お茗荷祭り【おみょうがまつり】
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●お茗荷祭り ・新温泉町(旧温泉町)/竹田/2月11日 お茗荷祭りは、毎年2月11日の1番寒い時期におこなわれます。境内に「めぬ池」という小さな池があり、その中の小さな島に、お茗荷祭りで神に捧げられるミョウガができます。自然にできるミョウガは、普通暑い頃に食べるが、この小島にできるミョウガは、まわりに雪が積もる2月に芽が青々と育つのです。なぜ、こんな季節はずれにミョウガができるのか、全くわかりません。但馬七不思議のひとつにあげられる所以です。 |
お茗荷祭り【おみょうがまつり】
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●お茗荷祭り ・新温泉町(旧温泉町)/竹田/2月11日 お茗荷祭りは、毎年2月11日の1番寒い時期におこなわれます。境内に「めぬ池」という小さな池があり、その中の小さな島に、お茗荷祭りで神に捧げられるミョウガができます。自然にできるミョウガは、普通暑い頃に食べるが、この小島にできるミョウガは、まわりに雪が積もる2月に芽が青々と育つのです。なぜ、こんな季節はずれにミョウガができるのか、全くわかりません。但馬七不思議のひとつにあげられる所以です。 |
川下祭り【かわすそまつり】
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●川下祭り ・新温泉町(旧浜坂町)/浜坂宇津野神社/7月17~19日 川下祭りは但馬三大祭のひとつで、毎年7月19日から3日間にわたり、宇都野神社で行われます。祭りの起源は江戸時代の中期に始まったと伝えられ、京都の祇園祭の影響を色濃く受けています。 |
麒麟獅子舞【きりんじしまい】
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●麒麟獅子舞 新温泉町(旧浜坂町) ・居組麒麟獅子舞/10月9日 大歳神社(新温泉町居組) ・諸寄麒麟獅子舞/7月14日.15日 為世永神社(新温泉町諸寄) ・浜坂麒麟獅子舞/7月19日~21日川下祭 10月8日 宇都野神社(新温泉町浜坂) ・栃谷田君麒麟獅子舞/10月13日 厳島神社.長田神社(新温泉町栃谷) ・七釜麒麟獅子舞/9月29日 山宮神社(新温泉町七釜) ・福富麒麟獅子舞/9月28日 三柱神社新温泉町福富) ・和田麒麟獅子舞/10月3日 八柱神社(新温泉町和田) ・三尾麒麟獅子舞/10月9日 八柱神社.三柱神社(新温泉町三尾) 浜坂宇都野神社.居組.三尾麒麟獅子舞は県の重要無形文化財 新温泉町(旧温泉町) ●麒麟獅子舞 ●浜坂宇都野神社の麒麟獅子舞 |
海上傘踊り【うみがみかさおどり】
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●海上傘踊り ・新温泉町(旧温泉町)/海上/盆踊り 江戸時代から雨乞いを祈る絵模様傘の鈴の音。徳川末期、山陰地方が大干ばつに見舞われたとき、困った農民たちが雨を求めて色々な祈願をする中で、五郎作と言う老農夫が、三日三晩冠笠をまとって狂い踊りの悲願をたてたところ、満願の日に大雨が降り出し、飢饉から脱したといわれています。以来、盆踊り行事として伝承され、海上村の青壮年が保存しています。いつの頃からか、今日のような長柄の絵模様傘や踊りへと工夫改良されました。傘に大小240余りの鈴を付け、2人1組となって、2分の1拍子の曲に合わせて踊ります。 |
菖蒲綱引き【しょうぶつなひき】
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●綱引き 綱引き行事は、東日本では小正月のときに、西日本では旧正月・節供やお盆の行事の一つとして、また九州では仲秋の名月におこなわれるなど、かつては全国的に分布していた民俗行事の一つです。 |
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●菖蒲綱引き ・新温泉町(旧浜坂町)/久谷/6月5日 端午(たんご)の節供(6月5日)に、屋根にあげた菖蒲(しょうぶ)・よもぎ・すすきで編んだ綱を引き合う菖蒲綱引きの行事がおこわれます。綱引きは5日、夜8時から久谷の人たちが綱をはさんで子供組と大人組に分かれ、古老が唄う「石場搗(ひ)き唄」にあわせて、「エイトー、エイトー」のかけ声をかけながら7回引き合います。また、7回目の勝負を「納め綱」と呼び、勝負の結果でその年の豊作を占います。 |
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●湯村温泉まつり菖蒲綱引き ・新温泉町(旧温泉町)/湯/6月第1日曜日 湯村温泉の祖、慈覚大師(じかくたいし)をしのび旧暦の端午の節句(現在は6月第1日曜日)におこなわれる伝統行事。弘安の頃(720前)から、温泉の恵みに対する感謝、五穀豊穣、子どもたちの健やかな成長を祈ります。湯村温泉まつりとして親しまれていますが、別名「花湯まつり」ともいいます。 |
はねそ踊り【はねそおどり】
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●はねそ踊り ・新温泉町(旧温泉町)/丹戸/盆踊り/県指定無形民俗文化財 戦国時代、田舎の豪士が我が家、我が身を守るため、家の子郎党に剣術を教えたことに由来するといわれています。その後、桃山時代に歌舞伎音曲が流行し、頭を切り六方を踏むようになり、その音曲を剣術に取り入れ、父が亡くなった後、仏前に向かい剣術を踊って供養し、霊を慰めたことから盛んになりました。 |
