2023/01/12  

青倉神社「目の神様」【あおくらじんじゃ「めのかみさま」】

 

青倉神社「目の神様」
【あおくらじんじゃ「めのかみさま」】

青倉神社「目の神様」
青倉神社「目の神様」
青倉神社
・朝来市山内権現谷82-1
青倉神社の社殿は2階建てと珍しく、社殿の側には御神体である巨石神像が鎮座しています。1階の拝殿の中から巨石を拝むこともできます。

 

 

孝行息子に神様が与えた水

朝来市にある青倉山。
その中腹にある青倉神社は、目の神様として信仰を集めています。
そのむかし、年老いた父親と暮らす孝行息子がいました。ある日父は山菜を取ろうと山に入ったが、目にウドのトゲが刺さり大怪我を負ってしまいました。息子は必死に看病しますが、痛みは一向におさまりません。疲れで眠り込んでしまった息子の夢枕に神様が立ち、岩から湧き出る水をつけるようお告げをします。すぐに水を探しを始めましたが、とうとう見つけることはできませんでした。
そんな時、青倉山の小さな祠が目に入り、もう一度神様にお願いしてみようと近づくと、近くの山肌から水が流れ落ちているではありませんか。お告げにあった水に違いないと大喜びした息子は、その水を持ち帰り父の目を洗ってやりました。すると痛みが消え、父の目は元通り見えるようになったそうです。
この話を聞いた人々が参拝し、青倉神社は目の神様として知られることになったといいます。またそれ以来、青倉神社の氏子はウドを食べないという噂もあります。

 

 

2021/01/24  

小山弥兵衛と心諒尼 【こやまやへえとしんりょうに】

 

小山弥兵衛と心諒尼
【こやまやへえとしんりょうに】

小山弥兵衛と心諒尼
小山弥兵衛と心諒尼
法宝寺のクスノキ
・朝来市和田山町岡田
弥兵衛は、自分の健在であることを国の者に知らせたいと願い、心諒尼にクスの苗を3本持たせました。その内の1本は現在、但馬の法宝寺(ほっぽうじ)に残っています。

 

 

祖父を弔う孝行物語

昔、東河庄野村(朝来市和田山町東河地区)に「小山弥兵衛」という若いながらも人望が厚い男がいました。1738年、長く続く凶作のため、庄屋たちが訴状を持って生野代官までお願いに行きましたが、農民が鍬や鎌を持って集まってしまい、これを一揆としてみなされ、その中心にいた弥兵衛は長崎県の壱岐島へ流されてしまいました。見性寺に預けられた弥兵衛は、島民の農作業を手伝ったり、子どもたちに読み書きを教えたりするなど、島民から慕われる存在となっていきました。

一方、弥兵衛の孫娘は祖父に会いたいという一心で、僧になれば修行で全国を歩き回り、祖父の所にも行けると考え、尼僧になるため梁瀬の桐葉庵(現在は桐葉寺)に入り修行を開始、法名を「全鏡」と名乗りました。壱岐島までの困難な道のりを進み、ようやく弥兵衛と対面を果たした全鏡。月に数日間だけ博多から壱岐へ渡り、祖父の世話をしました。

弥兵衛が亡くなった後は遺骨を携えて帰郷し、円明寺(朝来市和田山町宮)から「心諒尼」という戒名をもらい、水月庵(現在は水月院)を再興したと言います。この史実の縁がきっかけとなり、現在、朝来市と壱岐市は友好都市提携を結んでいます。

 

 

2019/03/02  

粟鹿神社・勅使門の鳳凰 【あわがじんじゃ・ちょくしもんのほうおう】

 

粟鹿神社・勅使門の鳳凰
【あわがじんじゃ・ちょくしもんのほうおう】

赤淵神社の鮑伝承
赤淵神社の鮑伝承
面沼神社のめぬ池
・朝来市山東町粟鹿
勅使門は全体的には唐様でありながら、天竺様の手法が取り入れられた貴重な文化財で、通常は年2回の大祭以外は開かれることはありません。透かし彫りの欄間が付いています。

 

彫刻の鳳凰が鳴く七不思議

朝来市山東町にある粟鹿神社の創建は、2000年前に遡ります。但馬国一の宮で、延喜式に定める明神大社でもある粟鹿神社。昔から神徳の高い神社として朝廷の尊崇が厚く、国家の大難に際して四度の勅使が派遣されたと伝えられています。その折にご加護を得られたことを記念して、約600年前に勅使門が建てられました。

