2022/01/15  

兎塚の由来 【うづかのゆらい】

 

兎塚の由来
【うづかのゆらい】

兎塚の由来
兎塚の由来
下中山の兎の塚
・香美町村岡区森脇
下中山(八幡神社の西)にある兎の塚(現在は入口にバリケード設置)。八井谷地区と川端(兎塚小学校近く)と合わせて3つの塚が残っています。※川端は私有地を通るため、見学の際はご注意ください。

 

 

3羽の古兎伝説

豊かな自然溢れる香美町村岡区。南端にあたる兎塚地域には地名にまつわる兎伝説が残っています。
その昔、村の大池に大きな蛇が棲んでおり、通る人を襲ったり馬や牛を飲みこんで村の人々から恐れられていました。この噂を聞いた帝(みかど)は勅命を出し、弓の名手である日下部政高に大蛇を退治するよう命じます。大蛇退治に向かったところ、3羽の古兎が現れて大蛇を退治させまいと政高の行く手を阻んできました。邪魔をする古兎たちは弓であっという間に退治され、その勢いで大蛇も退治され一件落着。
その後、殺された兎が化けて村の人々をたたり始めたので、村人たちは相談して兎の霊を鎮めるため、塚(お墓)を作ることにしました。下中山、川端、八井谷の3カ所にお墓を作り、それぞれ厚く霊を祀ったところ、たたりはなくなりました。
そこからこの地域を「兎塚」と呼ぶようになったといわれています。

 

 

2022/01/15  

養父神社の狼像 【やぶじんじゃのおおかみぞう】

 

養父神社の狼像
【やぶじんじゃのおおかみぞう】

養父神社の狼像
養父神社の狼像
養父神社の狼像
養父神社の狼像
・養父市養父市場
明治26年(1893)建立の狼像。狛犬と並んで拝殿の前に建っており、口を開けているのがメスで、閉じているのがオスになっています。

 

 

狼の力で守った白狼退治伝説

「養父の明神さん」とよばれ、農業の神として地元の人に親しまれてきた養父市の「養父神社」。紅葉のシーズンや初詣に多くの人が訪れるこの神社に、珍しい石像があるのをご存じでしょうか。
一見、4体の狛犬が並んでいる様に見えますが、尻尾を高く上げた1対は、「狼」の石像です。養父神社では、田畑を荒らす猪や鹿から作物を守る益獣として昔から狼を守り神にしています。
江戸時代に幕府が作った朝倉氏と八木氏の系図に、朝倉高清という武将と同神社に関わるこんな伝説が記されています。
鎌倉時代、関東で2mも越える大きな白猪が暴れていました。将軍・源頼朝に白猪退治を命じられた高清は、但馬に戻り養父神社に7日間こもって祈願。神前から霊力のある鏑矢を授かり、その矢で見事、白猪を退治しました。この功績が認められ、高清は頼朝の家来として迎えられたとされています。すでに絶滅してしまった日本狼ですが、養父神社では今日も石像として私たちを見守ってくれています。

 

 

2021/01/24  

小山弥兵衛と心諒尼 【こやまやへえとしんりょうに】

 

小山弥兵衛と心諒尼
【こやまやへえとしんりょうに】

小山弥兵衛と心諒尼
小山弥兵衛と心諒尼
法宝寺のクスノキ
・朝来市和田山町岡田
弥兵衛は、自分の健在であることを国の者に知らせたいと願い、心諒尼にクスの苗を3本持たせました。その内の1本は現在、但馬の法宝寺(ほっぽうじ)に残っています。

 

 

祖父を弔う孝行物語

昔、東河庄野村(朝来市和田山町東河地区)に「小山弥兵衛」という若いながらも人望が厚い男がいました。1738年、長く続く凶作のため、庄屋たちが訴状を持って生野代官までお願いに行きましたが、農民が鍬や鎌を持って集まってしまい、これを一揆としてみなされ、その中心にいた弥兵衛は長崎県の壱岐島へ流されてしまいました。見性寺に預けられた弥兵衛は、島民の農作業を手伝ったり、子どもたちに読み書きを教えたりするなど、島民から慕われる存在となっていきました。

一方、弥兵衛の孫娘は祖父に会いたいという一心で、僧になれば修行で全国を歩き回り、祖父の所にも行けると考え、尼僧になるため梁瀬の桐葉庵(現在は桐葉寺)に入り修行を開始、法名を「全鏡」と名乗りました。壱岐島までの困難な道のりを進み、ようやく弥兵衛と対面を果たした全鏡。月に数日間だけ博多から壱岐へ渡り、祖父の世話をしました。

