2011/06/22  

お茗荷祭り【おみょうがまつり】

 

お茗荷祭り【おみょうがまつり】
お茗荷祭り
お茗荷祭り
お茗荷祭り(新温泉町)
・新温泉町竹田面沼神社
2月11日
お茗荷祭り
・新温泉町(旧温泉町)/竹田/2月11日

お茗荷祭りは、毎年2月11日の1番寒い時期におこなわれます。境内に「めぬ池」という小さな池があり、その中の小さな島に、お茗荷祭りで神に捧げられるミョウガができます。自然にできるミョウガは、普通暑い頃に食べるが、この小島にできるミョウガは、まわりに雪が積もる2月に芽が青々と育つのです。なぜ、こんな季節はずれにミョウガができるのか、全くわかりません。但馬七不思議のひとつにあげられる所以です。
朝の5時に神事は始まります。まだ周辺は暗く、提灯の灯りだけが頼り。宮司さんの祝詞が凍るような外気の中、響きわたります。島の上に生えたミョウガ3本を摘み、ぬめ池で清め、セキショウ(サトウキビ科の多年草)を敷いた三方に乗せ、木地のふたをかぶせてご神前に奉納します。
夜が明けかけた6時頃、参拝者が集まり始めます。最近では近所の人たちだけになってしまいましたが、昔は浜坂・諸寄・居組の漁師たちが裸でお参りしたとか。裸でも風邪をひくこともなく、命が延びると言い伝えられています。なお、この日は女性の参拝は禁じられていました。
参拝者があると、宮司さんは神前のミョウガをゆっくりと見せます。ミョウガの芽の形・大きさ・光沢・色ぐあいなどで、その年の吉凶・景気を参拝者みずからが占うのです。
芽がまっすぐ伸びていると豊作、曲がっていれば日照り、上部に光沢があれば早稲、下部に光沢があれば晩稲が良いとされています。不思議なことによく当たるそうです。昔は「命賀めでたや、富貴はんじょう」と言いながら参拝に来ました。健康と富が授かりますようにと言う意味。厳しい冬の中、人々は不思議なミョウガによって明日を占ってきたのです。

2011/06/22  

川下祭り【かわすそまつり】

 

川下祭り【かわすそまつり】
川下祭り
川下祭り
川下祭り(新温泉町)
・新温泉町浜坂宇都野神社
7月17~19日
川下祭り
・新温泉町(旧浜坂町)/浜坂宇津野神社/7月17~19日

川下祭りは但馬三大祭のひとつで、毎年7月19日から3日間にわたり、宇都野神社で行われます。祭りの起源は江戸時代の中期に始まったと伝えられ、京都の祇園祭の影響を色濃く受けています。
祭の中心は、旧浜坂町内を練り歩く神輿と麒麟獅子舞。麒麟獅子舞は、神輿行列の先導役として、町内を回り、家内安全を祈念して優雅に舞い踊ります。二人の舞手が頭と尾を持って舞う「二人立ち」の獅子舞で、獅子頭に特徴があり、県無形民俗文化財に指定されています。
また、町内には露店が立ち並び、夜には花火大会も催され、数多くの見物人で賑わいをみせます。

2011/06/22  

麒麟獅子舞【きりんじしまい】

 

麒麟獅子舞【きりんじしまい】
麒麟獅子
麒麟獅子
浜坂の麒麟獅子舞
浜で舞い路地から各家々を舞いながらねり歩く。子どもの頭を噛んでもらうと健康に育つと言われている。

・浜坂宇都野神社.居組.三尾の麒麟獅子舞は県重要無形文化財

麒麟獅子舞
新温泉町(旧浜坂町)
・居組麒麟獅子舞/10月9日 大歳神社(新温泉町居組)
・諸寄麒麟獅子舞/7月14日.15日 為世永神社(新温泉町諸寄)
・浜坂麒麟獅子舞/7月19日~21日川下祭
10月8日 宇都野神社(新温泉町浜坂)
・栃谷田君麒麟獅子舞/10月13日 厳島神社.長田神社(新温泉町栃谷)
・七釜麒麟獅子舞/9月29日 山宮神社(新温泉町七釜)
・福富麒麟獅子舞/9月28日 三柱神社新温泉町福富)
・和田麒麟獅子舞/10月3日 八柱神社(新温泉町和田)
・三尾麒麟獅子舞/10月9日 八柱神社.三柱神社(新温泉町三尾)
浜坂宇都野神社.居組.三尾麒麟獅子舞は県の重要無形文化財