但馬の養蚕【たじまのようざん】
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●養蚕の歴史 但馬は古くから養蚕が盛んでした。元禄10年(1697)に桑の名産地としての但馬をつづった「農業全書」も発行され、特に江戸中期には、新しい理論や技術が導入され、養蚕業は飛躍的に発展しました。 ●養蚕の技術を高め、ひろめた人々 ●その後の養蚕 但馬地方はこうした先人たちの努力によって優良な繭の生産地となり、機械製糸が地場産業として栄えました。養蚕製糸業は大正・昭和の経済恐慌の時には、但馬の農家を助けた大切な副業であり、重要な輸出産業でした。しかし、昭和20年代半ばになると、ナイロンなどの新素材・技術が開発され昔の面影は失われていきました。 |
但馬杜氏【たじまとうじ】
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●但馬人気質が造りだす甘露の雫 但馬では、特に雪深い地方の人たちが冬季の働き場所を求め、出稼ぎとして、全国各地に酒造りに出かけました。杜氏とは酒造りの最高責任者のことです。酒造りは杜氏・蔵人(くらびと)のグループが、新米の刈り入れの終わる10月頃から翌年の春まで、約6~7カ月の間、家を離れ、酒造会社の蔵元に泊まり込んでおこなわれます。蔵によって人数は異なりますが、数人から20人程度の蔵人がチームをつくり、杜氏の指導のもとで酒造りの作業をおこないます。「一蔵一杜氏」といわれるように、杜氏の数だけ酒の種類があるといわれています。 但馬の人は、慎重で誠実、質素にも耐えて思いやりがあり、粘り強い精神力があります。長年の知識と技術の蓄積が今日の但馬杜氏を生みだしました。 ●記録に残る但馬杜氏 |
2011/06/22 先人たち
加藤文太郎【かとうぶんたろう】
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●生い立ち 加藤文太郎は明治38年(1905)、浜坂町(現新温泉町)で父加藤岩太郎、母よねの四男として生まれました。家は浜の近くで稼業は漁師でした。外見は温和・寡黙で心優しい文太郎ですが、主体性に富み、一徹で、ひとつの事に熱中すると脇目も振らず熱中するタイプでした。 浜坂小学校高等科を卒業すると、神戸三菱内燃機製作所に製図研究生として入社しました。下宿から会社までの4キロ近くの道を、毎日歩いて通勤していたとか。 大正10年(1921)になると第三学年の副級長を任命されました。また、同時に市立神戸実業補修学校にも入り、2回も優等賞と皆勤賞を受けました。大正12年(1923)には兵庫県立工業学校別科機械科を皆勤で卒業、15年には神戸高等専修学校電気科の課程を卒業し、有能な技師としての知識と技術を磨いていきました。 文太郎は理数系に優れ、趣味もなく仕事一筋でしたが、社内に余暇を遠足で楽しむ目的の会「デテイル会」が結成されるや、たちまちリーダーとして率先、余暇は山歩き一筋に変わりました。それは遠足の域を越えて本格的な登山へ発展していきました。 ●単独行の登山家 |
2011/06/22 先人たち
前田純孝【まえだじゅんこう】(翠渓すいけい)
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●生い立ち 東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。前田純孝は明治13年(1880)4月3日、浜坂町諸寄(現新温泉町)の旧家に父純正、母うたの長男として生まれました。 父はかつて池田草庵(いけだそうあん)の青谿書院(せいけいしょいん)の門下生で、村一番の教養人でしたが、生活力がなく前田家はどんどん落ちぶれていきました。また、うたを正妻に迎えても愛人との関係を断つことができず、妻の親族から離婚を突きつけられ、母は村岡町の実家へ帰って行きました。純孝3歳の時でした。離婚すると、すぐに愛人が正妻として入り、継母と異母兄弟との生活が始まりました。継母とうまくいかず、悲しみ多い幼児期を過ごしました。 純孝は7歳にして家族と別れ、鳥取師範付属小学校に入学。卒業する15歳まで一度も帰省せず勉学一途に励みました。彼の孤独な感覚は次第に文学へと転化されていきました。 ●薄幸の歌人 文学的才能は御影師範学校・東京高等師範学校在学中から発揮され、雑誌「明星」(みょうじょう)の投稿によって、個人的感情的表現は彼の生い立ちと相まって一段と磨かれていきました。 秋雨は親はなくとも育ちたる 我と知りつつ降るとし思ふ 牛の背に我を乗せずや草刈女 春来峠はあう人もなし 君を思う我をはた思う君我の 二人の中のいとし児ぞこれ 大阪島之内高等女学校教頭として赴任、妻信子を得てしばしの幸福感に浸りましたが、長くは続きませんでした。純孝は過労から倒れたのです。肺結核でした。時を同じくして妻も産後の肥立ちが悪化、夫婦枕を並べての療養生活が始まりました。妻子に迷惑をかけないように純孝は療養場所を故郷に移しました。 死の直前まで数々の学校唱歌や歌集を創作し、前田純孝は明石に残した妻子を思いながら31歳の生涯を閉じました。 干からびし我が血を吸いていきてある 虱はさらにあわれなるもの (絶筆) 風吹かば松の枝なる枝なれば 明石を思ふ妹と子思ふ 純孝の二千数首の珠玉の歌集は純孝研究者たちの力で世の中に蘇ってきました。 |