2024/12/26  

出雲岩・空を飛んだ馬【いずもいわ・そらをとんだうま】

 

出雲岩・空を飛んだ馬
【いずもいわ・そらをとんだうま】

出雲岩・空を飛んだ馬
出雲岩・空を飛んだ馬

出雲岩
・新温泉町塩山
新温泉町塩山から前に抜ける峠道に残る「出雲岩」。

 

 

大国主命が飛び乗った伝承の岩

その昔、大国主命が賊に襲われて、遠くから新温泉町の塩山まで馬に乗って逃げてきました。そこには、高さ10メートル、横幅7メートルもある「出雲岩」と呼ばれる大きな岩があって、大国主命はそこで休んでいました。

しかし、賊の大軍がどんどん押し寄せてきて、絶体絶命のピンチにおちいった大国主命。「出雲岩」の下は断崖絶壁であり、逃げ場を失った大国主命は、どこか逃げる場所はないかとあたりを見回します。すると、遠く向こうに大きな森が見えました。 「これは、しめた!」と思った大国主命は、祈りをささげつつ、乗っていた馬もろとも「出雲岩」から飛び立ちました。 すると、神の力か、大国主命は空を飛び、着いたところが隣村の飯野にある「さるが滝」というところに着地します。そこにも大きな岩があり、その岩に馬のくらをかけて休まれ、最大の危機から脱出したそうです。その岩を地元の人は、「くらかけ岩」と呼んでいます。休息をして力を取り戻した大国主命は、さらに飯野を飛び越えて雲に乗り、遠く出雲の地(今の島根県出雲地域)まで、飛んで行かれたと伝わっています。

地元にある「出雲岩」と「くらかけ岩」には、今でも馬のひずめの跡が残っているそうで、新温泉町塩山から飯野へ、大国主命が谷を飛び越えた跡とされています。

 

 

2024/12/26  

なんじゃもんじゃの木【なんじゃもんじゃのき】

 

なんじゃもんじゃの木
【なんじゃもんじゃのき】

なんじゃもんじゃの木
なんじゃもんじゃの木

佐々伎神社
・豊岡市但東町佐々木
「なんじゃもんじゃ」とは、立派な植物や怪木に対して全国的に使われている愛称。この木は鹿子の木(かごのき)です。

 

 

木の力に翻弄された恋心

豊岡市但東町佐々木の佐々伎神社に生えている「なんじゃもんじゃの木」は、撫でると愛情が芽生えると言い伝えられています。若者には恋人ができると噂されており、その力に翻弄された、とある娘の悲恋の物語が残されています。

その昔、京の都に娘が住んでいました。偶然道を訪ねてきた若く美しい公家に一目で恋に落ちましたが、公家は但馬の佐々伎神社に勅使として代参するといいます。娘は「帰ってくる」という公家の言葉を信じて待っていましたが、堪えられなくなったある日、とうとう後を追って旅立っていきました。その時代の娘一人旅といえば、過酷さは並大抵のものではなく、大きな峠をいくつも越え、足の血豆は破れてしまうほどでした。

やがて、峠一つを残す谷までたどり着いた娘は、自分に会うために帰路に着くであろう公家を迎えるため、毎日峠を見上げて待っていました。しかし、彼が通る気配はありません。それもそのはず、代参中、好奇心から「なんじゃもんじゃの木」に触れた公家は佐々伎神社の巫女と恋に落ち、そこで結婚してしまっていたのです。噂でそれを知った娘は、一人泣きながら都に帰っていきました。それ以降、娘が恋心を募らせた谷は「こころ谷」と呼ばれ、すれ違いが生んだ、悲しい恋物語が語り継がれています。

 

 

2024/01/27  

上小田の柳神社【かみおだのやなぎじんじゃ】

 

上小田の柳神社
【かみおだのやなぎじんじゃ】

上小田の柳神社
上小田の柳神社

上小田の柳神社
・養父市八鹿町上小田
神社の裏側には約1500年前に造られた古墳があり、古墳時代から円山川と共に人々が生活した証を感じることができます。

 

 