新温泉町(旧温泉町)
・千谷麒麟獅子舞/4月17日 秋葉神社
9月19日三宝荒神(新温泉町千谷)
香美町香住区
・鎧麒麟獅子舞/10月5日 十二社神社(香美町香住区鎧)

麒麟獅子舞
麒麟獅子舞の起源については定かではありませんが、現在残っている資料から推測すると、鳥取藩の初代藩主・池田光仲が慶応3年(1650)に因幡の樗谿神社(おおちだにじんじゃ)に日光東照宮の御分霊を勧誘したときの祭礼行列に、日光東照宮を象徴する麒麟を頭にした麒麟獅子舞を、因幡東照宮の奉納芸能として舞ったのが始まりとされています。
鳥取に広まった麒麟獅子舞が但馬にも伝えられたのではないかといわれていますが、いつごろのことなのか何も文献が残っていません。現在、麒麟獅子舞が残っているのは、鳥取県東部地域から兵庫県浜坂町、温泉町、香住町のみで、他の地域では見ることができません。麒麟獅子舞の麒麟の顔は大きな口、大きな鼻の穴、目の上に太いまゆ、立った耳、そして一本角とユーモラスな表情をしています。
新温泉町(旧浜坂町)と鳥取県の麒麟獅子舞では違いがあります。新温泉町(旧浜坂町)では、お囃子(はやし)に「ジャンジャン」と呼ばれるシンバルのような小型の楽器が用いられますが、新温泉町(旧浜坂町)以外では、木槌で叩く楽器「鉦(しょう)」が用いられるのが特徴です。また、お囃子のリズムも新温泉町(旧浜坂町)は速く、鳥取は遅いといわれています。新温泉町(旧浜坂町)の8つの舞いも、それぞれに舞い方、囃子のリズムなどが微妙に異なっています。

浜坂宇都野神社の麒麟獅子舞
江戸中期から伝承されているもので、7月の夏の例祭、「川下(かわすそ)祭り」で神前で舞われた後、御輿(みこし)町内巡行列の先導として町内を廻り、家々の門前で家内安全を祈念し勇壮に舞います。祭り当日は露店が並び、花火が上がり、近隣から多くの見物人が押し寄せて、町は祭り一色となります。

2011/06/22  

海上傘踊り【うみがみかさおどり】

 

海上傘踊り【うみがみかさおどり】
傘踊り
海上傘踊り(新温泉町)
・新温泉町海上
盆踊り
海上傘踊り
・新温泉町(旧温泉町)/海上/盆踊り

江戸時代から雨乞いを祈る絵模様傘の鈴の音。徳川末期、山陰地方が大干ばつに見舞われたとき、困った農民たちが雨を求めて色々な祈願をする中で、五郎作と言う老農夫が、三日三晩冠笠をまとって狂い踊りの悲願をたてたところ、満願の日に大雨が降り出し、飢饉から脱したといわれています。以来、盆踊り行事として伝承され、海上村の青壮年が保存しています。いつの頃からか、今日のような長柄の絵模様傘や踊りへと工夫改良されました。傘に大小240余りの鈴を付け、2人1組となって、2分の1拍子の曲に合わせて踊ります。
約5種類の曲があり、勇壮活発な舞いは、湯村温泉の観光名物となっています。昭和49年には、世界三大祭りの一つといわれるニースのカーニバルにも派遣され、勇壮活発な踊りを披露しました。

2011/06/22  

菖蒲綱引き【しょうぶつなひき】

 

菖蒲綱引き【しょうぶつなひき】
綱引き
綱引き行事は、東日本では小正月のときに、西日本では旧正月・節供やお盆の行事の一つとして、また九州では仲秋の名月におこなわれるなど、かつては全国的に分布していた民俗行事の一つです。

菖蒲綱引き
菖蒲綱引き(新温泉町)
・新温泉町久谷
6月5日
・国の重要無形民俗文化財

 

菖蒲綱引き
・新温泉町(旧浜坂町)/久谷/6月5日

端午(たんご)の節供(6月5日)に、屋根にあげた菖蒲(しょうぶ)・よもぎ・すすきで編んだ綱を引き合う菖蒲綱引きの行事がおこわれます。綱引きは5日、夜8時から久谷の人たちが綱をはさんで子供組と大人組に分かれ、古老が唄う「石場搗(ひ)き唄」にあわせて、「エイトー、エイトー」のかけ声をかけながら7回引き合います。また、7回目の勝負を「納め綱」と呼び、勝負の結果でその年の豊作を占います。
久谷の綱引きは、生の草を編んだ綱を年代別に分かれて引き合い、年占いに加えて、地区の発展を祈っておこなわれるなど、江戸時代から日本海沿岸に伝わる綱引き行事の形態をよく伝えています。


