2019/03/02  

琴弾峠・袖ヶ池のお姫様伝説 【ことびきとうげ・そでがいけのおひめさまでんせつ】

 

琴弾峠・袖ヶ池のお姫様伝説
【ことびきとうげ・そでがいけのおひめさまでんせつ】

赤淵神社の鮑伝承
赤淵神社の鮑伝承
琴弾峠の袖ヶ池
・養父市大屋町宮垣
ひっそりとした小さな池ですが、「袖ヶ池」や「琴弾」という地名があることから江戸時代から俳句に読み込まれる名所になっています。池の側には三つの句碑が置かれています。

 

八木城の落城にまつわる悲話

養父市八鹿町八木にある八木城跡は、国指定文化財でもある史跡です。その近くにある琴弾峠の山頂付近には、俳句の名所としても知られる池があります。袖ヶ池と呼ばれるこの小さな池には、とある姫の悲しい伝説が残っています。

その昔、八木城は、羽柴秀吉の大軍に攻められ落城しました。城主の八木豊信は切腹しましたが、豊信の娘の奈津江姫はなんとかこの戦いを逃れました。しかし、姫が琴弾峠から八木城を振り返ると、すでに城は真っ赤に燃えていました。力尽きた姫は池に身を投げ、自ら命を絶ってしまったそうです。数日後に姫が着ていた着物の袖が水面に浮かんできたことから、「袖ケ池」と呼ばれるようになったと伝わります。

一説によると琴弾峠という名は、その姫が琴を弾いたためだとも言われています。 また、麓の養父市大屋町宮垣区では、池に身を投げたのは三方城の姫とも伝えられていますが、いずれも命を落とす悲しい結末になっています。現在、池の周りには、姫の心を慰めるように美しい桜が植えられています。

 

 

2019/03/02  

味取の俵石【みどりのたわらいし】

 

味取の俵石【みどりのたわらいし】
味取の俵石
味取の俵石
味取の俵石
・香美町村岡区味取
兵庫県下では柱状節理がよく観察できる場所のひとつとして知られています。村岡区の長楽寺には、江戸時代の村岡領主・山名義方(よしかた)公俵石見物の記録も残っています。

 

俵石を運んだ保食命(うけもちのみこと)と姫の伝説

鮎釣りで有名な矢田川の流れる香美町村岡区味取地区。集落を見下ろすように「味取の俵石」は鎮座しています。全体の幅約70メートル、高さ約20メートルと巨大で、近づいて見るとその迫力に自然の神秘を感じることができます。

岩肌は縦の重なりが美しく、柱のようにまっすぐで、断面は六角形となっています。この岩石は十数万年前に付近で大噴火が起きた際に、溶岩が冷え固まってできた玄武岩です。縦割りの柱状節理と平らに割れる板状節理が俵を積み上げたように見えるため「俵石」の名がつきました。ひとつひとつの岩が大きく、まさに「米俵」のよう。まっすぐに伸びている姿は、子どもたちが健やかに育つ過程を表すようであり、とても縁起のよい場所とされています。

そしてここには、俵石にまつわる伝説が残っています。その昔、食物の神である保食命とその姫が力をあわせて俵石を運んでいました。大量に運んだところで姫が「もういくら運んだでしょうか」と保食命にたずねます。保食命はそろばんを使い計算し始めましたが、近くの川の流れる音が大きいため、何度計算し直しても正確な数が分かりませんでした。「川水ども静かにせよ」と叫ぶと川音はピタッと止みましたが、それでも正確な数は分かりません。姫は、正確な数も数えられないような不甲斐ない男に連れ添っていてはいけないと、保食命を置いて去っていってしまったそうです。この時に二人が運んでいた石が俵を積み重ねたように見える「俵石」となり、保食命が川音を止めた川を音無川と呼ぶようになったと伝えられています。

 

 

2019/03/02  

淀の大王【よどのだいおう】

 

淀の大王【よどのだいおう】
淀の大王
淀の大王
淀の洞門
・豊岡市竹野町切浜
切浜海岸の北東に位置する幅約25m・高さ15m・奥行き40mの洞門。日本海の荒波に侵食されてできたものです。山陰海岸ジオパークのスポットとして親しまれています。

