2011/06/22  

温泉【おんせん】

 

温泉【おんせん】

城崎温泉街
外湯のひとつ、一の湯
湯村温泉の荒湯周辺
高温の温泉でゆでる
温泉たまごが湯村の名物
●有名な温泉街や各地の温泉施設
但馬は古くから、城崎温泉、湯村温泉の2つの有名な温泉街をかかえ、遠方から訪れる多くの観光客を迎えてきました。ほかの各地にも温泉が湧き出ており、近年、それらの温泉に次々と入浴施設がつくられて、新たな誘客スポットとして展開されています。■城崎温泉(豊岡市城崎町)
1400年余り前にコウノトリが発見したとされる城崎温泉は、古い歴史を持つ温泉地。但馬の老舗ともいうべき温泉で、JR城崎駅をおりてすぐに温泉街があるというアクセスのよさも手伝って、但馬の観光の大きな目玉となるスポットのひとつです。小説「城の崎にて」の作者・志賀直哉をはじめ、古くからたくさんの文人・墨客が訪れ、愛された温泉として有名です。温泉街の中央を流れる大谿川沿いに青々とした柳並木が続き、木造3階建ての旅館が連なるしっとりとしたたたずまいには、懐かしい温泉まちの風情があふれています。
城崎温泉は昔から、町内にある7つの外湯(そとゆ) 、つまり温泉のお風呂屋さんをまわって楽しむ、「外湯めぐり」のスタイルが定番。現在は、さとの湯・一の湯・地蔵湯・柳湯・鴻の湯・御所湯・まんだら湯の7つの外湯があり、順次、改築などをおこなって新たな設備を整えるなど、それぞれに個性的なお風呂を楽しんでもらおうと力をそそいでいます。■湯村温泉(新温泉町(旧温泉町))
約1150年前、慈覚大師によって発見されたと伝えられる湯村温泉もまた、但馬の誇る温泉まちです。温泉街を流れる春来川沿いにある源泉・荒湯(あらゆ)からは、夏でももうもうと湯けむりをあげながら、温度98度、日本一高温といわれる温泉が湧き出ています。
また、ドラマや映画で吉永小百合さんが主人公を演じた、早坂暁の小説「夢千代日記」の舞台としても有名です。荒湯周辺の河岸には、湯村を訪れた有名人の手形モニュメントが並ぶ散策道や、散策中に足を休める「足湯場」などが整備され、観光客でにぎわっています。
荒湯近くの「薬師湯」、多彩な露天風呂が楽しめる「リフレッシュパークゆむら」など外湯施設も充実しています。さらに、「湯めぐり札」を購入すると、宿泊した旅館以外にも温泉街の旅館・外湯の7カ所のお風呂が楽しめる「七福神湯めぐり」のシステムが数年前にスタートし、好評を得ています。【但馬の温泉】

■城崎温泉(豊岡市城崎町)
■蘇武峡温泉(豊岡市日高町)
■十戸温泉(豊岡市日高町)
■日和山温泉(豊岡市)
■出石温泉(豊岡市出石町)
■シルク温泉(豊岡市但東町)
■竹野温泉(豊岡市竹野町)
■奥城崎温泉(豊岡市竹野町)■かすみ・矢田川温泉(香美町香住区)
■佐津温泉(香美町香住区)
■柴山温泉(香美町香住区)
■香住温泉(香美町香住区)
■村岡温泉(香美町村岡区)
■ハチ北温泉(香美町村岡区)

■浜坂温泉(新温泉町(旧浜坂町))
■七釜温泉(新温泉町(旧浜坂町))
■湯村温泉(新温泉町(旧温泉町))

■若杉高原温泉(養父市大屋町)
■関宮温泉・万灯の湯(養父市関宮)
■とがやま温泉(養父市八鹿町)
■やぶ温泉(養父市)

■黒川温泉(朝来市生野町)
■よふど温泉(朝来市山東町)

2011/06/22  

鎌田のイヌマキ【かまたのいぬまき】

 

