2011/06/22  

毛戸勝元【けとかつもと】

 

毛戸勝元【けとかつもと】
毛戸勝元
(1874~1945)
明治7年、美方郡香美町小代区に生まれる。法学博士として、後進の育成に務めた。晩年は弁護士として活躍。
●法学に身を捧げた一生
法学博士・毛戸勝元は、明治7年(1874)に香美町小代区神水の出身。京都帝国大学の法学部長として、日本の法学研究に身を捧げました。
経歴は明治31年(1898)に東京帝国大学法科を卒業。さらに大学院で商科を専攻し、研究を終えると、京都帝国大学助教授、ついで同大学教授に就任しました。
しかし、勝元の研究心はこれに飽きたらず、海外留学を決意。イギリス・ドイツ・フランス各国で、商法を学びました。
帰国後、明治39年(1906)には法学博士の学位を授けられ、後進の指導育成あたり、多くの逸材を輩出しました。勝元は自分の門を叩いてくる者は快く受け入れ、その指導は愛情と熱意をもったものだといわれています。
京都帝国大学を退官後は弁護士として活動し、そのかたわら大阪商工会議所特別議員、日本毛織、川西航空機、安田信託など数社の取締役、および朝日新聞社の顧問としても活躍しました。

2011/06/22  

丸山修三【まるやましゅうぞう】

 

丸山修三【まるやましゅうぞう】

丸山修三
(1904~1990)
明治37年3月16日、兵庫県美方郡香美町村岡区野々上に生まれる。歌人。京都府立医大を卒業後、開業医をしながら、アララギに入会。歌集「栃の木」「白き花」「暦日」「雑木山」「雑木原」など。兵庫県ともしび賞、半どん賞受賞
●生い立ち
丸山修三は明治37年(1904)、美方郡香美町村岡区野々上に父福井国太郎、母もとの四男四女の三男として生まれました。福井家は旧家で、父国太郎は文化人として俳句をよくしていました。彼の兄福井一雄氏は「明星」の同人でしたが、修三は「アララギ」に所属し活躍しました。
大正13年(1924)、京都府立医科大学在学中に、「アララギ」に入会し、土田耕平氏に師事しました。はやくから修三の資質の高さは異彩を放っていました。土田が病むと森山汀川につき、やがて土田の病状が進行した際、斉藤茂吉の診察にも立ち会いました。
大正15年(1926)、香美町村岡区原の丸山家の養子として迎えられました。丸山家もまた、代々続いた庄屋でした。昭和5年(1930)、大学卒業と共に丸山久子と結婚、大学助手を勤めることになりました。京都に住んでいた十余年の間に修三の短歌の方向が決まったとも言えます。京都花園の修三宅を土屋文明が幾度か訪れてもいます。
昭和8年(1933)、家を守ることと、地元からの医療充実への強い要望に応えて村岡町へ帰ってきて、自宅診療を開始しました。そして、2年後には香美町村岡区福岡に開業し、生涯を僻地医療に捧げることとなりました。

●但馬と共に生きた歌人
修三は「但馬アララギ」を創刊する一方、「雪線」・「但馬歌人」・京都の「林泉」の同人であり育ての親でもありました。修三がこれらの機関誌の選者になるや投稿者は激増し、但馬はもちろん丹波・丹後一円から師事した人は数え切れません。

さまざまに断りたりし挙句には 吹雪の中に往診に出づ
この村が好きのならむとつとめ来て 都忘れの花も植えたり

昭和49年(1974)12月、但馬の歌人たちが集い、丸山修三顕彰碑を香美町村岡区の兎和野高原に建てました。

つらなりて山遠く見ゆ夕映えは ただしばらくの間なれども

と刻された歌碑は背後に瀞川・鉢伏・氷ノ山を背負い、前方に妙見山・蘇武岳の連峰を望む地に建っています。自然を愛し、但馬の山を愛した修三の魂の安らぎの地でもあります。
晩年、目も耳も不自由になりながら、平成2年(1990)7月死の直前まで淡々と歌を詠み続けました。

(絶筆) 裏山に鳩啼きゐる声を聞く 八十六歳まだ生きている

長男・丸山茂樹氏は父修三の文学的資質を受け継ぎ、さらに発展させ、あちこちの短歌会の指導に忙しい日々をおくっています。

2011/06/22  

長 熈【ちょうひろし】・長 耕作【ちょうこうさく】

 

