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コウノトリ
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スキー場【すきーじょう】
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●雪質よし、アクセスよしの人気スキー場 但馬には、ハチ高原、ハチ北高原、豊岡市日高町の神鍋高原などが代表するスキー場が点在し、松葉ガニと並んで、冬期の観光の大きな柱となっています。但馬のスキー場は、雪質のよさと、京阪神からのアクセスのよさで、初心者から上級者にいたるまで広く親しまれています。 人口造雪機を設置して雪の少ない時期に対応したり、近年人気の高いスノーボードゲレンデや、ハーフパイプ、モーグルなどのコースを整備するなど、観光客のニーズに応えるゲレンデづくりに力を入れており、各種ウインタースポーツの公式競技もおこなわれています。また、年齢やスキーの巧拙に関係なく楽しめる雪まつりなどのイベントを開催して、あらゆる年齢層の集客につとめています。 【但馬のスキー場】
■神鍋高原スキー場(豊岡市日高町) |
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松本家住宅母屋【まつもとけじゅうたくおもや】
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![]() 松本家住宅母屋 ・朝来市生野町口銀谷 国登録有形文化財(建造物)
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●町屋の変遷を物語る店舗兼用住宅 |
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森田家住宅【もりたけじゅうたく】
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![]() ![]() 森田家住宅 |
●大規模養蚕伝える香美町初の登録有形文化財 2006年8月、香美町で初めて国の登録有形文化財に選ばれた「森田家住宅」。但馬では、これが10カ所目の登録有形文化財です。 登録有形文化財とは、築後50年以上の建造物で、デザインや建設技術が優れたものが対象となります。明治初期に建設された森田家住宅は、大規模な養蚕農家の形式を残しており、庄屋屋敷としても貴重なものだといわれています。明治3年(1870)に建設された入母屋造(いりもやづくり)の屋根を持つ母屋や、明治初期に建設された白の漆喰塗りが特徴の土塀、付属室と中門・塀も景観が評価され、同宅敷地内の計4点が文化財登録されています。 終戦前後までは、地元で栽培された桑の葉を使って、大規模な養蚕を行っていたようです。 ※同住宅は原則として非公開 |
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平尾家住宅【ひらおけじゅうたく】
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平尾家住宅 |
●大小約20もの建物が点在する大規模庄屋屋敷 平尾家は江戸時代に大庄屋を務めた但馬屈指の大地主で、約4,000平方メートルの敷地内には大小約20もの建物が点在しています。2008年、豊岡市では3番目に国の登録有形文化財として登録されました。 主屋は1896年の建築で、豊岡の宮大工によるものだと伝えられています。屋根は石州の赤瓦を使って豪壮な造りで、和風建築ながらいち早く洋風技術を導入している部分もみられます。1790年建築の新蔵、1826年(明治期改修)建築の離れ座敷など、江戸時代の建物も残っていて、主屋の周囲には隠居部屋、蔵、小屋などが建ち並んでいます。登録件数は43件にのぼり、1カ所で登録される件数としては、県内でも有数です。 豊岡市森尾地区のほぼ中央に立地し、敷地内を森尾川が流れ、屋根の付いた立派な川いとが設けられています。かつてはこの場所で洗い物や洗濯などが行われていました。 ※同住宅は原則として非公開 |
2011/06/28 観光名所
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たんとうチューリップ畑【たんとうちょうちゅーりっぷばたけ】
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●巨大フラワーアートも圧巻!100万本のチューリップが咲き誇る 暖かい春の日差しの中、100万本の色とりどりのチューリップが畑一面に咲き誇ります。一番の話題はチューリップで描く大きなフラワーアート。こうのとりや明石海峡大橋、ドラえもん、宇宙戦艦ヤマトなどを描いてきました。期間中は約250品種を取り揃えたチューリップ見本園やチューリップ狩り、鉢植販売、写真コンテスト、各種バザーなどさまざまなイベントが開催され、多くの人たちで賑わいます。 まつりの開催日時やイベントの内容は開催年によって異なります。 ・たんとうチューリップまつり実行委員会 |
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ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】