鎌田のイヌマキ【かまたのいぬまき】
鎌田のイヌマキ鎌田のイヌマキ

・県指定天然記念物
・豊岡市鎌田

●民家の庭にどっしりと構えた常緑針葉高木
このイヌマキは、樹高は13.74mと低いですが、幹周りは2.84mと大きく、樹齢は300年と推定されています。樹勢は旺盛で枝張りは東西、南北ともに14m前後あります。マキ科の常緑針葉高木で、日本には多く植栽されており、本州中部や九州には自生種があると言われています。

イヌマキの俗称は全国各地に多く、また語源も諸説あります。古くは、杉のことを真木(マキ)と呼んでいだことから、これに対してこの種をそれよりも劣るものとして「イヌマキ」とさげすんで呼んだといわれます。また、クサマキは材の臭さから、ホンマキは正品のマキ、などの説もあります。とはいえ、材の使用に関しては、それほど劣るものではなく、特に水に強い木です。

2011/06/22  

豊岡市出土文化財管理センター 【とよおかししゅつどぶんかざいかんりせんたー】

 

豊岡市出土文化財管理センター
【とよおかししゅつどぶんかざいかんりせんたー】
豊岡市出土文化財管理センター
豊岡市出土文化財
管理センター
 

●関連情報
とよおか発掘情報

●豊岡の歴史・文化遺産を未来へ
 豊岡市には、およそ4000基を数える古墳をはじめとする遺跡があります。豊岡市出土文化財管理センターは、これらの文化財を適切に将来へ伝えていくために、調査・研究・保存・活用する施設として、平成7年(1995)10月に開設されました。また、市内京町にあった郷土資料館が、豊岡市立図書館の新設に伴い事実上閉鎖されたため、その業務の一部も引き継いでいます。
小中学生を対象とした体験学習活動、学校教員の社会体験学習の受け入れなど、積極的に学校現場との連携・提案を行っています。

※現在は展示活動をしていません。(企画展を実施することもあります)
詳細等については、お問い合わせください。

豊岡市出土文化財管理センター
・0796-26-0033
・兵庫県豊岡市神美台157-40
・午前9時~午後5時(入館は4時30分まで)
・土曜、日曜、祝日、年末年始(12/28~1/4)休館
・入館無料

2011/06/22  

出石川防災センター【いずしがわぼうさいセンター】

 

出石川防災センター【いずしがわぼうさいセンター】

出石川防災センター
館内


いずし古代学習館

●円山川の水防の歴史が学べる。災害時には避難所に!
災害時には、家屋に被害を受けた人や被害を受けそうな人の避難場所になる出石川防災センター。洪水が発生したときには、出石川や円山川などの増水状況、雨量レーダー画像を確認することができるため、水防活動を行う場所としても活用されます。
平常時は住民に開放されていて、円山川の水防や自然環境、郷土が生んだ偉人、古代の歴史について勉強することができます。また、館内には、見て・さわって・楽しみながら、古代人の暮らしを体験できるコーナーや、昔話のビデオ鑑賞・読書を楽しめるスペースがあります。

出石川防災センター(いずし古代学習館)
・0796-52-7100
・兵庫県豊岡市出石町袴峡380-1
・午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
・木曜休館(木曜が祝日の場合は翌日)、年末年始(12月28日~1月4日)

2011/06/22  

斉藤隆夫記念館 静思堂【せいしどう】

 

斉藤隆夫記念館 静思堂【せいしどう】

静思堂
●出石が生んだ偉大な政治家!
斎藤隆夫記念館「静思堂」は生地・豊岡市出石町中村に斎藤隆夫の威徳を偲ぶため建てられました。42歳で衆議院議員に初当選し、37年間にわたって政治家として活躍。「日本の国は立憲君主国であり、我々国民はこの道をすすむべきである。しかし、政治家の中には軍と陰で手を結んで政治上の野心をとげようとする者があることは見逃すことができない…」と、軍部台頭の時代に国会で粛軍演説を行ったことは有名です。軍国主義に屈しなかった「憲政の神様」として、尊敬されています。
「静思」とは大局から日本を見つめ、我を見つめることを忘れなかった斎藤隆夫の思想につながる「大観静思」からとられたといいます。建物のスタイルは非常にユニークで、兵庫県緑の建築賞に選ばれています。施設は研究会、講演会、茶会、コンサートまであらゆる文化活動に利用されています。