長 熈【ちょうひろし】・長 耕作【ちょうこうさく】

長 熈
(1851~1911)
安政6年1月20日、兵庫県美方郡香美町香住区一日市に生まれる。初代香住村漁業組合長に就任。香住漁港をつくるために奔走。


長 耕作
(1887~1929)
明治20年1月11日、兵庫県美方郡香美町香住区一日市に生まれる。長熈の次男。父の遺志を継ぎ、香住漁港起工にこぎつける。

●生い立ち
美方郡香美町香住区一日市の資産家・長九郎右衛門久助の長男として、安政6年(1851)1月に生まれました。若い頃、草場塾で漢字を修め、明治維新の動乱期の中であらゆる書物を読みあさり、数学や経済などを独学で勉強しました。30歳になった明治21年(1888)4月に、美含郡(みぐみぐん)代表の県議会議員に当選しました。

その後、家を継いで農林業のかたわら、サバ・アジ・イワシなどの漁を手がけました。半農半漁の貧しい生活のため、冬になると出稼ぎをしなければならない漁師の生活を、なんとか良くしたいと思い、漁業の発展をめざして努力しました。そして、初代漁業組合長に選ばれました。

●香住の漁業発展の基礎を築く

大正5、6年頃になると、柴山や津居山で発動機付漁船による沖手ぐり網漁が営まれ、帆船による漁法に比べて、漁獲成績に大きな差が出てきました。港をつくらなければ、香住の漁業はダメになってしまうと思い、香住漁港修築を第一の使命と考えました。

港湾修築の先頭に立っていた熈組合長が病に倒れ、大正10年(1921)8月29日、思いを残したままこの世を去りました。しかし、その志は息子の耕作へと受け継がれました。

耕作は、明治20年(1887)1月11日、熈の次男として生まれました。豊岡中学校、早稲田実業学校(のちの早稲田大学)を卒業しましたが、兄が若くして亡くなったので、父の死去によりその跡を継ぎました。父と同じように、大正11年(1922)には香住村漁業組合の第三代目組合長に就任。続いて、翌12年には37歳の若さで香住村の村長にもなりました。

そして、香住漁港修築を香住村最大の問題として取り上げ、役場と漁業組合が一体となって取り組みました。昭和3年(1927)、漁港修築のための測量が農林省から派遣された技師によって行われました。翌年には漁港修築の企画案が届きました。7月の吉日に竣工式が行われ、漁業関係者や多くの町民が喜び合いました。

昭和4年8月12日、突然病に倒れ、町のため漁業組合のために尽くした43歳の生涯を静かに閉じました。

昭和37年(1962)7月、香住町漁業協同組合によって、香住漁港修築をはじめ一連の漁業発展のために情熱と命と私財を捧げてきた、長熈・耕作父子の功績をたたえる顕彰碑の除幕式が行われ、たくさんの人々が参列しました。今もこの顕彰碑は漁業発展の守護神のように出入りする漁船をじっと見守っています。

2011/06/22  

前田周助【まえだしゅうすけ】

 

前田周助【まえだしゅうすけ】

前田周助
(1797~1872)
寛政9年、兵庫県美方郡香美町小代区水間に生まれる。但馬牛の改良に人生をかけ、優良な系統牛「周助ツル」を作り出した。今の「但馬牛」の系統の基礎となった。
●生い立ち
美方郡香美町小代区に生まれた前田周助の幼年は、「牛飼い坊主」といわれたほどの牛好きでした。長じてますます牛を愛し、鑑識力に優れ、資財をなげうって、数々の良牛を買い求め続けました。
彼の評判を伝え聞いた兵庫県養父市吉井に住む大博労(だいばくろう)孫左衛門が、はるばる前田家をたずね、その牛を一目見て優秀なのに驚きました。孫左衛門の啓発と援助によって、当時但馬唯一の牛市場であった養父市場に進出しました。周助の取り扱う牛は値段が高いのにかかわらず、飛ぶように売れたので、周助の名とともに小代牛(おじろぎゅう)の名声はますます高くなりました。

●人生をかけた但馬牛の改良
弘化年間、村岡藩主の助力を得て、村岡に臨時の牛市場を開設しました。小代牛の基礎と販路の見通しをつけた周助は、いよいよ念願とする良牛の固定化に向かって動き出しました。しかし、これが至難の業で系統牛となる良い牛の中の良い牛を探し求めて数年間、東へ西へと走り回りました。その間に多額の借金をつくり、家族から見放されてもひるみませんでした。
100年に一度かもしれないという良牛、香美町村岡区の三歳メス牛を手に入れ、飼料の吟味から一切の手入れ、特に繁殖には長年の経験を結集して努力した結果、年々続いて良い子牛を産み、遺伝力も優れており、ここに「周助ツル」の開祖ができあがりました。

※博労(ばくろう)とは
馬や牛の売買や中に入って世話をする人
※ツル(蔓)とは
すじ、系統、類のこと。