菖蒲綱引き
湯村温泉まつり
菖蒲綱引き
新温泉町)
・新温泉町湯
6月第1日曜日
湯村温泉まつり菖蒲綱引き
・新温泉町(旧温泉町)/湯/6月第1日曜日

湯村温泉の祖、慈覚大師(じかくたいし)をしのび旧暦の端午の節句(現在は6月第1日曜日)におこなわれる伝統行事。弘安の頃(720前)から、温泉の恵みに対する感謝、五穀豊穣、子どもたちの健やかな成長を祈ります。湯村温泉まつりとして親しまれていますが、別名「花湯まつり」ともいいます。
まつりの一大イベントが 菖蒲綱引きで、直径約50cm、長さ100m、重さ4tの菖蒲綱を、住民や観光客も加わって上と下に分かれて引き合います。勝負は1回限りで時間は5分間、勝負(菖蒲)運を占うものとして大変縁起がよいとされています。
古来、菖蒲は魔除けや薬として生活の中に取り入れられてきました。無病息災を祈って浴槽の中に入れ、香り高い菖蒲湯も楽しみます。

2011/06/22  

はねそ踊り【はねそおどり】

 

はねそ踊り【はねそおどり】
はねそ踊り
はねそ踊り(新温泉町)
・新温泉町丹戸
盆踊り
・県指定無形民俗文化財
はねそ踊り
・新温泉町(旧温泉町)/丹戸/盆踊り/県指定無形民俗文化財

戦国時代、田舎の豪士が我が家、我が身を守るため、家の子郎党に剣術を教えたことに由来するといわれています。その後、桃山時代に歌舞伎音曲が流行し、頭を切り六方を踏むようになり、その音曲を剣術に取り入れ、父が亡くなった後、仏前に向かい剣術を踊って供養し、霊を慰めたことから盛んになりました。
毎年、盆には行事の一つとして踊られ、古くは村祭りや田植え休み(しろめて)などにも村人総出で踊りに加わったといわれています。踊り手は2人、時には3人が1組となり、棒、懐剣、脇差、なぎなたなどを手に、太鼓とはやしに合わせて所作事を演じるもので、踊り手の多い時には何組もが円陣をつくって演じます。所作事の芸題は毛谷村六助、鈴木主人、平井権八、宮城野信夫、国定忠次など数多く伝わっていますが、古くはさらに鬼神のお松、笠松峠仇討、夏目千太郎、その他何十種もあったといわれます。
その型の由来するところは歌舞伎にあり、顔の向け方、足の踏み方にも直線的なきめてがあります。また敏捷な動作やしなやかな身のこなしには気迫とともに節度があります。その女役は、かつては男子の女形によって演じられていましたが、現在は女性が進んで女役を演じるようになりました。
この地区の盆踊りには他にも多くの歌曲と踊り手があったようですが、口説風の調子と諸作事だけが「はねそ踊り」の名で今日に伝わったと考えられ珍重されています。

但馬の養蚕【たじまのようざん】

 

但馬の養蚕【たじまのようざん】
繭
養蚕秘録
養蚕秘録3巻

養蚕の起源や歴史、種類、育飼法、桑の栽培などをたくさんの絵図を使って集大成されたもので、誰にでもわかりやすく技術を解説しています。

■上垣守国養蚕記念館
・養父市大屋町蔵垣

・TEL.079-669-0120
(養父市大屋地域局)

・午前9時~午後5時
・年末年始休館

・入館料/無料

●関連情報
養父市役所

●養蚕の歴史
但馬は古くから養蚕が盛んでした。元禄10年(1697)に桑の名産地としての但馬をつづった「農業全書」も発行され、特に江戸中期には、新しい理論や技術が導入され、養蚕業は飛躍的に発展しました。

●養蚕の技術を高め、ひろめた人々
養父市大屋町蔵垣生まれの上垣守国(もりくに)は、蚕飼いの高い技術や新しい養種を但馬各地にひろめ、質のよい繭づくりの普及に尽くしました。この実践をもとに、享和3年(1803)に発行した「養蚕秘録」全3巻は、技術書としての評価が高く、フランス語やイタリア語にも翻訳され、世界的にも普及し、日本における技術輸出第1号といわれています。
また、同じ養父市大屋町出身の正垣半兵衛も新しい蚕種を但馬各地に普及させ、明治時代には但東町赤花の橋本龍一や、養父市大屋町古屋の小倉一郎が奥深い山里で機械製糸業を起こし、養蚕製糸業の近代化と発展に大きな業績を残しました。