弥兵衛が亡くなった後は遺骨を携えて帰郷し、円明寺(朝来市和田山町宮)から「心諒尼」という戒名をもらい、水月庵(現在は水月院)を再興したと言います。この史実の縁がきっかけとなり、現在、朝来市と壱岐市は友好都市提携を結んでいます。

 

 

2021/01/24  

コウノトリ伝説【こうのとりでんせつ】

 

コウノトリ伝説
【こうのとりでんせつ】

コウノトリ伝説
コウノトリ伝説
久々比神社
・豊岡市下宮
日本で唯一、コウノトリにゆかりがある神社。室町末期の建造と推定され、三間社流造の建物である本殿は国の重要文化財に指定されています。

 

 

皇子の心を動かしたコウノトリ

大空を優雅に舞うコウノトリの里、豊岡市の「久々比神社」には、「日本書紀」に記述が残るコウノトリ伝説が古くから伝わっています。

「久々比」とは鵠のことで、コウノトリのことを意味します。垂仁天皇が誉津別皇子を連れ、宮殿の前に立った時、コウノトリが大空を飛んでいました。その時、皇子が「これは何という名の鳥だ」と言葉を発します。皇子は30歳でしたが、まだ言葉を話すことができず、赤ん坊の泣き声のような声しか出ませんでした。この時初めて人並みの言葉を話したのです。天皇は大変喜び、「誰かあの鳥を捕まえて献上せよ」と言い、天湯河板挙が「私が必ず捕らえて献上します」と申し出て、大鳥が飛び行く国々を追いかけました。そして、出雲国か但馬国で捕らえ、献上したといわれています。

このことからコウノトリは霊鳥として大切にされ、その鳥が棲んでいる土地を久々比と呼び、木の神「久々遅命」をお祀りしました。これが久々比神社となったそうです。コウノトリは子宝を運んでくるという言い伝えから、全国から多くの人々が参拝に訪れ、境内にはたくさんのコウノトリ絵馬がかけられています。

 

 

2019/03/02  

粟鹿神社・勅使門の鳳凰 【あわがじんじゃ・ちょくしもんのほうおう】

 

粟鹿神社・勅使門の鳳凰
【あわがじんじゃ・ちょくしもんのほうおう】

赤淵神社の鮑伝承
赤淵神社の鮑伝承
面沼神社のめぬ池
・朝来市山東町粟鹿
勅使門は全体的には唐様でありながら、天竺様の手法が取り入れられた貴重な文化財で、通常は年2回の大祭以外は開かれることはありません。透かし彫りの欄間が付いています。

 

彫刻の鳳凰が鳴く七不思議

朝来市山東町にある粟鹿神社の創建は、2000年前に遡ります。但馬国一の宮で、延喜式に定める明神大社でもある粟鹿神社。昔から神徳の高い神社として朝廷の尊崇が厚く、国家の大難に際して四度の勅使が派遣されたと伝えられています。その折にご加護を得られたことを記念して、約600年前に勅使門が建てられました。

この由緒正しい神社には、古くから伝わる7つの不思議な話が残っています。その1つが江戸期に活躍した彫師、左甚五郎が勅使門の左右に彫った2羽の鳳凰の話です。

この彫刻の鳳凰、名作ゆえに夜な夜な門を飛び出し、人を驚かせていたと言います。鳴き声もうるさく、苦情が来たので、甚五郎が1羽の首を切り落とすと、以後鳴かなくなったと伝えられています。それを裏付けるように、現在は左右の門扉の右の扉の鳳凰が首から下だけになっています。首が切り落とされたため現在は鳴くことはありませんが、神社を訪れれば、今も伝わる鳳凰の躍動を感じることができます。

 

 

2019/03/02  

面沼神社のお茗荷祭り【めぬまじんじゃのおみょうがまつり】

 

面沼神社のお茗荷祭り【めぬまじんじゃのおみょうがまつり】

面沼神社のお茗荷祭り
面沼神社のお茗荷祭り
面沼神社のめぬ池
・新温泉町竹田
境内にある「めぬ池」と小島。昔は裸参りもあり、祭りの日は女人禁制でした。以前は他の村からの来客もありましたが、現在は関係者のみの神事となっています。

 