柳の根株を祀った神社

 養父市八鹿町上小田区の柳神社の眼下には、但馬で1番大きい河川・円山川が流れています。樹木が付いた珍しいこの神社の名前は、この円山川にまつわる1つの伝説が由来となっています。
その昔、村人たちは毎日川を渡って土地を耕しに行き、夕方になるとまた川を渡り帰っていきました。たいていの日で、帰る頃には暗くなっていて、暗夜の川渡りは、足を踏み外して淵に落ちそうで危険でした。
ところが、円山川の浅瀬の中ほどには、夜になるとぼんやりと妖しい灯が光っており、この灯を頼りに安全に川を渡ることができました。人々は不思議に思い、光っていた周辺を昼間に調べてみると、古びた柳の株が川原石の間に埋まっているのを発見しました。夜に灯る光のおかげで安全に川を渡ることができることに村人たちは感謝して、この古株を氏神として祀ったそうです。円山川に沈んでいた柳の木が神社のご神木となり、現在も村の守り神となっています。

 

 

2024/01/27  

但馬御火浦伝説【たじまみほのうらでんせつ】

 

但馬御火浦伝説
【たじまみほのうらでんせつ】

但馬御火浦伝説
但馬御火浦伝説

但馬御火浦
・新温泉町浜坂〜香美町香住区余部
但馬御火浦は侵食された凝灰岩や花こう岩など地質学の宝庫として、学術的にも注目されています。

 

 

皇后を導くかがり火

「但馬御火浦」と呼ばれる、新温泉町から香美町へ続く約8kmの海岸線は、奇岩が悠然と連なる景勝地で、昭和9年に国の名勝・天然記念物に指定されています。
その一端にある新温泉町三尾には、日本書紀にも登場する神功皇后にまつわる伝説が語り継がれています。
神功皇后が、現在の朝鮮半島南部に存在したとされる三韓地域に遠征したとき、越前の港を出港した一行が三尾沖合に差し掛かったころ、海上にひどい濃霧が立ち込めて行手を阻まれてしまいました。進退きわまった重臣がすがる思いで神に祈ったところ、霧を裂くように一筋の光が差し込みます。それは三尾の漁師が集落の高台にある日和山で焚いたかがり火でした。
その灯りに導かれ、無事に三尾浦にたどり着いた神功皇后の一行。お礼として、その地に「御火浦」という名を贈ったといいます。
しかしその後、この地は大火に見舞われてしまい、「御火浦という地名が影響しているのでは」と考えた土地の人々は、元の「三尾浦」を地名として使うようになったそうです。
現在、御火浦一帯は山陰海岸ジオパークの一部として、雄大な景色を今に伝えています。

 

 

2023/01/12  

青倉神社「目の神様」【あおくらじんじゃ「めのかみさま」】

 

青倉神社「目の神様」
【あおくらじんじゃ「めのかみさま」】

青倉神社「目の神様」
青倉神社「目の神様」
青倉神社
・朝来市山内権現谷82-1
青倉神社の社殿は2階建てと珍しく、社殿の側には御神体である巨石神像が鎮座しています。1階の拝殿の中から巨石を拝むこともできます。

 

 

孝行息子に神様が与えた水

朝来市にある青倉山。
その中腹にある青倉神社は、目の神様として信仰を集めています。
そのむかし、年老いた父親と暮らす孝行息子がいました。ある日父は山菜を取ろうと山に入ったが、目にウドのトゲが刺さり大怪我を負ってしまいました。息子は必死に看病しますが、痛みは一向におさまりません。疲れで眠り込んでしまった息子の夢枕に神様が立ち、岩から湧き出る水をつけるようお告げをします。すぐに水を探しを始めましたが、とうとう見つけることはできませんでした。
そんな時、青倉山の小さな祠が目に入り、もう一度神様にお願いしてみようと近づくと、近くの山肌から水が流れ落ちているではありませんか。お告げにあった水に違いないと大喜びした息子は、その水を持ち帰り父の目を洗ってやりました。すると痛みが消え、父の目は元通り見えるようになったそうです。
この話を聞いた人々が参拝し、青倉神社は目の神様として知られることになったといいます。またそれ以来、青倉神社の氏子はウドを食べないという噂もあります。

