柴田勝太郎【しばたかつたろう】
|
||
|
●農業の近代化に貢献 柴田勝太郎は朝来市山東町大月に生まれました。大正4年(1915)、東北大学理学部科学科を卒業し、アンモニアやメタノールの合成研究において画期的な成果をあげ、企業化に成功しました。 特に昭和12年(1937)から10年間にわたる尿素の研究成果は、尿素肥料として農業の近代化に大きく貢献し、その製造法は世界的に認められ、称賛されました。 |
2011/06/22 先人たち
柴田勝太郎【しばたかつたろう】
|
||
|
●農業の近代化に貢献 柴田勝太郎は朝来市山東町大月に生まれました。大正4年(1915)、東北大学理学部科学科を卒業し、アンモニアやメタノールの合成研究において画期的な成果をあげ、企業化に成功しました。 特に昭和12年(1937)から10年間にわたる尿素の研究成果は、尿素肥料として農業の近代化に大きく貢献し、その製造法は世界的に認められ、称賛されました。 |
2011/06/22 先人たち
赤木正雄【あかぎまさお】
|
||
|
●生い立ち
日本治水砂防の神様・赤木正雄は明治20年(1887)3月24日、豊岡市引野に生まれました。父甚太夫、母たみの四女二男の末っ子で、地方の豪農であった赤木家は甚太夫で11代目に当たります。 正雄の生まれたこの一帯は円山川の右岸にあり、過去に幾度も氾濫を繰り返し被災しました。洪水の恐ろしさは小さな頃から心に刻み込まれたに違いありません。 豊岡中学を卒業後、単身上京した正雄は、早稲田大学生の兄に迎えられ一緒に同居し勉強することとなりました。明治41年(1908)念願の第一高等学校に入学。明治43年(1911)9月我が国は大水害を受けました。その時、新渡戸稲造第一高等学校長は始業式で「治水事業は華々しい仕事ではないが、諸君のうち一人でも治水に身を捧げて、水害をなくすことに志を立てる者はいないか」とお話をされました。 これを聞いた正雄は、「よし、治水事業に自分の身を投げ出そう。そして、その上の砂防を研究しよう」と決心しました。 ●治水砂防の神様 東京帝国大学農学部林学科砂防に学び、林学出身者ではじめて内務省に就職しました。鬼怒川、信濃川、木津川、瀬田川、富士川、神通川、天竜川、六甲山など全国の砂防工事を指導しました。 在職すること28年、内務省技術陣のほとんどが土木出身者という中で一人、林学出身の赤木は困難を克服しようと努力しました。そして、数々の実績を積み、日本に「赤木砂防」を普及させました。また、渓流河川(上流)の改修を一般河川改修の分野から取り外して砂防工事の分野に入れ、ついに土木局内から砂防課を創設するという治水機構の根本的改正を実現させました。 円山川直轄工事・一級河川編入・山陰海岸国立公園編入をはじめ、但馬小中河川改修に果たした功績は大きいものがあります。 ※砂防とは 山地・海岸・河岸などで土砂の破壊・流出・移動などを植林・護岸・水制・ダムなどにより防止すること。 |
2011/06/22 先人たち
藤原東川【ふじわらとうせん】
|
||
|
●生い立ち 明治20年(1887)1月18日、朝来市和田山町宮に、父・久蔵、母・さとの長男として生まれ、与八郎と名付けられました。素直で明るく、成績もよかったので、学校や村の人たちからの信頼もあつく、みんなから大切にされていました。小学校高等科を主席の成績で卒業し、本人も学校も進学を希望したのですが、跡取りとして百姓をしなければならず、進学はかないませんでした。 農業にあけくれる生活の中で、これではだめだと村を出る決心をし、明治37年(1904)、17歳の時、突然神戸へ出ていきました。しかし、学歴もなく特別な技術も持たない彼は、その日その日によって仕事を転々とする日雇い人夫しか働き口がなく、ついに絶望の果て、郷里に帰ることになりました。 故郷に帰った彼は、農業のかたわら漢詩を学び、新聞・雑誌の文芸欄に投稿し続け、作品がしばしば入選し、認められるようになりました。 ●農民の喜びや悲しみを歌に 明治43年(1910)、いよいよ文筆活動で世に立とうと考え、家族の反対を押し切って東京に出ました。