●その後の養蚕

但馬地方はこうした先人たちの努力によって優良な繭の生産地となり、機械製糸が地場産業として栄えました。養蚕製糸業は大正・昭和の経済恐慌の時には、但馬の農家を助けた大切な副業であり、重要な輸出産業でした。しかし、昭和20年代半ばになると、ナイロンなどの新素材・技術が開発され昔の面影は失われていきました。

但馬杜氏【たじまとうじ】

 

但馬杜氏【たじまとうじ】
升酒

長年の知識と技術
但馬杜氏が造り出す
甘露の雫。
麹づくり
麹づくり
香りや風味の成分となる麹をつくる作業。酒つくりの中で最も神経を使う重要な仕事とされています。

●関連情報
新温泉町役場

●但馬人気質が造りだす甘露の雫
但馬では、特に雪深い地方の人たちが冬季の働き場所を求め、出稼ぎとして、全国各地に酒造りに出かけました。杜氏とは酒造りの最高責任者のことです。酒造りは杜氏・蔵人(くらびと)のグループが、新米の刈り入れの終わる10月頃から翌年の春まで、約6~7カ月の間、家を離れ、酒造会社の蔵元に泊まり込んでおこなわれます。蔵によって人数は異なりますが、数人から20人程度の蔵人がチームをつくり、杜氏の指導のもとで酒造りの作業をおこないます。「一蔵一杜氏」といわれるように、杜氏の数だけ酒の種類があるといわれています。
但馬の人は、慎重で誠実、質素にも耐えて思いやりがあり、粘り強い精神力があります。長年の知識と技術の蓄積が今日の但馬杜氏を生みだしました。

●記録に残る但馬杜氏
記録に残るものでは、天保8年(1837年)大阪でおこった大塩平八郎の乱に関連して、大和郡山にいた小代庄城山(香美町小代区)出身の杜氏、藤村某が登場します。藤村はこの地方の代表格で、城主の信頼も厚かったといいます。この時代から、すでに数多くの但馬の杜氏が地方に出かけていたことがわかります。
平成4年の記録では、全国の杜氏は1,754人、但馬の杜氏は全体の1割を占め、近畿を中心に中国・四国・北陸などで活躍していました。しかし、その数も20年前と比べると4分の1、5分の1に減少し、高齢化も進んでいます。また、冬季の出稼ぎシステムも時代にそぐわなくなってきています。最近、酒造りも機械化されてきましたが、手づくりの味の魅力は依然として重宝されています。

2011/06/22  

加藤文太郎【かとうぶんたろう】

 

加藤文太郎【かとうぶんたろう】

加藤文太郎
(1905~1936)
明治38年3月11日、兵庫県美方郡新温泉町(旧浜坂町)浜坂に生まれる。単独行のパイオニアとして知られる登山家。但馬・関西・日本アルプスの山のほとんどを単独登頂。

加藤文太郎記念図書館
2Fフロアーに「加藤文太郎記念資料室」があり、文太郎が使ったスキーなどの道具や手帳、写真・資料が展示されている。また、閲覧室には山に関係する貴重な資料がたくさんある。
・新温泉町浜坂
・TEL.0796-82-5251
・午前10時~午後6時
(月~金)
・午前9時~午後5時
(土・日)
・木曜定休

●関連情報
加藤文太郎記念図書館

●生い立ち
加藤文太郎は明治38年(1905)、浜坂町(現新温泉町)で父加藤岩太郎、母よねの四男として生まれました。家は浜の近くで稼業は漁師でした。外見は温和・寡黙で心優しい文太郎ですが、主体性に富み、一徹で、ひとつの事に熱中すると脇目も振らず熱中するタイプでした。
浜坂小学校高等科を卒業すると、神戸三菱内燃機製作所に製図研究生として入社しました。下宿から会社までの4キロ近くの道を、毎日歩いて通勤していたとか。
大正10年(1921)になると第三学年の副級長を任命されました。また、同時に市立神戸実業補修学校にも入り、2回も優等賞と皆勤賞を受けました。大正12年(1923)には兵庫県立工業学校別科機械科を皆勤で卒業、15年には神戸高等専修学校電気科の課程を卒業し、有能な技師としての知識と技術を磨いていきました。
文太郎は理数系に優れ、趣味もなく仕事一筋でしたが、社内に余暇を遠足で楽しむ目的の会「デテイル会」が結成されるや、たちまちリーダーとして率先、余暇は山歩き一筋に変わりました。それは遠足の域を越えて本格的な登山へ発展していきました。