 

 

2023/01/12  

温泉城と宴の清水 【ゆのしろとうたげのきよみず】

 

温泉城と宴の清水
【ゆのしろとうたげのきよみず】

温泉城と宴の清水
温泉城と宴の清水
湯村温泉
・新温泉町湯
温泉城の麓にある湯けむりの郷・「湯村温泉」。平安時代に開湯されたと伝わる名湯は、多くの侍の傷を癒してきたのかもしれません。

 

 

秀吉を悩ませた不思議な水源

岸田川の支流、春来川と稲負谷川に挟まれた白毫山(びゃくごうさん)。その標高338mの小高い山頂に、湯村温泉を見下ろすように温泉城(ゆのしろ)跡はあります。
その昔、豊臣秀吉が勢力拡大のため但馬の城を攻めていたときのこと。巧みな戦術で手当たり次第に城を落とす中、温泉城だけはなかなか攻略することができませんでした。兵糧攻めを行うも、それでも落ちない温泉城を不思議に思った秀吉が調べてみると、どうやら城内にどこからか飲水が引かれているようです。そこでお侍を坊主に変装させ、老婆がいる山中の茶屋に向かわせました。
「おばあさん、ここらのきれいな水は、いったいどこから出てくるんじゃ?」
と、侍がそこに住む老婆にさりげなく話しかけると、老婆は『宴の清水』という所から出てくると答えました。
それを聞いた秀吉は水源を絶ち、温泉城を落とすことに成功したといいます。どのようにしてあんな高い山城に水を引いたのか、いまだに解明されていません。

 

 

2022/01/15  

兎塚の由来 【うづかのゆらい】

 

兎塚の由来
【うづかのゆらい】

兎塚の由来
兎塚の由来
下中山の兎の塚
・香美町村岡区森脇
下中山(八幡神社の西)にある兎の塚(現在は入口にバリケード設置)。八井谷地区と川端(兎塚小学校近く)と合わせて3つの塚が残っています。※川端は私有地を通るため、見学の際はご注意ください。

 

 

3羽の古兎伝説

豊かな自然溢れる香美町村岡区。南端にあたる兎塚地域には地名にまつわる兎伝説が残っています。
その昔、村の大池に大きな蛇が棲んでおり、通る人を襲ったり馬や牛を飲みこんで村の人々から恐れられていました。この噂を聞いた帝(みかど)は勅命を出し、弓の名手である日下部政高に大蛇を退治するよう命じます。大蛇退治に向かったところ、3羽の古兎が現れて大蛇を退治させまいと政高の行く手を阻んできました。邪魔をする古兎たちは弓であっという間に退治され、その勢いで大蛇も退治され一件落着。
その後、殺された兎が化けて村の人々をたたり始めたので、村人たちは相談して兎の霊を鎮めるため、塚(お墓)を作ることにしました。下中山、川端、八井谷の3カ所にお墓を作り、それぞれ厚く霊を祀ったところ、たたりはなくなりました。
そこからこの地域を「兎塚」と呼ぶようになったといわれています。

 

 

2022/01/15  

養父神社の狼像 【やぶじんじゃのおおかみぞう】

 

養父神社の狼像
【やぶじんじゃのおおかみぞう】

養父神社の狼像
養父神社の狼像
養父神社の狼像
養父神社の狼像
・養父市養父市場
明治26年(1893)建立の狼像。狛犬と並んで拝殿の前に建っており、口を開けているのがメスで、閉じているのがオスになっています。

 

 

狼の力で守った白狼退治伝説

「養父の明神さん」とよばれ、農業の神として地元の人に親しまれてきた養父市の「養父神社」。紅葉のシーズンや初詣に多くの人が訪れるこの神社に、珍しい石像があるのをご存じでしょうか。
一見、4体の狛犬が並んでいる様に見えますが、尻尾を高く上げた1対は、「狼」の石像です。養父神社では、田畑を荒らす猪や鹿から作物を守る益獣として昔から狼を守り神にしています。
江戸時代に幕府が作った朝倉氏と八木氏の系図に、朝倉高清という武将と同神社に関わるこんな伝説が記されています。
鎌倉時代、関東で2mも越える大きな白猪が暴れていました。将軍・源頼朝に白猪退治を命じられた高清は、但馬に戻り養父神社に7日間こもって祈願。神前から霊力のある鏑矢を授かり、その矢で見事、白猪を退治しました。この功績が認められ、高清は頼朝の家来として迎えられたとされています。すでに絶滅してしまった日本狼ですが、養父神社では今日も石像として私たちを見守ってくれています。