当時24歳でした。ところが、生活費に困り、学費が続かず、途中で退学。翌44年(1911)、東京での生活を断念、再び故郷へ帰らざるを得なくなりました。 帰郷後の彼は、ますます勉強に励み、大正4年(1915)29歳の時、中路よしと結婚。翌年、若山牧水主宰の歌誌『創作』の詩友となり、本格的な歌人としてのスタートを切りました。 東川の但馬歌壇における功績は、但馬の歌人を結集して一つの大きなエネルギーを作り出したことです。これまで、但馬の歌壇は結社ごとに独立して、他の結社との交渉はほとんどありませんでした。東川の作った『雪線』はそれぞれの独立性を尊重しながら、短歌を作るという共通の目標を結集した原点です。『雪線』は昭和58年(1983)400号を突破し、会員も300名を越えました。『雪線』は平成元年(1989)1月号より『但丹歌人』と改め、現在に及んでいます。東川が但馬歌壇の父といわれ、今も多くの人から敬愛され、圧倒的な地位を占めている理由がここにあります。また、但馬史研究会の創設に力を尽くしたことも忘れてはなりません。 春いまだ野は 冬枯れのままながら 柳畑のいろのあかるさ 野良ぐるま ひきてかえるに道遠く いつしか月の光をぞ踏む 春によし 夏はまたよし 秋はなほ今日あたためて飲む冬の酒 張り替えて 吉き日をぞ待つわが家の障子 さやけき今朝は雪晴れ 昭和41年(1966)3月19日、多くの人々に惜しまれながら、生涯を閉じました。享年79歳でした。 |
2011/06/22 先人たち
前田純孝【まえだじゅんこう】(翠渓すいけい)
|
||
|
●生い立ち 東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。前田純孝は明治13年(1880)4月3日、浜坂町諸寄(現新温泉町)の旧家に父純正、母うたの長男として生まれました。 父はかつて池田草庵(いけだそうあん)の青谿書院(せいけいしょいん)の門下生で、村一番の教養人でしたが、生活力がなく前田家はどんどん落ちぶれていきました。また、うたを正妻に迎えても愛人との関係を断つことができず、妻の親族から離婚を突きつけられ、母は村岡町の実家へ帰って行きました。純孝3歳の時でした。離婚すると、すぐに愛人が正妻として入り、継母と異母兄弟との生活が始まりました。継母とうまくいかず、悲しみ多い幼児期を過ごしました。 純孝は7歳にして家族と別れ、鳥取師範付属小学校に入学。卒業する15歳まで一度も帰省せず勉学一途に励みました。彼の孤独な感覚は次第に文学へと転化されていきました。 ●薄幸の歌人 文学的才能は御影師範学校・東京高等師範学校在学中から発揮され、雑誌「明星」(みょうじょう)の投稿によって、個人的感情的表現は彼の生い立ちと相まって一段と磨かれていきました。 秋雨は親はなくとも育ちたる 我と知りつつ降るとし思ふ 牛の背に我を乗せずや草刈女 春来峠はあう人もなし 君を思う我をはた思う君我の 二人の中のいとし児ぞこれ 大阪島之内高等女学校教頭として赴任、妻信子を得てしばしの幸福感に浸りましたが、長くは続きませんでした。純孝は過労から倒れたのです。肺結核でした。時を同じくして妻も産後の肥立ちが悪化、夫婦枕を並べての療養生活が始まりました。妻子に迷惑をかけないように純孝は療養場所を故郷に移しました。 死の直前まで数々の学校唱歌や歌集を創作し、前田純孝は明石に残した妻子を思いながら31歳の生涯を閉じました。 干からびし我が血を吸いていきてある 虱はさらにあわれなるもの (絶筆) 風吹かば松の枝なる枝なれば 明石を思ふ妹と子思ふ 純孝の二千数首の珠玉の歌集は純孝研究者たちの力で世の中に蘇ってきました。 |
2011/06/22 先人たち
斎藤隆夫【さいとうたかお】
|
||
|
●生い立ち 斎藤隆夫の生地・豊岡市出石町中村は、出石川の支流、奥山川が地区の東を流れる高台にある旧室埴村字中村で出石藩のお膝元です。彼は斎藤八郎右衛門の次男として明治3年(1870)8月18日、父が45歳、母が41歳の時生まれました。1人の兄と4人の姉の末っ子でした。
