●生い立ち
りくは寛文9年(1669)に豊岡藩の武家屋敷で、石束(いしづか)源五右衛門毎公(つねとも)の長女として生まれました。石束毎公は豊岡藩京極家家臣の筆頭家老でした。
りくは18歳になって、赤穂・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の家臣、首席家老・大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)に嫁ぎます。良雄はこの時28歳でした。大石家は、近江の国(滋賀県)栗太郡(くりたぐん)、宇治川沿いの大石村より出て浅野家に仕え、代々家老をつとめ1500石を賜り内蔵助と称しました。
結婚して間もなく、元禄元年(1688)長男の主税良金(ちからよしかね)が生まれ、3年には長女くう、4年には次男吉之進(きちのしん)(のちに吉千代)が生まれ、にぎやかになりました。
●赤穂浪士の討ち入りのあと妻は…
元禄14年(1701)3月14日、江戸城内、松之廊下で主君浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を腰の小刀で切り付けたのです。浅野内匠頭長矩はただちに切腹。浅野家は断絶、赤穂城は没収となりました。
大石内蔵助が開城準備や残務処理をしました。これらの悲痛な忙しさを裏で支えたのが、妻りくでした。城を明け渡したあと、大石一家は京都の山科へ移り住みました。そこで討ち入りの日を世間をあざむきながら、じっと待ちました。
元禄15年(1702)4月、大石内蔵助は長男・主税を残して、りくと3人の子供たちを豊岡へ返しました。7月には三男・大石大三郎が生まれました。
同年12月14日、大石内蔵助を頭に赤穂浪士たちが吉良上野介邸へ討ち入りました。翌年2月4日、義士一同に切腹を命ぜられました。りくは次女・るりや大三郎と共に豊岡市日撫の隠居所・眞修院(しんしゅういん)に移りました。夫の切腹後は再婚せず、髪を剃り遺児の養育に専念し、良妻賢母で武士の妻の手本として称えられました。
正徳3年(1713)、大三郎が広島藩浅野家に仕官し1500石を賜り、りくも広島で暮らしました。元文元年(1736)11月19日、68歳の生涯を広島でとじました。墓は広島の国泰寺墓地にあり、子どもたちと一緒に眠っています。豊岡市日撫の正福寺には遺髪塚があります。
毎年「りく祭り」が盛大に豊岡市で行われています。 |