翌年には父も亡くなりました。住職の不虚上人(ふきょしょうにん)の熱心な指導により、草庵は寺一番の高弟と認められるようになりました。

しかし、天保2年草庵19歳の時、たまたま養父町を訪れた儒学者・相馬九方(そうまきゅうほう)の教えを受け、儒学を志す決心をし、不虚上人の許しのないまま寺を出てしまいました。のちにこの不義理な行動を深く反省し、絵師に「満福寺出奔図」を描かせ、掛け軸として生涯部屋にかけて自らの戒めとしたといいます。

京都へ行った草庵は相馬九方に入門。儒学の他、朱子学、陽明学の哲学を勉強し続けました。自信を得た草庵は、京都一条坊に塾を開きました。草庵の学問や人格の立派なことが故郷の人たちにも知られるようになり、そんな立派な先生ならはやく故郷に帰って、但馬の弟子を教育してもらいたいと願う人が多くなってきました。

但馬でも学習熱が高まり、但馬全体でも40くらいの寺子屋があったといわれます。草庵はこわれるままに故郷に帰ってきました。天保14年(1843)、満福寺を逃げ出して以来13年ぶり、草庵は31歳になっていました。

●青谿書院を開く
故郷に帰った草庵は、八鹿町の「立誠舎」(りっせいしゃ)という建物を借り受け、弟子の教育を開始しました。最初の門人たちの中には、北垣国道原六郎など、のちに大成する人物がたくさんいました。

弘化4年(1847)、草庵35歳の時、自分の生まれた宿南村に念願の学舎を建て、「青谿書院」(せいけいしょいん)と名づけました。この年、草庵は八鹿町の医師・国屋松軒(くにやしょうけん)の妹・久子と結婚しました。

草庵の門人たちは子弟共々共同生活をし、知識を与えるより人間の生き方、人格の完成をめざすもので、知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心を砕きました。門人たちは士族に限らず、農家の後継者としての働き手も多く、農繁期は帰宅して働くなど悪条件での勉学でした。のべ700人に達する但馬内外の子弟を教育しました。

草庵の名声は次第に広がり、遠い宇都宮藩の幼君の教育係としての要請もありましたが、動かず但馬の人材の育成につくしました。

「子は親の鏡という。親を見んとすれば先ずその子弟を見よ」

草庵の門下生からは近代化をめざす明治・大正の日本のリーダーとしての人材を多数輩出しました。まさに草庵は但馬聖人でした。