8歳になり福住小学校に入学しましたが、まだ卒業しない12歳の頃、「なんとしても勉強したい」という一念から、京都の学校で学ぶことになりました。ところが、彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきました。その後、農作業を手伝っていましたが、家出同然に京都へ行って帰ってくるなど、苦悩の日々を過ごしています。 明治22年(1889)1月、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。 同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。 明治24年(1891)の夏、桜井勉が故郷の出石に隠居することとなり、斎藤隆夫は念願の早稲田専門学校(今の早稲田大学)の行政科に入学しました。明治27年(1894)7月、首席優等で卒業しました。 卒業した翌年の明治28年(1895)、弁護士試験を受け合格。明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強すました。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。 帰国後は鎌倉で静養し、合計7回の手術を受け完治。健康が回復した明治38年(1905)、弁護士を再開し、明治43年(1910)に結婚。 明治45年(1912)、第11回総選挙がおこなわれることになりました。この時、南但馬の国会議員は養父郡糸井の佐藤文平が出ていましたが引退することになり、後継者について原六郎と語り、原と旧知の間柄であった斎藤隆夫に白羽の矢をたてました。 そして、初挑戦ながら当選を果たしました。当選順位は定員11人中最下位でした。政界へのスタートを切ったのです。 ●政治家としての軌道 ●演説 |
2011/06/22 先人たち
一瀬粂吉【いちのせくめきち】
|
||
|
●生い立ち 出石藩仙石氏の磯野員武の次男として豊岡市出石町下谷に生まれ、藩学弘道館に学びました。のちに豊岡藩士・久保田譲氏(当時文部大臣)の心を込めた願いを聞き入れ、豊岡藩一瀬家の家名を継ぎました。 東京高等商業学校卒業後、文部省に勤務しました。文部次官・小山謙三氏の大阪三十四銀行頭取就任に従い、彼も三十四銀行へ転職。台北支店長・本営業部長を経て、三十四銀行副頭取になりました。 三十四銀行が鴻池銀行・山口銀行と合併して三和銀行を結成するに至り、その取締役になりました。 ●学校教育への貢献 晩年には大阪財界・政界の有力者とはかり「誠の会」を結成して、誠の精神の強調普及に尽くしました。著書も多く、社会教育の振興に貢献しました。 昭和18年(1943)1月19日、73歳で亡くなりました。 |
2011/06/22 先人たち
古島一雄【こじまかずお】
|
||
|
●戦後の政界の指南番
豊岡市に生まれた古島一雄は、浜尾新の世話になり、杉浦重剛(すぎうらじゅうこう)のもとに通って教えを受けました。むこう意気が強く筋を通すところが重剛に気に入られ、彼の推薦で『日本』に新聞記者として入社しました。 のちに政界に転じて代議士に、また貴族院議員にも選ばれました。戦後には総理大臣の進退にも関わり、政界の指南番と称されました。 |
2011/06/22 先人たち
河本重次郎【こうもとじゅうじろう】
|
||
|
●日本近代眼科の父
河本重治郎は豊岡に生まれ、藩校稽古堂で池田草庵に学びました。13歳の時に豊岡出身の猪子止か之助(いのこしかのすけ)、和田垣謙三(わだがきけんぞう)と共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京しました。 横浜在住の叔父・中江種造方からドイツ語の学校へ通い、のち東京大学医学部へと進みました。同級生に北里柴三郎がいました。ここを首席で卒業した重治郎は、同学部外科学教室の助手となり、明治18年(1885)に留学を命じられて渡欧しました。明治22年(1889)に帰国すると東京大学眼科学教室主任教授に任じられ、以後33年間その職にあって、日本の眼科を先進国の水準に近づけ、さらに発展させて、日本近代眼科の父と称せられる人となりました。 |
