2011/06/22  

斎藤畸庵【さいとうきあん】

 

斎藤畸庵【さいとうきあん】
斎藤畸庵
(1805~1883)
兵庫県豊岡市城崎町城崎温泉に生まれる。幕末・明治の南画家。
●スケールの大きな南画家

斎藤畸庵は城崎温泉の旅館「伊勢屋」の長男として生まれました。

幼い頃から詩や絵を好み、16歳の時、京都へ出て中林竹洞(なかばやしちくとう)の門に入り、南画(なんが)を学んだと伝えられています。その後、奈良の月ヶ瀬、和歌山の那智(なち)、九州の耶馬渓(やばけい)など各地を旅行し、その風景を描き残しました。

畸庵の作品は山水図が中心で、幕末から明治の南画家としては、スケールの大きな作風を展開しています。郷里・但馬には、各地の寺院を中心に多くの作品が残されてます。

2011/06/22  

上田広甫【うえだこうほ】

 

上田広甫【うえだこうほ】

上田広甫
(1791~1861)
兵庫県豊岡市日高町土居に生まれる。未生流二代目家元。

 

●初代いけばなを発展させ、未生流の基盤を築く
上田広甫は豊岡市日高町土居に生まれ、幼名を安太郎といい、遠縁の豪農上田家で働いていました。その頃、未生流の祖(そ)「未生斎一甫(みしょうさいいっぽ)」と出会いました。生け花の素質を認められ、一甫に仕えることになりました。連れられて大阪へ出て修行を積み、未生流華道の奥義を極めました。

2011/06/22  

大石りく【おおいしりく】

 

大石りく【おおいしりく】

大石りく

(1669~1736)
寛文9年、兵庫県豊岡市に生まれる。赤穂浪士の討ち入りで有名な大石内蔵助の妻。


遺髪塚

正福寺にひっそりとたたずむ遺髪塚。中央がりくの遺髪塚、向かって右が吉千代の墓、左がくうの墓。

 

●生い立ち

りくは寛文9年(1669)に豊岡藩の武家屋敷で、石束(いしづか)源五右衛門毎公(つねとも)の長女として生まれました。石束毎公は豊岡藩京極家家臣の筆頭家老でした。
りくは18歳になって、赤穂・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の家臣、首席家老・大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)に嫁ぎます。良雄はこの時28歳でした。大石家は、近江の国(滋賀県)栗太郡(くりたぐん)、宇治川沿いの大石村より出て浅野家に仕え、代々家老をつとめ1500石を賜り内蔵助と称しました。
結婚して間もなく、元禄元年(1688)長男の主税良金(ちからよしかね)が生まれ、3年には長女くう、4年には次男吉之進(きちのしん)(のちに吉千代)が生まれ、にぎやかになりました。

●赤穂浪士の討ち入りのあと妻は…

元禄14年(1701)3月14日、江戸城内、松之廊下で主君浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を腰の小刀で切り付けたのです。浅野内匠頭長矩はただちに切腹。浅野家は断絶、赤穂城は没収となりました。

大石内蔵助が開城準備や残務処理をしました。これらの悲痛な忙しさを裏で支えたのが、妻りくでした。城を明け渡したあと、大石一家は京都の山科へ移り住みました。そこで討ち入りの日を世間をあざむきながら、じっと待ちました。

元禄15年(1702)4月、大石内蔵助は長男・主税を残して、りくと3人の子供たちを豊岡へ返しました。7月には三男・大石大三郎が生まれました。
同年12月14日、大石内蔵助を頭に赤穂浪士たちが吉良上野介邸へ討ち入りました。翌年2月4日、義士一同に切腹を命ぜられました。りくは次女・るりや大三郎と共に豊岡市日撫の隠居所・眞修院(しんしゅういん)に移りました。夫の切腹後は再婚せず、髪を剃り遺児の養育に専念し、良妻賢母で武士の妻の手本として称えられました。

正徳3年(1713)、大三郎が広島藩浅野家に仕官し1500石を賜り、りくも広島で暮らしました。元文元年(1736)11月19日、68歳の生涯を広島でとじました。墓は広島の国泰寺墓地にあり、子どもたちと一緒に眠っています。豊岡市日撫の正福寺には遺髪塚があります。

毎年「りく祭り」が盛大に豊岡市で行われています。