●単独行の登山家
足の速い彼は次第に驚異的存在となっていきました。彼の単独行の最初は大正14年(1925)、六甲山脈全縦走をおこなった時でした。この時、家を出てから家に帰り着くまで全部歩きづめで約100キロを歩き続けました。この頃から、歩くことに本格的に興味と自信を持つようになり、県下の国道、県道歩きが始まりました。神戸から浜坂の生家に時々帰っていますが、全行程100キロ以上を何度も徒歩で帰っています。但馬の山はほとんど踏破していました。
大正14年(1925)、日本アルプスに登り、本格登山歴の出発点となりました。当時登山する人たちはどちらかというと貴族趣味で、金と時間の充分ある人たちが多かったので服装も派手でした。文太郎の服装は地味で、しかも手づくりの服でしたし、靴も地下足袋を用い、いつも一人だったので、登山家たちからは「単独行の加藤」「地下足袋の加藤」と呼ばれていました。登山では単独行はタブー視され、ポーターを連れずに登る文太郎は軽蔑的に見られ、山岳会では異色でした。
しかし、文太郎自身は、そういう視線に無頓着で黙々と登山を続けました。そして、冬山単独行を成功させ、次第に有名になり名声は上がる一方でした。
昭和10年(1935)、花子と結婚。娘の登志子も生まれ、幸せな日々でした。
昭和11年(1936)元旦、いつもは単独行の文太郎がこの時は友達といっしょに山にいました。そして、遭難。暖かくなった4月、加藤文太郎の遺体が発見されました。
加藤文太郎の生涯は新田次郎氏の名作「孤高の人」となって出版され、多くの人々に感動を与えています。

2011/06/22  

前田純孝【まえだじゅんこう】(翠渓すいけい)

 

前田純孝【まえだじゅんこう】(翠渓すいけい)

前田純孝(翠渓)
(1880~1911)
明治13年4月3日、兵庫県美方郡新温泉町(旧浜坂町)諸寄に生まれる。東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。

歌碑

ふるさとの浜坂町諸寄の海にのぞみ建てられている歌碑

●生い立ち
東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。前田純孝は明治13年(1880)4月3日、浜坂町諸寄(現新温泉町)の旧家に父純正、母うたの長男として生まれました。

父はかつて池田草庵(いけだそうあん)の青谿書院(せいけいしょいん)の門下生で、村一番の教養人でしたが、生活力がなく前田家はどんどん落ちぶれていきました。また、うたを正妻に迎えても愛人との関係を断つことができず、妻の親族から離婚を突きつけられ、母は村岡町の実家へ帰って行きました。純孝3歳の時でした。離婚すると、すぐに愛人が正妻として入り、継母と異母兄弟との生活が始まりました。継母とうまくいかず、悲しみ多い幼児期を過ごしました。

純孝は7歳にして家族と別れ、鳥取師範付属小学校に入学。卒業する15歳まで一度も帰省せず勉学一途に励みました。彼の孤独な感覚は次第に文学へと転化されていきました。

●薄幸の歌人

文学的才能は御影師範学校・東京高等師範学校在学中から発揮され、雑誌「明星」(みょうじょう)の投稿によって、個人的感情的表現は彼の生い立ちと相まって一段と磨かれていきました。

秋雨は親はなくとも育ちたる 我と知りつつ降るとし思ふ

牛の背に我を乗せずや草刈女 春来峠はあう人もなし

君を思う我をはた思う君我の 二人の中のいとし児ぞこれ

大阪島之内高等女学校教頭として赴任、妻信子を得てしばしの幸福感に浸りましたが、長くは続きませんでした。純孝は過労から倒れたのです。肺結核でした。時を同じくして妻も産後の肥立ちが悪化、夫婦枕を並べての療養生活が始まりました。妻子に迷惑をかけないように純孝は療養場所を故郷に移しました。

死の直前まで数々の学校唱歌や歌集を創作し、前田純孝は明石に残した妻子を思いながら31歳の生涯を閉じました。

干からびし我が血を吸いていきてある 虱はさらにあわれなるもの

(絶筆)

風吹かば松の枝なる枝なれば 明石を思ふ妹と子思ふ

純孝の二千数首の珠玉の歌集は純孝研究者たちの力で世の中に蘇ってきました。