 

大鬼が住み着いた「淀の大王伝説」

山陰海岸ジオパークの名所が点在する豊岡市竹野町。海岸線にある「はさかり岩」の展望所から東を眺めると、崖にぽっかりとあいた大きな洞門「淀の洞門」を見ることができます。幅約25メートル、高さ15メートル、奥行き40メートル。火山活動でできた地層や、洞門の天井に断層を観察することができ、山陰海岸ジオパークの貴重なスポットとしても知られている大きな洞門です。

ここには「淀の大王」と呼ばれる鬼が住んでいたという伝説が残っています。大昔、この洞門を住処にしていた「淀の大王」を首領とする鬼の集団が、日々悪さをし良民を苦しめていました。そんな噂を聞きつけ、出雲に帰る途中に村へ立ち寄ったスサノオノミコト。鬼たちを征伐し、村には再び平和が戻ったそうです。スサノオノミコトは洞門の向かいに船を止め、鬼を退治。陸路を奥須井地区まで向かい、村では牛頭大王として奉られました。乗り捨てられた船はそのまま岩になったといわれています。村では、切浜海水浴場西端の細長い島を「御舟」、沖合の二つの岩礁を「沖の錨」と「灘の錨」、砂浜にある島を「艫綱」、奥須井に向かう陸路を「祇園」と呼び親しんでいます。

淀の洞門に近づいてみると、スケールの大きさに圧倒されます。洞門内部には波が押し寄せては返し、穴の向こう側には水平線が見えます。薄暗い洞門内から見える海と空の青が美しく、ダイナミックな自然を体感することができます。大昔に鬼がいたのでは…と、感じてしまうほどの神秘的なパワーがそこにはあります。

 

 

2018/01/16  

あいたっつあん【あいたっつあん】

 

あいたっつあん【あいたっつあん】
あいたっつあん
あいたっつあん
葦田神社の切岩
・豊岡市中郷1141
国道312号線を南下して482号線を東へ進み、249号線と分岐するあたりで、農道へ入り奥へ進むと、山すそに見えてくる神社。天日槍が傷つけたといわれる「切岩」が残っています。

 

 

天日槍の随神「あいたっつあん」人々から崇められる足痛の神む

のどかな田園に囲まれた豊岡市中郷地区。ここに鎮座する「葦田神社」は、地元で「あいたっつあん」と呼ばれ、足痛を治す神様として崇められています。昔、湖の底であった但馬を天日槍が津居山を切り開き、だんだんと美しい田んぼに代わっていた頃の話。天日槍は、その美しい光景が見渡せる所に屋敷をかまえようと、家来に適当な場所を探させていました。

家来はあちこち探しまわり中郷に見晴らしのいい土地を見つけたものの、あまりの美しさに自分が気に入ってしまい天日槍に隠していました。それを知った天日槍が怒り、剣を抜いて家来に切りかかって、家来の足を傷つけました。負傷した家来はその場から逃げ去り、山の中で傷を治しました。しばらくして天日槍は怒り過ぎたことを反省して、見つけた土地を家来に与えました。家来はとても喜び、それ以来、足を痛めて苦しんでいる人々の傷を癒やすことを誓ったといいます。

その家来は、切りつけられた時に「あいた!」といったことから、地元では「あいたっつあん」と呼ばれるようになり、人々から崇められるようになりました。その名にちなんで神社周辺の小字名は「アイタチ」と呼ばれています。拝殿には、靴や松葉づえ、ギプスなど、足のけがが治った人たちが神様へのお礼に供えたものがいくつか残っています。また、鳥居を抜けて静かな境内に入ると左手には、天日槍があいたっつぁんの足を切りつけた際、一緒に切ったとされる刀傷のついた「切岩」が今も残っています。

 

 

2018/01/16  

養父の太郎左衛門【やぶのたろうざえもん】

 