 

 

2021/01/24  

小山弥兵衛と心諒尼 【こやまやへえとしんりょうに】

 

小山弥兵衛と心諒尼
【こやまやへえとしんりょうに】

小山弥兵衛と心諒尼
小山弥兵衛と心諒尼
法宝寺のクスノキ
・朝来市和田山町岡田
弥兵衛は、自分の健在であることを国の者に知らせたいと願い、心諒尼にクスの苗を3本持たせました。その内の1本は現在、但馬の法宝寺(ほっぽうじ)に残っています。

 

 

祖父を弔う孝行物語

昔、東河庄野村(朝来市和田山町東河地区)に「小山弥兵衛」という若いながらも人望が厚い男がいました。1738年、長く続く凶作のため、庄屋たちが訴状を持って生野代官までお願いに行きましたが、農民が鍬や鎌を持って集まってしまい、これを一揆としてみなされ、その中心にいた弥兵衛は長崎県の壱岐島へ流されてしまいました。見性寺に預けられた弥兵衛は、島民の農作業を手伝ったり、子どもたちに読み書きを教えたりするなど、島民から慕われる存在となっていきました。

一方、弥兵衛の孫娘は祖父に会いたいという一心で、僧になれば修行で全国を歩き回り、祖父の所にも行けると考え、尼僧になるため梁瀬の桐葉庵(現在は桐葉寺)に入り修行を開始、法名を「全鏡」と名乗りました。壱岐島までの困難な道のりを進み、ようやく弥兵衛と対面を果たした全鏡。月に数日間だけ博多から壱岐へ渡り、祖父の世話をしました。

弥兵衛が亡くなった後は遺骨を携えて帰郷し、円明寺(朝来市和田山町宮)から「心諒尼」という戒名をもらい、水月庵(現在は水月院)を再興したと言います。この史実の縁がきっかけとなり、現在、朝来市と壱岐市は友好都市提携を結んでいます。

 

 

2021/01/24  

コウノトリ伝説【こうのとりでんせつ】

 

コウノトリ伝説
【こうのとりでんせつ】

コウノトリ伝説
コウノトリ伝説
久々比神社
・豊岡市下宮
日本で唯一、コウノトリにゆかりがある神社。室町末期の建造と推定され、三間社流造の建物である本殿は国の重要文化財に指定されています。

 

 

皇子の心を動かしたコウノトリ

大空を優雅に舞うコウノトリの里、豊岡市の「久々比神社」には、「日本書紀」に記述が残るコウノトリ伝説が古くから伝わっています。

「久々比」とは鵠のことで、コウノトリのことを意味します。垂仁天皇が誉津別皇子を連れ、宮殿の前に立った時、コウノトリが大空を飛んでいました。その時、皇子が「これは何という名の鳥だ」と言葉を発します。皇子は30歳でしたが、まだ言葉を話すことができず、赤ん坊の泣き声のような声しか出ませんでした。この時初めて人並みの言葉を話したのです。天皇は大変喜び、「誰かあの鳥を捕まえて献上せよ」と言い、天湯河板挙が「私が必ず捕らえて献上します」と申し出て、大鳥が飛び行く国々を追いかけました。そして、出雲国か但馬国で捕らえ、献上したといわれています。

このことからコウノトリは霊鳥として大切にされ、その鳥が棲んでいる土地を久々比と呼び、木の神「久々遅命」をお祀りしました。これが久々比神社となったそうです。コウノトリは子宝を運んでくるという言い伝えから、全国から多くの人々が参拝に訪れ、境内にはたくさんのコウノトリ絵馬がかけられています。