ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】
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大わらじ・大ぞうり【おおわらじ・おおぞうり】
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●田ノ口賽の神祭 賽(さい)の神は、道を遮り悪霊の侵入を防ぐ「道切り」の神として、古くから人々のあつい信仰を集めてきました。一般的には注連縄(しめなわ)をまつりますが、田ノ口では大きさ約1.5mの大草鞋(おおわらじ)と大草履(おおぞうり)をつくります。朝、氏子たちがお堂に集まってつくり、村の賽の神へ運びます。はしごを使って神木に奉納し、神事がとりおこなわれます。 |
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●安井の大草履 養父市/安井/1月3日 安井地区で、村を守るための厄除け祈願として古くから行われている神事。男たちが、きれいな打ちわらを少しずつ持ち寄って大草履をつくります。作るのは片方だけで、幅約1m、長さ約1.3mという大きなもの。大草履づくりに関わるのは6~7人で、あとの人たちは家族の無病息災を祈願するための小草履を片方ずつ作ります。 |
お走り祭り【おはしりまつり】
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●お走り祭り 祭りの由来は、昔々、但馬がまだ泥海だったころ、但馬五社の神様たちが、養父町斎(いつき)神社の彦狭知命(ひこさしりのみこと)に頼んで、豊岡市瀬戸を切り開いてもらい、豊かな大地が生まれたので、養父大明神が代表として、彦狭知命にお礼参りしたことからはじまったとされています。 また、神功(じんぐう)皇后が三韓出征の帰路、養父神社に「葛(くず)の葉餅」を献上され、その一部を斎神社にお供えされたという故事にちなんでいるともいわれています。さらに、この時養父大明神はみたらし渕に泳いでいる「鮭の大王」の背に乗ってこられたとも伝えられ、鮭を川の使い、または川にいる神とする信仰も、お走り祭りに結びつけられたと考えられています。 祭りの朝、「ハットウ、ヨゴザルカ」とかけ声をかけ合いながら、みこしは養父神社を出発。斎神社までの往復40キロの道のりを重さ150キロのみこしを担いでいきます。みこしがまるで軽く走っていくように見えたことから「お走り」という名が付いたといわれています。 現在は、この道のりをすべて走るのではなく、途中は車で運ばれています。養父神社を出発したみこしは、養父町三谷の厳島(いつくしま)神社で斎神社のみこしと合流し、錬りあった後、養父町建屋で一泊。斎神社に参った後、再び建屋で2台のみこしは練り合って別れを惜しみ、それぞれの神社へと帰っていきます。 現在は春の祭りとしておこなわれていますが、もとは12月ひつじの日、帰りは翌日で、古くから「未(ひつじ)走りの申(さる)戻り」といっていました。ところが、旧暦12月は厳寒のころで、川渡りが大変であったことから、明治10年(1877)に、池山の弁天(現厳島神社)祭りの日になったということです。また、養父神社から斎神社への道筋も昔は、険しい御祓山(みはらいさん)を登って行ったという記録が残されており、荒行だったのでは?という説もあります。 |
まいそう祭り【まいそうまつり】
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●まいそう祭り 古くから、神社の氏子たちに受け継がれてきた祭りで、古鬼面姿に木鉾を持った鬼をたたき、その年の無病息災を願います。伝説によると、その昔、この地が泥海であった頃、神が3艘の船に乗って渡っていたところ、2艘の行方がわからなくなりました。1艘は大屋町の隣、養父町建屋の船谷で見つかりましたがもう1艘はみつかりません。見つかった1艘の船は「アッター、アッター」と舞う、「御船祭」または「笑祭」と呼ぶ祭りとして伝えられていましたが、今では途絶えてしまい、資料の中でしか確認できません。 しかし、見つからなかったあと1艘は、「まいそう祭り」として残されています。「マーイソーナイ」(もう1艘ない)と呼びかけながら、夜を徹して捜すということが「まいそう祭り」の起こりとされています。 祭りは本殿で神事のあと、神主の御神火から点火された松明(たいまつ)を手に持ち、円陣を組みます。鬼役を演じるのは厄年の男性3人。太鼓の合図にあわせて、右手に木箱、左手に木鉾を持った一番鬼が拝殿から飛び出し、時計と逆回りに円陣をまわります。氏子たちは、「まいそう祭り」の語源である「マーイソーナイ」(もう1艘ない)とはやし立て、炎々と燃えさかる松明を頭上で振りかざしながら、木箱に激しくたたきつけます。二番鬼、三番鬼の順で続き、円陣を三周したあと、ほえ声をあげて本殿にそれぞれ消えます。燃えさかる松明の炎で鬼を追い払う珍しい火祭りです。 |
但馬の養蚕【たじまのようざん】
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●養蚕の歴史 但馬は古くから養蚕が盛んでした。元禄10年(1697)に桑の名産地としての但馬をつづった「農業全書」も発行され、特に江戸中期には、新しい理論や技術が導入され、養蚕業は飛躍的に発展しました。 ●養蚕の技術を高め、ひろめた人々 ●その後の養蚕 但馬地方はこうした先人たちの努力によって優良な繭の生産地となり、機械製糸が地場産業として栄えました。養蚕製糸業は大正・昭和の経済恐慌の時には、但馬の農家を助けた大切な副業であり、重要な輸出産業でした。しかし、昭和20年代半ばになると、ナイロンなどの新素材・技術が開発され昔の面影は失われていきました。 |
但馬杜氏【たじまとうじ】
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●但馬人気質が造りだす甘露の雫 但馬では、特に雪深い地方の人たちが冬季の働き場所を求め、出稼ぎとして、全国各地に酒造りに出かけました。杜氏とは酒造りの最高責任者のことです。酒造りは杜氏・蔵人(くらびと)のグループが、新米の刈り入れの終わる10月頃から翌年の春まで、約6~7カ月の間、家を離れ、酒造会社の蔵元に泊まり込んでおこなわれます。蔵によって人数は異なりますが、数人から20人程度の蔵人がチームをつくり、杜氏の指導のもとで酒造りの作業をおこないます。「一蔵一杜氏」といわれるように、杜氏の数だけ酒の種類があるといわれています。 但馬の人は、慎重で誠実、質素にも耐えて思いやりがあり、粘り強い精神力があります。長年の知識と技術の蓄積が今日の但馬杜氏を生みだしました。 ●記録に残る但馬杜氏 |