養父の太郎左衛門【やぶのたろうざえもん】
養父の太郎左衛門
養父の太郎左衛門
養父の太郎左衛門の供養塔
・養父市薮崎1244
養父市薮崎の願入寺にある供養塔。二段の台座の上に高さ150cmの立派な石材で作られています。隣には恩賞の文字を書いた顕彰碑もあります。

 

 

羽柴秀吉の但馬平定で円山川の渡河を助けた太郎左衛門

時は戦国時代。天下統一を進める織田信長の命を受けた羽柴秀吉は弟・秀長に命じて、但馬を平定し、天正8年(1580)、羽柴秀長は出石城主に任命されました。この時、羽柴秀長は功績のあった領内の農民に褒美を与えました。鮎をとる税金を免除し円山川の鮎を自由にとる免許状を6人に与えています。この頃から鮎取りが盛んだったようです。

その中でも、薮崎村の養父の太郎左衛門には、鮎取りの免許状ではなく、土地にかかる税金の一部を免除する諸公事免除の書状が与えられました。これは他の人たちと比べ、格段に高い恩賞になる。出石藩は明治維新まで約280年間も税金を免除しました。

養父の太郎左衛門はどんな手柄を立てたのでしょうか?当時、但馬の北部を攻めるにあたって、円山川を渡ることは大変重要なポイントでした。羽柴秀長は円山川を渡るために川舟を多数集め、また多くの兵たちを運んでくれる船頭も必要だったでしょう。中でも養父の太郎左衛門ほか8人は、増水した円山川で困っていた羽柴軍を、船で対岸まで運んだといいます。薮崎区では、太郎左衛門の功績を後世へ伝え、羽柴秀長の恩賞に感謝する「太閤祭」を毎年9月に太郎左衛門の供養塔の前で行っています。

 

 

2018/01/16  

くぐり池【くぐりいけ】

 

くぐり池【くぐりいけ】
くぐり池
くぐり池
くぐり池
・新温泉町多子
今は草に覆われており、水面は一部しか見えていません。アヤメのほか、コウホネやフトイなどの希少価値の高い植物が自生しています。

 

 

村娘と若き僧との悲恋の物語が残る「くぐり池」

新温泉町多子の県道沿いにぽつりと立っている「くぐり池」の看板。坂を上ると、一見草むらのように見えるが小さな池があリます。ここには悲しい伝説が残っています。

その昔、この池の近くを1人の若い僧が通りかかりました。それを見た村の娘は一目で彼を好きになりました。僧もまた恋慕の情を抱いていました。しかし僧は修行の身のため、お互いに惹かれ合っていても一緒にはなれませんでした。募る思いに苦しみ、とうとう娘は池に身を投げてしまいます。娘の死を知った僧もまた、娘を追って池に身を投げてしまいました。村人たちはふたりを哀れみ、池の端に地蔵を祀って供養したそうです。

また、この池には、鳥取県の多鯰ヶ池と地下で繋がっているという伝説も残っています。多鯰ヶ池は鳥取砂丘の裏に位置し、中国地方最深の池。くぐり池で失った物が多鯰ヶ池で見つかることで不思議がられていたそうです。そして、大雨や日照りでも池の水かさが変わらないといわれており、照来地区の七不思議の1つに数えられています。

くぐり池のその他の伝説
1、田植え中に浸けておいた洗いもの(おひつや食器)が、いくら探しても見つからない。後日、多鯰ヶ池に浮いていた。
2、村の人が数個のひょうたんを浸けていたが、いつの間にかなくなっていた。後日、多鯰ヶ池に浮いていた。
3、地区の若連中が池の中央に相撲場を作り、明日の相撲開きを楽しみにしていたが、朝見ると一夜にして消滅していた。

 

 

2018/01/16  

赤淵神社の鮑伝承【あかぶちじんじゃのあわびでんしょう】

 

赤淵神社の鮑伝承【あかぶちじんじゃのあわびでんしょう】
赤淵神社の鮑伝承
赤淵神社の鮑伝承
赤淵神社
・朝来市和田山町枚田
JR和田山駅から104号線を南下し、看板が見えたら枚田地区へ。しばらく進むと鳥居が見えます。本殿は国指定重要文化財。二階建ての楼門には動きのある彫刻が施されています。

