大谿川 弓形橋群・王橋【おおたにがわ ゆみがたきょうぐん・おうばし】

 

大谿川 弓形橋群・王橋
【おおたにがわ ゆみがたきょうぐん・おうばし】


大谿川 弓形橋群・王橋
・豊岡市城崎町湯島
・国登録有形文化財(建造物)

●大谿川に架かる弓形の橋群
城崎温泉は、1925年(大正14年)に起こった北但大震災の被害により、焼け野原となり、当時の城崎町長の西村佐兵衛によって復興計画が立ちあげられ、新しいまちづくりが行われました。城崎温泉街の街並みを彩る「弓形橋群」は1926年(昭和元年)、「王橋」は1927年(昭和2年)の建設されました。

大雨の度に水害をもたらす大谿川の治水も大きな課題であり、川と道路の段差は数10cmしかなく、震災後には岸に玄武岩を積み上げ高さ70〜80cmの側壁を張り巡らせました。当然橋も側壁分高くしなければならず、それで弓形の橋となりました。上流の王橋側から、愛宕橋、柳湯橋、桃島橋、弁天橋の弓形橋群は、すべて鉄筋コンクリートで作れました。親柱側面には、橋の名前と「昭和元年十二月架之」の銅板がはめ込まれています。

王橋は一の湯前に架かる主要な橋です。橋幅は8.5mで大型バスが充分すれ違える幅になっていますが、従来は幅も狭く、川に直交して架けられていました。以前、王橋は「玉橋」と書かれていたが、川は濁らない方がよいとされて、昭和30年代に橋銘板から濁点が取り除かれました。親柱は現在でも目を見張る巨大な和風の橋で、すべて御影石造。高欄に、青銅製の飾り窓や装飾を使っています。

竹野駅舎と跨線橋【たけのえきしゃとこせんきょう】

 

竹野駅舎と跨線橋【たけのえきしゃとこせんきょう】
竹野駅舎
竹野駅舎

竹野駅の跨線橋
竹野駅の跨線橋

竹野駅 跨線橋銘文
柱脚に残る
「鐡道神戸 明四十四」
の銘文

竹野駅舎と跨線橋
・豊岡市竹野町竹野

・近代化遺産

●関連情報
豊岡市商工会竹野支所

●明治に建設された木造瓦葺き駅舎
播但線の開通に伴って1911年(明治44)に建設された駅舎で、その当時は標準的と思われる日本調の木造瓦葺きの駅舎が現在も残っています。
1968年(昭和43)に設立されたブレス構造の跨線橋(線路の上を横切って架けた橋)は、1968年(昭和43)に移築されたものと考えられ、柱には「鐡道神戸 明(治)四十四」の銘文が残っています。

明治時代の鋳物を使った柱脚の跨線橋は、八鹿駅と同様極めて珍しく、また、ささら桁(踏み板の両側あるいは真ん中を支える構造の階段)をトラス(三角形の構成を基本単位とし、部材を接合した骨組み構造)で組んでいるのは、但馬ではこの竹野駅だけです。

達徳会館【たっとくかいかん】

 

達徳会館【たっとくかいかん】
竹野駅舎

竹野駅の跨線橋

達徳会館
・豊岡市京口(豊岡高等学校内)
・県指定文化財

●豊岡高校の本館として建てられた擬洋風建築物
豊岡市の県立豊岡高等学校敷地内にある達徳会館は、2008年に兵庫県指定文化財に登録された近代化遺産です。1896年、兵庫県豊岡尋常中学校(現豊岡高校)の本館として建築され、市内に現存する明治期の数少ない擬洋風官公庁建築のひとつです。姫路尋常中学(現県立姫路西高等学校)に次いで、兵庫県下で2番目に古い中学校として、神戸尋常中学校(現神戸高等学校)と同年に建てられました。

1941年、校舎の前面改築の時に、この建物の消滅を惜しんだ同窓会組織の達徳会が譲り受け、元から少し離れた現在地に移築されました。以来、この建物は達徳会館と呼ばれ、現在に至ります。
木造2階建ての瓦葺き屋根。当時、1階は校長室、職員室、宿泊室等で配置され、2階は講堂でした。同市出石地区にある「明治館」とよく似た造りで、外壁は下見板張り、四隅にコーナーストーンを型取った板を張ったりと、洋風の建築物を真似た造りになっています。玄関ポーチには4本の円柱が立ち、古代ローマ建築の列柱様式を模した柱頭が特徴的です。講堂として儀式に使用されていた2階のベランダ部分は、明治天皇・皇后のご真影の奉安所として設けられたものです。同じような建物として、丹波市の氷上郡第一高等小学校(現在は大手会館)が残っています。

※同会館は非公開

永楽館【えいらくかん】

 

永楽館【えいらくかん
永楽館永楽館
廻り舞台

永楽館
奈落

永楽館
・豊岡市出石町柳
・近代化遺産

●関連情報
永楽館


●大正11年頃の姿へと忠実に復原された芝居小屋

2008年7月、平成の大改修により蘇った豊岡市出石町の芝居小屋「永楽館」。1901年に建設された、都市劇場建築の芝居小屋で、明治後期から昭和初期にかけて但馬の大衆文化の中心として栄えました。廻り舞台、奈落、花道といった貴重な劇場機構など、明治期に残る芝居小屋としては近畿地方に現存する唯一のものといわれています。
2006年から始まった復原工事では、芝居小屋としての舞台機構が最も充実していた大正11年頃の姿へと復原されました。文化財の復原では、「復元」ではなく、「復原」の文字があえて使われます。当時の図面や過去の資料をもとにして痕跡調査を行い、根拠を持って元の状態に戻すことを「復原」と呼びます。
幸いなことに永楽館には、過去100年間の増改築を記した図面がよく保存されていて、工事に先立っては丹念な痕跡調査が行われました。
外壁は復原後の姿を左右する大きな要素であり、綿密な調査を実施。一般的に古い建物の壁は、竹で組んだ骨組みに荒土を塗り、その後、中塗り、上塗りときめの細かい壁土を順に塗って仕上げていきます。調査では工程の逆の順番で壁土をはがしていき、構造を探る作業が行われました。その結果、人目に触れる表側は白漆喰塗りで、見えない部分(東面と南面)は荒壁塗りであることが判明しました。
しかし、さらに調査を進めていくと、白漆喰で仕上げられた壁の中塗り部分がひどく汚れていることが確認され、これは中塗り状態のまま長く放置されていたことを示していて、後になって白漆喰が塗られたことが判りました。そのため、復原後の表側の外壁は中塗り仕上げとなっています。見落とせば、白壁の永楽館になっていたわけで、こうしたち密な調査の下に復原されています。
また、水色に塗られた2階外側の窓枠も、忠実に復原された部分。土壁に水色の窓と一見アンバランスに感じられますが、『出石町史』には、当時、地元の弘道小学校で使われていたものが転用されたことが記されています。木肌にも青い塗料が残っていて、大正時代の永楽館が見事に復原されています。