この由緒正しい神社には、古くから伝わる7つの不思議な話が残っています。その1つが江戸期に活躍した彫師、左甚五郎が勅使門の左右に彫った2羽の鳳凰の話です。

この彫刻の鳳凰、名作ゆえに夜な夜な門を飛び出し、人を驚かせていたと言います。鳴き声もうるさく、苦情が来たので、甚五郎が1羽の首を切り落とすと、以後鳴かなくなったと伝えられています。それを裏付けるように、現在は左右の門扉の右の扉の鳳凰が首から下だけになっています。首が切り落とされたため現在は鳴くことはありませんが、神社を訪れれば、今も伝わる鳳凰の躍動を感じることができます。

 

 

2018/01/16  

赤淵神社の鮑伝承【あかぶちじんじゃのあわびでんしょう】

 

赤淵神社の鮑伝承【あかぶちじんじゃのあわびでんしょう】
赤淵神社の鮑伝承
赤淵神社の鮑伝承
赤淵神社
・朝来市和田山町枚田
JR和田山駅から104号線を南下し、看板が見えたら枚田地区へ。しばらく進むと鳥居が見えます。本殿は国指定重要文化財。二階建ての楼門には動きのある彫刻が施されています。

 

 

鮑にまつわる不思議な伝承が残る「赤淵神社」

竹田城跡のあるまち朝来市和田山町。市街地から少し離れた枚田地区に、但馬国造一族の日下部氏を奉祭する赤淵神社が鎮座しています。山ぎわに立つ鳥居をくぐり石段を上がっていくと、楼門、神門、勅使門と格式のある三つの門が続き、上がった先には広い境内が見え、開放的な雰囲気を醸し出しています。小高い丘にある神社で、秋には橙色の暖かみある紅葉が境内を彩ります。

祭神は赤渕足尼神、表米宿禰神、大海龍王神の三柱を祀っている。大海龍王とは海の神で、この神社にはその昔、アワビが難を救ったという伝説が残っています。大化元年(645)頃。日下部氏の祖・表米宿禰命が、日本に来襲した新羅の軍船を丹後・白糸浜で迎え撃った際の話。

逃げる敵を海上で追撃していると、嵐に襲われ船が沈没しそうになりました。するとその時、海底から無数のアワビが浮き上がり、それによって船は助けられたといいます。帰路途中にも逆風が吹きますが、再び無数のアワビが船を持ち上げ、事なきを得ました。さらに美しい船が現れ、その船の先導で丹後の浦嶋港(京都府伊根町)に入りました。表米が大船に行くと誰もおらず、竜宮に住むといわれる大きなアワビだけが光っていました。

表米は危機を逃れ勝利したことを海神のご加護と悟り、そのアワビを衣服に包んで持ち帰り、赤淵神社を建てて祀りました。それ以来赤淵神社の祭礼にはアワビの神事が行われ、近隣ではアワビを大事にし、食べてはならないという風習が伝えられています。

 

 

2014/12/05  

地がため地蔵【ぢがためじぞう】

 

地がため地蔵【ぢがためじぞう】
地がため地蔵
地がため地蔵
柴の地がため地蔵
(朝来市)
・朝来市山東町柴
朝来市山東町側から遠阪峠を登る国道427号線から柴地区に入って奥に進むと山際にある地がため地蔵。但馬地蔵巡礼六十六ケ所の40番目の札所となっています。

 

但馬の開拓時に祈願「地がため地蔵」
六十六地蔵を巡る、但馬の遍路道

但馬地方と丹波地方の境となる遠阪峠。朝来市山東町側の登り口付近に、「地がため地蔵」と呼ばれるお地蔵さんを祀った小さな祠があります。
昔、但馬の地は泥海で人々の生活は苦しく、大変難儀をしていました。そこで、天日槍命をはじめとする但馬五社(絹巻神社・出石神社・小田井神社・養父神社・粟鹿神社)の神々が集まり、力を合わせて瀬戸の津居山を切りひらき、その泥水を日本海に流し出して但馬の平野を開拓しました。
しかし泥がなかなか乾かない但馬の土地を見て、もっと住みよい土地にしようと思われた神々。見国岳といわれる粟鹿山の頂上に集まり、乾ききらない但馬の土地を眺め、大きな梵字を書き、その要所の六十六ヶ所に地がため地蔵としてお地蔵さんを祀りました。
そのおかげで但馬の土地は乾き、今のように大きな盆地を中心にした豊かな但馬国が生まれたといいます。
但馬地蔵巡礼六十六ヶ所とは、全国六十六ケ国の但馬版として整備された巡礼道で、総道程約175キロメートルもあります。心を込めて巡れば全国をまわるだけの功徳が得られるとされています。
但馬全域にわたって地蔵菩薩を示す「訶」の梵字をかたどった順路になっており、その一番手前にあるのが、柴地区の地がため地蔵。このお地蔵さんは、但馬地蔵巡礼六十六ヶ所の40番目の札所になっています。そのご詠歌に「柴原をわけゆく我ものちの世は頼む地蔵の姿おがむよ」とうたわれています。