但馬七不思議にあげられる奇祭

新温泉町竹田に鎮座する面沼神社。境内には「めぬ池」とよばれる小池があり、ここでは不思議なことが起こると伝えられています。周りに雪が積もる2月頃、池のなかにある小島にミョウガの芽が育つのです。通常春から夏にかけて芽を出すミョウガが、なぜ真冬の寒い時期にこの小島に生えるかは未だ分かっていません。

毎年2月11日には、ミョウガの芽の形・大きさ・光沢・色などで、その年の吉凶・景気を参拝者で自らが占う「お茗荷祭り」が行われています。早朝5時に始まり、宮司がミョウガを3本摘み、池の水で清め、セキショウ(サトウキビ科の多年草)を敷いた三方に乗せ、木地のふたをかぶせて神前に奉納します。芽がまっすぐ伸びていると豊作、曲がっていると日照り、上部に光沢があれば早稲、下部に光沢があれば晩稲がよいとされています。「命賀めでたや、富貴はんじょう」。健康と富を授かりますようにと願い、不思議なミョウガに明日を占う一風変わった祭りが、今もなお、おごそかに行われています。

 

 

2019/03/02  

琴弾峠・袖ヶ池のお姫様伝説 【ことびきとうげ・そでがいけのおひめさまでんせつ】

 

琴弾峠・袖ヶ池のお姫様伝説
【ことびきとうげ・そでがいけのおひめさまでんせつ】

赤淵神社の鮑伝承
赤淵神社の鮑伝承
琴弾峠の袖ヶ池
・養父市大屋町宮垣
ひっそりとした小さな池ですが、「袖ヶ池」や「琴弾」という地名があることから江戸時代から俳句に読み込まれる名所になっています。池の側には三つの句碑が置かれています。

 

八木城の落城にまつわる悲話

養父市八鹿町八木にある八木城跡は、国指定文化財でもある史跡です。その近くにある琴弾峠の山頂付近には、俳句の名所としても知られる池があります。袖ヶ池と呼ばれるこの小さな池には、とある姫の悲しい伝説が残っています。

その昔、八木城は、羽柴秀吉の大軍に攻められ落城しました。城主の八木豊信は切腹しましたが、豊信の娘の奈津江姫はなんとかこの戦いを逃れました。しかし、姫が琴弾峠から八木城を振り返ると、すでに城は真っ赤に燃えていました。力尽きた姫は池に身を投げ、自ら命を絶ってしまったそうです。数日後に姫が着ていた着物の袖が水面に浮かんできたことから、「袖ケ池」と呼ばれるようになったと伝わります。

一説によると琴弾峠という名は、その姫が琴を弾いたためだとも言われています。 また、麓の養父市大屋町宮垣区では、池に身を投げたのは三方城の姫とも伝えられていますが、いずれも命を落とす悲しい結末になっています。現在、池の周りには、姫の心を慰めるように美しい桜が植えられています。

 

 

2019/03/02  

味取の俵石【みどりのたわらいし】

 

味取の俵石【みどりのたわらいし】
味取の俵石
味取の俵石
味取の俵石
・香美町村岡区味取
兵庫県下では柱状節理がよく観察できる場所のひとつとして知られています。村岡区の長楽寺には、江戸時代の村岡領主・山名義方(よしかた)公俵石見物の記録も残っています。

 

俵石を運んだ保食命(うけもちのみこと)と姫の伝説

鮎釣りで有名な矢田川の流れる香美町村岡区味取地区。集落を見下ろすように「味取の俵石」は鎮座しています。全体の幅約70メートル、高さ約20メートルと巨大で、近づいて見るとその迫力に自然の神秘を感じることができます。

岩肌は縦の重なりが美しく、柱のようにまっすぐで、断面は六角形となっています。この岩石は十数万年前に付近で大噴火が起きた際に、溶岩が冷え固まってできた玄武岩です。縦割りの柱状節理と平らに割れる板状節理が俵を積み上げたように見えるため「俵石」の名がつきました。ひとつひとつの岩が大きく、まさに「米俵」のよう。まっすぐに伸びている姿は、子どもたちが健やかに育つ過程を表すようであり、とても縁起のよい場所とされています。