2011/06/22 先人たち
長 熈【ちょうひろし】・長 耕作【ちょうこうさく】
|
||
|
●生い立ち 美方郡香美町香住区一日市の資産家・長九郎右衛門久助の長男として、安政6年(1851)1月に生まれました。若い頃、草場塾で漢字を修め、明治維新の動乱期の中であらゆる書物を読みあさり、数学や経済などを独学で勉強しました。30歳になった明治21年(1888)4月に、美含郡(みぐみぐん)代表の県議会議員に当選しました。 その後、家を継いで農林業のかたわら、サバ・アジ・イワシなどの漁を手がけました。半農半漁の貧しい生活のため、冬になると出稼ぎをしなければならない漁師の生活を、なんとか良くしたいと思い、漁業の発展をめざして努力しました。そして、初代漁業組合長に選ばれました。 ●香住の漁業発展の基礎を築く 大正5、6年頃になると、柴山や津居山で発動機付漁船による沖手ぐり網漁が営まれ、帆船による漁法に比べて、漁獲成績に大きな差が出てきました。港をつくらなければ、香住の漁業はダメになってしまうと思い、香住漁港修築を第一の使命と考えました。 港湾修築の先頭に立っていた熈組合長が病に倒れ、大正10年(1921)8月29日、思いを残したままこの世を去りました。しかし、その志は息子の耕作へと受け継がれました。 耕作は、明治20年(1887)1月11日、熈の次男として生まれました。豊岡中学校、早稲田実業学校(のちの早稲田大学)を卒業しましたが、兄が若くして亡くなったので、父の死去によりその跡を継ぎました。父と同じように、大正11年(1922)には香住村漁業組合の第三代目組合長に就任。続いて、翌12年には37歳の若さで香住村の村長にもなりました。 そして、香住漁港修築を香住村最大の問題として取り上げ、役場と漁業組合が一体となって取り組みました。昭和3年(1927)、漁港修築のための測量が農林省から派遣された技師によって行われました。翌年には漁港修築の企画案が届きました。7月の吉日に竣工式が行われ、漁業関係者や多くの町民が喜び合いました。 昭和4年8月12日、突然病に倒れ、町のため漁業組合のために尽くした43歳の生涯を静かに閉じました。 昭和37年(1962)7月、香住町漁業協同組合によって、香住漁港修築をはじめ一連の漁業発展のために情熱と命と私財を捧げてきた、長熈・耕作父子の功績をたたえる顕彰碑の除幕式が行われ、たくさんの人々が参列しました。今もこの顕彰碑は漁業発展の守護神のように出入りする漁船をじっと見守っています。 |
2011/06/22 先人たち
浜尾 新【はまおあらた】
|
||
|
●生い立ち 東京大学の発展に一生を捧げた浜尾新は、嘉永2年(1849)4月20日、豊岡市京町に豊岡藩江戸詰めの下級武士・浜尾嘉兵治の子として生まれました。5歳の時、父を失いました。 14歳の時、藩主夫人が豊岡に帰ることになり、浜尾は母親ゆうと同行し、豊岡で生活することになりました。幼くして藩に出仕して、父と同じく記録係の仕事をしました。 ●東京大学と共に生きる 豊岡藩では人材育成のために藩費遊学制度をつくって廃藩まで、のべ11人の優秀な人材を江戸へ送り、勉強させました。浜尾は20歳の時選ばれて、慶應義塾・大学南校(東大)に学び、主としてフランス語を専攻しました。その後、東京大学舎監として学生たちの世話係をつとめる一方、アメリカ留学も果たしました。 明治26年(1893)加藤弘之は東京大学総長を辞任し、後任に浜尾を推薦、浜尾45歳にして東京帝国大学総長に就任しました。その後、しばらく文部大臣をつとめたあと、再び東京帝国大学総長をつとめました。 但馬の加藤弘之・浜尾新のコンビは東京大学育ての親といえます。東京大学構内には浜尾の銅像が設置されており、浜尾が植えた銀杏並木は東京大学100年の歴史を物語っています。 |