斉藤隆夫記念館 静思堂
・0796-52-5643
・兵庫県豊岡市出石町中村

2011/06/22  

城崎麦わら細工伝承館【きのさきむぎわらざいくでんしょうかん】

 

城崎麦わら細工伝承館【きのさきむぎわらざいくでんしょうかん】

麦わら細工

●関連情報
城崎温泉観光協会

●城崎特産「麦わら細工」を紹介
 平成16年秋にオープンしたばかりの「麦わら細工伝承館」。わが国でも城崎だけに継承されている「麦わら細工」の名品を展示しています。
「麦わら細工」は江戸中期から続く町の特産品。地張り、模様師、小すじの3部門に分かれ、色鮮やかな色彩美を織り交ぜた製品は芸術作品といえます。
デザインも細やかな手法を用いて描かれた花鳥山水図や、宝石箱、こけし人形など実に様々。温泉寺の登り口には、「麦わら細工」の元祖を讃える石碑も建てられています。
館内では、現在の職人さんの作品(約40点)、明治・大正・昭和初期などの昔の作品(約200点)を展示。白壁の土蔵をそのまま生かした建物はレトロな雰囲気を醸し出し、城崎温泉街によく溶けこんでいます。

麦わら細工伝承館
・0796-32-0515
・兵庫県豊岡市城崎町湯島376-1
・午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
・毎月最終水曜日、12/31・1/1は休館
・大人300円 中高生200円
(文芸館との共通チケットあり。大人500円、中高生350円)

2011/06/22  

金属バネ工業【きんぞくばねこうぎょう】

 

金属バネ工業【きんぞくばねこうぎょう】
バネ
用途も多様化する金属バネ
兵庫県の特産品に指定
●日本の高度経済成長とともに発展
但馬の地場産業の中では歴史が新しく、第二次世界大戦中に大阪市内のスプリング工場が朝来市和田山町に疎開し、工場を開設したのがはじまりです。

昭和25年の朝鮮戦乱特需以降、景気上昇の波に乗り、増大する需要に応じて、自動車、車輌、弱電産業への部品を供給し発展してきました。
昭和60年に、企業が和田山を中心にして、養父、朝来の各市にひろがって合計数18、従業員195名、生産額年間18億円余がありました。

製品は線バネ、薄板バネを中心に、つる巻バネ、重ねバネなど。出荷先、原料仕入先が、大阪、岡山、愛媛などと遠隔地にあるため、金属工業の立地には必ずしも有利ではなく、円高不況のなかで主要なユーザーである自動車、弱電機メーカーなどの海外進出と現地での部品調達方式が進行していく中で、技術力の向上、販路の拡大が重要な課題とされています。
中でも朝来市和田山町の金属バネ工業は、県の特産品に指定され、コンピュー夕用のわずか数ミリのものから、工業用の大きなスプリングまで毎日数十トン単位で生産し、東京・大阪などの工業地へと出荷しています。

2011/06/22  

但馬ちりめん【たじまちりめん】

 

但馬ちりめん【たじまちりめん】

但馬ちりめん
●優れた技術を活かして高級品の生産へ
豊岡市但東町、出石町を生産地とする但馬ちりめんは、豊岡市但東町に隣接する丹後の峰山から、1894~1817(文化)年間に移入されたのがはじまりとされています。丹後地方との通婚によって、手織り技術が容易に伝習され、この地域の湿潤な気候風土も合い、農業の副業的存在として産地化されました。
幕藩期から明治期の手機時代から、大正6年(1917)には自動織機を導入。成長を続け、昭和12年には1,344台の織機台数を数えました。これが、戦前戦後のピークで、以後、戦時下280台まで減少しました。
戦後、昭和27年、県の振興助成を得て次第に復興し、昭和35年代前半は、年平均100工場が家内工業として増加発展をしました。
しかし、昭和48年の石油危機による不況乗り切り対策として、織機の打ちこわし等を実施して生産の抑制を行い、現在、量よりも質を重視し、高級品の生産や新しい洋装部門への進出などにも取り組んでいます。
豊岡市但東町では新たな試みとして、近年、「絹ゆかた」が売り出され、注目を集めています。値段が高い、動きにくい、着付けができない、作法が面倒、などの理由で敬遠される着物を、若者にも気軽に着てもらえるようにとつくられました。絹80%、綿20%を折り合わせた生地で、絹の美しさ、高級感、着心地のよさをそのままに、一般のゆかたのように素肌に1枚だけで着られ、手入れも簡単。時代に合ったちりめんのニーズをさぐりながら、そのよさを伝え、新鮮な魅力をもつ商品開発を積極的にすすめています。

