2011/11/21  

大乗寺【だいじょうじ】

 

大乗寺【だいじょうじ】


大乗寺
・香美町香住区森

・十一面観世音菩薩
・障壁画165面
以上国指定彫刻・絵画
・大乗寺客殿など2棟
県指定重要文化財
・午前9時~午後4時

・拝観料大人800円
・TEL0796-36-0602

●関連情報
大乗寺

●別名応挙寺、165の障壁画が立体曼陀羅をつくりだす

高野山真言宗 亀居山 大乗寺は聖武天皇の御代天平17年(745)、行基菩薩自ら聖観音菩薩立像を彫刻し祀ったのが始まりとされています。一時衰退しましたが、安永年間、密蔵法印が伽藍の再建につくし、弟子の密英上人が後を継ぎ伽藍を完成させました。
その際、客殿に円山応挙とその一門の手による障壁画が描かれ、そのため別名応挙寺とも呼ばれ、多くの人々が訪れています。
円山応挙(1733~1795)は、はじめ狩野派の石田幽汀に学び、その後、自然の写生に専念したり、西欧の遠近法などの手法を学び、彼独特の新しい画風としての写生画を完成しました。その写生画はあらゆる階層の人々に支持され、画壇の第一人者となり、円山派の祖として仰がれた人物です。
その昔、円山応挙は生活が苦しく絵を売りながら、何とか暮らしを支え、絵を学んでいたころ、大乗寺の住職・密蔵上人と出会いました。上人はまだ無名であった応挙の画才を見抜き、即座に学費を援助しました。応挙にとって大乗寺の密蔵・密英住職は、忘れることのできない恩人だったのです。
天明7年、当時55才になっていた応挙は、古くなって改築の時期がきていた大乗寺伽藍の話を聞きつけました。以来8年間、5回に渡って大乗寺を訪れ、子や弟子の呉春・長沢芦雪らとともにご恩返しとして、多数のふすま絵や軸物を描いたと伝えられています。
大乗寺の中心に位置する仏間の十一面観世音菩薩(国重文)を守る立体曼陀羅が、客殿13室(県指定文化財)に障壁画として165面も描かれ、すべて国の重要文化財に指定されています。
※作品の一部はデジタル再製画を展示

2011/11/20  

帝釈寺【たいしゃくじ】

 

帝釈寺【たいしゃくじ】


帝釈寺
・香美町香住区下浜
木造聖観音立像
・国指定重要文化財

 
●帝釈天を安置する平安時代の歴史ある古刹
帝釈寺は702年道照により再建されたという帝釈天を安置する古刹です。帝釈天とはヒンドゥー教などの武神であるインドラと同一の神で仏教に取り入れられ、梵天と並んで仏教の二大護法善神になりました。本堂には本尊帝釈天像が安置されています。また、脇仏の木造聖観音立像は国指定の重要文化財で、厄除け観音としても広く信仰されている仏像です。この木造聖観音立像は檜の一本造りで両手のほとんどまで同じ木で彫りだされています。両手は痛んで失っていますが、左手は蓮華を持ち、右手には与願印であったと考えられています。裳裾の両側は引き上げられ、上瞼は直線的で平安時代の特徴をよくあらわしています。

※拝観は事前に予約が必要です。

2011/06/22  

法雲寺【ほううんじ】

 

法雲寺【ほううんじ】

法雲寺
・香美町村岡区村岡2365


山名史料館・山名蔵
TEL0796-98-1151

●関連情報
法雲寺

●村岡山名氏の菩提寺
 村岡山名氏の菩提寺。寺内の御霊屋には太祖・義範公以降の位牌が奉安されています。記録によると「法雲寺(ほううんじ)」という名は、 村岡山名氏三代・矩豊公が寛永19年(1642)に村岡に入部した際に、在郷の禅院を山名家の菩提寺と定め、命名したものです。以前は「報恩寺(ほうおんじ)」と呼ばれていました。
現在の村岡周辺は南北朝時代から七美(ひつみ)の庄と呼ばれており、庄内のほとんどは花園・妙心寺(臨済宗)第二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ)の荘園でした。後醍醐天皇の側近で建武の中興の功労者だった宗弼が永和元年(1375)、80歳の時、七美庄に「報恩寺」(ほうおんじ)を建立しました。
その後、南北朝から室町へと時代が進むにつれ、荘園の形態も弱体化し、報恩寺の荘園を管理する役目は終わり、土地の為政者の祖先供養が重要な役割となりました。
元禄年間、 矩豊公が藩都を村岡の地に移し、鎌倉時代以来の宝牌を「法雲寺」に納め、名門山名宗家としての祭祀を尽くしました。寺の名前は二代・矩政公の法名「法雲」(ほううん)をあてはめたそうです。寺名の変更と同時に、法華経の信仰者だった矩豊公は宗派を臨済宗から日蓮宗に変更しました。
しかし、当時徳川将軍家は「天台宗」と「浄土宗」を信仰しており、矩豊公は御伽衆と言う将軍に近しい役職上から、その後「日蓮宗」から「天台宗」へと宗派を再び変更しました。以来二十代の住職によって現在まで引き継がれています。
境内の山名史料館には山名氏に関する武具・什器・文書などが展示されており、山名氏の栄光と共に歩んできた町の歴史を伺い知ることができます。

2011/06/22  

三川権現社【みかわごんげんしゃ】

 

三川権現社【みかわごんげんしゃ】

三川権現社
・香美町香住区三川
●山岳修験道の行場として栄えた日本三大権現のひとつ
ブナやシャクナゲが群生する香美町香住区の三川山は、古来より山岳修験道の行場として栄えた古霊場です。 修験道の開祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)が674年に蔵王権現を勧請して開いたと伝えられています。 三川権現は、 大和の大峯山、伯奢の三徳山と並び、日本三大権現に数えられ、かつては歴代の国主、諸公をはじめ一般の人々の信仰も篤く、隆盛を極めていました。

しかしふもとにある三川権現社は、天文7年(1538)、雷火によって奥の院を焼き伽藍を焼失します。その後一時再建されますが、天保3年(1832)に但馬有史以来といわれる山津波(土石流)によって全ての建造物を流失、埋没してしまいました。
出石城主仙石氏や村岡城主山名氏らが再興を計り、高野山大僧正と信徒らが蔵王堂を再建して、現在の三川権現社があります。
現在、5月3日の山開きには全国各地から山伏や行者が集まり、三川権現蔵王堂前で盛大な護摩供養が行われます。「知恵の火で煩悩を焼く」という護摩供養は、積み上げた護摩木に火をつけ、参拝者が願いを込めた小木を炎の中に投げ入れるという火の祭で、家内安全や海上安全、無病息災など所願の成就が祈られます。

また、三川権現には「ぽっくり尊」という、老いてから大往生できるという仏様も祀られています。苦しみを身替わりに背負ってくれるという代苦仏です。さらに全国観音霊場(四国、西国、板東、秩父の合計188ケ所)のお砂文があり、ここに来れば一度に巡ることができるようになっています。
今も修験道の地として知られる三川権現、近年は年間を通して多くの参拝客が訪れています。