 

 

鮑にまつわる不思議な伝承が残る「赤淵神社」

竹田城跡のあるまち朝来市和田山町。市街地から少し離れた枚田地区に、但馬国造一族の日下部氏を奉祭する赤淵神社が鎮座しています。山ぎわに立つ鳥居をくぐり石段を上がっていくと、楼門、神門、勅使門と格式のある三つの門が続き、上がった先には広い境内が見え、開放的な雰囲気を醸し出しています。小高い丘にある神社で、秋には橙色の暖かみある紅葉が境内を彩ります。

祭神は赤渕足尼神、表米宿禰神、大海龍王神の三柱を祀っている。大海龍王とは海の神で、この神社にはその昔、アワビが難を救ったという伝説が残っています。大化元年(645)頃。日下部氏の祖・表米宿禰命が、日本に来襲した新羅の軍船を丹後・白糸浜で迎え撃った際の話。

逃げる敵を海上で追撃していると、嵐に襲われ船が沈没しそうになりました。するとその時、海底から無数のアワビが浮き上がり、それによって船は助けられたといいます。帰路途中にも逆風が吹きますが、再び無数のアワビが船を持ち上げ、事なきを得ました。さらに美しい船が現れ、その船の先導で丹後の浦嶋港(京都府伊根町)に入りました。表米が大船に行くと誰もおらず、竜宮に住むといわれる大きなアワビだけが光っていました。

表米は危機を逃れ勝利したことを海神のご加護と悟り、そのアワビを衣服に包んで持ち帰り、赤淵神社を建てて祀りました。それ以来赤淵神社の祭礼にはアワビの神事が行われ、近隣ではアワビを大事にし、食べてはならないという風習が伝えられています。

 

 

2018/01/13  

泡原の長者【あわらのちょうじゃ】

 

泡原の長者【あわらのちょうじゃ】
泡原の長者
泡原の地名の由来
・香美町香住区
泡原は荒原とも書いて、山と山との間で日当たりがよくなく、土ももやせていて、作物があまり育たないところから、そのように名前がついたと言われています。
 

 

 

欲張りな長者をいましめる昔話

昔々、香住谷の泡原に、三郎太という男が住んでいました。三郎太は大変欲ばりで人使いが荒く、鬼のように恐れられていたそうです。この三郎太の娘であるあやめが18歳になった春、とある家に使いをやり、「七郎どのを娘の婿にいただきたい」と申し入れました。この家は栄えた家でしたが、昔の勢いはなく、三郎太からお金も借りていました。三郎太が「貸した金も返さんでいい。ただ、体と扇子いっぱいの土だけでええ」と言うので、安心して七郎を婿にやりました。

ところが、七郎は昼も夜も休みなく働かされるようになります。とうとう七郎は実家に帰ってしまいました。次の日、仲人がやってきて、「帰ってこんでええから、扇子いっぱいの土をくれ」と言います。母親が「土は渡した」と言うと、「扇子いっぱいの土というのは、泡原の家で扇子を開いて、その中に入る土地全部のことだ」と言いました。泡原の家は山の上にあったので、扇子の中に入る土地といえば、この家の全ての土地となります。

三郎太は初めからこの家の土地を手に入れるために仕組んでいたのでした。結局、七郎の家は田畑も家も全て取られてしまいました。ひどい仕打ち娘のあやめは、「夫に謝りたい」と家を飛び出しますが、追っ手に捕まりそうになり、池に身を投げてしまいました。そして、それを知った七郎も同じ池に身を投げました。

さすがの三郎太も自分のしてきたことを後悔して土地を寄付し、巡礼の旅へと出かけて二度と帰ってきませんでした。やがて不思議なことに、池にはあやめの花が1本に二つずつ咲くようになったそうです。

 

2015/01/13  

おりゅう灯籠【おりゅうとうろう】

 