2011/06/22  

出石焼【いずしやき】

 

出石焼【いずしやき】
作業

出石焼

出石焼
(豊岡市出石町)

・国の伝統工芸品

●関連情報
NPO法人出石町観光協会

じばさんTAJIMA

●透きとおるような白磁、出石焼の変遷

出石焼の歴史は、江戸時代半ば、天明4年(1784)に、陶器を焼いたのがはじまりとされています。その後、優良な石磁の鉱脈が発見され、染め付け磁器を製作するようになりました。

天保年間に最盛期を迎え、明治初期に衰退しましたが、明治9年(1876)、桜井勉らが旧士族の失職を救済するため、有田の陶匠・柴田善平を招いて盈進社を設立し、同社からパリや東京の博覧会に出品して一躍出石白磁の名声を高めました。

明治32年(1899)から指導に当たった友田九渓は出石焼きの品質改良に業績を残し、セントルイス万国博覧会で金賞を獲得しました。昭和に入って出石に県立窯業試験場が設立され、出石焼の品質はますます向上しました。

さらに、戦後、出石焼の作品が日展の特選に選ばれるなど作家活動が盛んになり、昭和56年(1981)には、国の伝統工芸品に指定されました。

2011/06/22  

但馬杜氏【たじまとうじ】

 

但馬杜氏【たじまとうじ】
升酒

長年の知識と技術
但馬杜氏が造り出す
甘露の雫。
麹づくり
麹づくり
香りや風味の成分となる麹をつくる作業。酒つくりの中で最も神経を使う重要な仕事とされています。

●関連情報
新温泉町役場

●但馬人気質が造りだす甘露の雫
但馬では、特に雪深い地方の人たちが冬季の働き場所を求め、出稼ぎとして、全国各地に酒造りに出かけました。杜氏とは酒造りの最高責任者のことです。酒造りは杜氏・蔵人(くらびと)のグループが、新米の刈り入れの終わる10月頃から翌年の春まで、約6~7カ月の間、家を離れ、酒造会社の蔵元に泊まり込んでおこなわれます。蔵によって人数は異なりますが、数人から20人程度の蔵人がチームをつくり、杜氏の指導のもとで酒造りの作業をおこないます。「一蔵一杜氏」といわれるように、杜氏の数だけ酒の種類があるといわれています。
但馬の人は、慎重で誠実、質素にも耐えて思いやりがあり、粘り強い精神力があります。長年の知識と技術の蓄積が今日の但馬杜氏を生みだしました。

●記録に残る但馬杜氏
記録に残るものでは、天保8年(1837年)大阪でおこった大塩平八郎の乱に関連して、大和郡山にいた小代庄城山(香美町小代区)出身の杜氏、藤村某が登場します。藤村はこの地方の代表格で、城主の信頼も厚かったといいます。この時代から、すでに数多くの但馬の杜氏が地方に出かけていたことがわかります。
平成4年の記録では、全国の杜氏は1,754人、但馬の杜氏は全体の1割を占め、近畿を中心に中国・四国・北陸などで活躍していました。しかし、その数も20年前と比べると4分の1、5分の1に減少し、高齢化も進んでいます。また、冬季の出稼ぎシステムも時代にそぐわなくなってきています。最近、酒造りも機械化されてきましたが、手づくりの味の魅力は依然として重宝されています。