そしてここには、俵石にまつわる伝説が残っています。その昔、食物の神である保食命とその姫が力をあわせて俵石を運んでいました。大量に運んだところで姫が「もういくら運んだでしょうか」と保食命にたずねます。保食命はそろばんを使い計算し始めましたが、近くの川の流れる音が大きいため、何度計算し直しても正確な数が分かりませんでした。「川水ども静かにせよ」と叫ぶと川音はピタッと止みましたが、それでも正確な数は分かりません。姫は、正確な数も数えられないような不甲斐ない男に連れ添っていてはいけないと、保食命を置いて去っていってしまったそうです。この時に二人が運んでいた石が俵を積み重ねたように見える「俵石」となり、保食命が川音を止めた川を音無川と呼ぶようになったと伝えられています。

 

 

2019/03/02  

淀の大王【よどのだいおう】

 

淀の大王【よどのだいおう】
淀の大王
淀の大王
淀の洞門
・豊岡市竹野町切浜
切浜海岸の北東に位置する幅約25m・高さ15m・奥行き40mの洞門。日本海の荒波に侵食されてできたものです。山陰海岸ジオパークのスポットとして親しまれています。

 

大鬼が住み着いた「淀の大王伝説」

山陰海岸ジオパークの名所が点在する豊岡市竹野町。海岸線にある「はさかり岩」の展望所から東を眺めると、崖にぽっかりとあいた大きな洞門「淀の洞門」を見ることができます。幅約25メートル、高さ15メートル、奥行き40メートル。火山活動でできた地層や、洞門の天井に断層を観察することができ、山陰海岸ジオパークの貴重なスポットとしても知られている大きな洞門です。

ここには「淀の大王」と呼ばれる鬼が住んでいたという伝説が残っています。大昔、この洞門を住処にしていた「淀の大王」を首領とする鬼の集団が、日々悪さをし良民を苦しめていました。そんな噂を聞きつけ、出雲に帰る途中に村へ立ち寄ったスサノオノミコト。鬼たちを征伐し、村には再び平和が戻ったそうです。スサノオノミコトは洞門の向かいに船を止め、鬼を退治。陸路を奥須井地区まで向かい、村では牛頭大王として奉られました。乗り捨てられた船はそのまま岩になったといわれています。村では、切浜海水浴場西端の細長い島を「御舟」、沖合の二つの岩礁を「沖の錨」と「灘の錨」、砂浜にある島を「艫綱」、奥須井に向かう陸路を「祇園」と呼び親しんでいます。

淀の洞門に近づいてみると、スケールの大きさに圧倒されます。洞門内部には波が押し寄せては返し、穴の向こう側には水平線が見えます。薄暗い洞門内から見える海と空の青が美しく、ダイナミックな自然を体感することができます。大昔に鬼がいたのでは…と、感じてしまうほどの神秘的なパワーがそこにはあります。

 

 

2018/01/16  

養父の太郎左衛門【やぶのたろうざえもん】

 

養父の太郎左衛門【やぶのたろうざえもん】
養父の太郎左衛門
養父の太郎左衛門
養父の太郎左衛門の供養塔
・養父市薮崎1244
養父市薮崎の願入寺にある供養塔。二段の台座の上に高さ150cmの立派な石材で作られています。隣には恩賞の文字を書いた顕彰碑もあります。

 

 

羽柴秀吉の但馬平定で円山川の渡河を助けた太郎左衛門

時は戦国時代。天下統一を進める織田信長の命を受けた羽柴秀吉は弟・秀長に命じて、但馬を平定し、天正8年(1580)、羽柴秀長は出石城主に任命されました。この時、羽柴秀長は功績のあった領内の農民に褒美を与えました。鮎をとる税金を免除し円山川の鮎を自由にとる免許状を6人に与えています。この頃から鮎取りが盛んだったようです。

その中でも、薮崎村の養父の太郎左衛門には、鮎取りの免許状ではなく、土地にかかる税金の一部を免除する諸公事免除の書状が与えられました。これは他の人たちと比べ、格段に高い恩賞になる。出石藩は明治維新まで約280年間も税金を免除しました。

養父の太郎左衛門はどんな手柄を立てたのでしょうか?当時、但馬の北部を攻めるにあたって、円山川を渡ることは大変重要なポイントでした。羽柴秀長は円山川を渡るために川舟を多数集め、また多くの兵たちを運んでくれる船頭も必要だったでしょう。中でも養父の太郎左衛門ほか8人は、増水した円山川で困っていた羽柴軍を、船で対岸まで運んだといいます。薮崎区では、太郎左衛門の功績を後世へ伝え、羽柴秀長の恩賞に感謝する「太閤祭」を毎年9月に太郎左衛門の供養塔の前で行っています。