おりゅう灯籠【おりゅうとうろう】
おりゅう灯籠
地がため地蔵
おりゅう灯籠(豊岡市)
・豊岡市出石町柳
谷山川(旧出石川)の大橋東詰にあった船着場の灯籠で、現在は但馬信用金庫出石支店の前に佇んでいます。灯籠のすぐそばには柳の木があり、おりゅうと恋人が寄り添う様子に見立てています。

 

城下町出石に伝わる悲恋の物語
今も出石川の橋のたもとに灯籠が佇む

今から七百年ほど前、出石川は町のまん中を流れ、大きな船が往来して、毎日賑わっていました。そのころ、出石のある豪族の屋敷には若い侍が暮らしていました。彼は書を学び、武術を練習し、たくましい青年に育っていきました。
この屋敷には、おりゅうという心も顔かたちも美しい娘が奉公していました。お互いに惹かれ合う二人は、恋に落ちました。しかし、身分の違いはその恋を実らすことを阻みました。
おりゅうは里に帰されました。そんな時、日本に蒙古軍が攻め込んできました。武術に優れた若い侍は九州の防衛のために、あわただしく旅立っていきました。愛する彼の出征を聞いたおりゅうは船着き場に走りました。しかし、彼をのせた船は見る見る遠ざかってしまいました。
それから数ヶ月後、彼の戦死の報が屋敷にもたらされました。おりゅうの体が出石川に浮いたのは、その数日後でした。
以後、大雨のたびに出石川は氾濫します。人々は、これはおりゅうの悲しみの現れだと語り合いました。そして、これを鎮めるために、船着き場にほこらを建てて供養し、そのそばには灯籠も建てました。その灯は、上り下りする船の船頭たちの道しるべになり、「おりゅう灯籠」とよばれるようになりました。今も、出石川の橋のたもとに、おりゅう灯籠が建っています。

 

 

2014/12/10  

和田の竜【わだのりゅう】

 

和田の竜【わだのりゅう】
和田の竜
和田の菖蒲綱づくり
和田の菖蒲綱づくり
(香美町)
・香美町村岡区和田 皇大神社
・毎年6月第1日曜

端午の節句(旧暦の5月5日)に行われる伝統行事。火災などの厄除けを祈願する行事として行われています。菖蒲、よもぎなどを混ぜた藁縄を作り、約20mもの綱を編んでいきます。できあがると2つの組に分かれて綱引きを行います。

 

古くから残る竜の伝承と伝統行事
人との繋がりを編む菖蒲綱づくり

自然豊かな香美町村岡区和田。春来峠の登り口に位置するこの地区には竜にまつわる伝承が残っています。
和田にはその昔、大きな池があったといわれています。周辺は昼でも暗い森で、その池には竜が住んでいたそうです。その竜は誰彼かまわず人々を襲い、村の人々を悩ませていました。
ある時、村を通りかかった旅の僧が、なんとかしてあげたいと、一計を案じます。村人たちに大きなわら人形を作らせ、その腹の中にもぐさ(ヨモギを乾かして作ったもの)と針をつめて池のほとりに立たせました。僧がもぐさに火をつけると竜が現れ、人形を飲み込んでしまいました。
熱さに竜は暴れ回りましたが、やがて池の底深く沈み、姿を消してしまいました。
その後、人々は穏やかな日々を楽しんでいましたが、村では次々に災難が起こるようになりました。村人は竜のたたりだと考え、池のほとりに小さなお宮を建て竜神として祀りました。そして村にはまた穏やかな日々が戻ったそうです。
和田では、この話に由来する菖蒲綱づくりが古くから伝わっています。端午の節句に行われる伝統行事で、「ヨーイヤッサ、ヨイサッサ」のかけ声で竜に似せた綱を村人総出で編み、綱引きを行います。昔は豊作を願い、その綱を刻んで田に入れていました。。
不思議なことに、菖蒲綱づくりを取り止めた年には村が大火事に見舞われたことがありました。その後は毎年続けて行われ、今は村人の親睦の場として大きな意味を持っています。声をかけあって作る一本の綱が、心を繋ぐ「絆」として息づいています。