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●大杉ざんざこ踊 ・養父市大屋町/大杉二宮神社/8月16日/国指定無形民俗文化財 大杉ざんざこ踊は鬼踊りとも呼ばれ、かけ声の中、大シデを背負った4人の中踊りを大勢の踊り子が取り囲み、古式にのっとり踊られます。発祥は明らかではありませんが、一説によると、昔、カガミという流行病が村を襲い、これを嘆いた庄屋が慶安2年(1649)に伊勢に参拝した帰途、奈良にてこの踊りを習い覚え、旧暦7月16日、氏神に奉納したところ、村が次第に平穏になったと伝えられています。 ●若杉ざんざか踊 大杉ざんざこに対して若杉ざんざか踊は姫踊りという別名が表すように、優雅でかつ古式ゆかしい踊りです。村に残る文書の中に、その昔、大和の修業者が一人やって来て、村で流行していた大難の病気を平癒するため、氏神様に踊りを奉納したことから始まったとされています。 |
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●九鹿ざんざか踊り ・養父市八鹿町/九鹿日枝神社/10月第3日曜日/県指定無形民俗文化財 神功皇后の三韓征伐の凱旋を祝って踊ったのが始まりと伝えられていますが、由来を明らかにするものがありません。踊りの動作、歌詞、服装などに室町時代の色が濃く、当時の修験者らが疫病退散、五穀豊穣を祈願して、奉納したのが起源と推測されています。 |
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●寺内ざんざか踊り ・朝来市和田山町/寺内山王神社/7月第3日曜日/県指定無形民俗文化財 五穀豊穣や子孫繁栄を願って、慶安(1648~1652)のころに始まったといわれ、以来、地元衆の皆さんによって引き継がれています。山王の遣いである猿にふんした12人の踊り手が円陣を組み、腰の太鼓を「ザンザカザットウ」の囃子(はやし)に合わせて打ち鳴らします。また、その中心では2人の踊り手が飾り付けをした高さ3メートルの「しない」と呼ばれる竹を背負い、それをからませたり地面に打ちつけたりしながら踊りを奉納します。 |
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●久谷ざんざか踊り ・新温泉町(旧浜坂町)/久谷八幡神社/9月15日/県指定無形民俗文化財 全国各地に分布している風流太鼓のひとつで、八幡神社の祭りに、神前や家々の庭先で五穀豊穣や氏子の安全を願って踊られます。踊り手は若い中高生で、華やかな一文字笠をかぶり、腰につけた締太鼓を叩きながら踊ります。 |
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別宮のお綱うち【べっくうのおつなうち】
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●別宮のお綱うち 養父市/別宮/1月9日 150年は続いていると思われる伝統行事。早朝、地区の男たちが集まり、大きな声をかけて、太い藁(わら)をねじりながら回り、三ッ組の太さ約30cm、長さ17~18m、重さ70~80kg大綱を作ります。20数人もの男が交代しながら汗を流す大がかりなもの。できあがった綱は、お綱屋敷で上と下地区に別れ、村中で綱引きをします。7回綱引きをし、最後に上地区が勝ち、その年は豊作になるとされています。綱はその後、カンザキの岡まで運び、大きな2本のケヤキの木に飾るように結びつられます。カリマタの方からくる悪魔を鎮めるとされています。 |
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2011/06/22 先人たち
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沢庵和尚【たくあんおしょう】
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●生い立ち たくあん漬けの考案者とも重用者とも言われる沢庵和尚は、天正元年(1573)豊岡市出石町に生まれました。父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)です。 沢庵和尚は10歳で出家、14歳にして出石藩主菩提寺・宗鏡寺(すきょうじ)に入りました。彼が20歳の時、藩主・前野長泰の招きで京都の大徳寺から薫甫宗忠(とうほそうちゅう)が住職に任じました。宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、沢庵と大徳寺との関係が生まれました。 22歳の時、宗忠が大徳寺の住持となるのに従って上京し、大徳三弦院で春屋宗園に仕えました。沢庵は29歳の時、勅令によって大徳寺の住持に出世しましたが、立身出世を求めない彼は3日間で野僧に徹すべしとして退山してしまいました。 31歳の時、堺の南宗寺陽春院の一凍紹滴(いっとうじょうてき)に師事し、沢庵の称号を受けました。やがて住持を兼ねるようになります。 沢庵は研ぎ澄まされた感覚から漢文に通じ、但馬にも多くの歌を残しています。 めぐりきて 入佐の山の月も日も はるやむかしに 我身ひとつは ●紫衣(しえ)事件 寛永4年(1627)、紫衣事件が起こりました。大徳寺・妙心寺の住持は天皇の詔(みことのり)で決まっていましたが、今後は幕府が許可を与え天皇の権威をそぎ、命令に服さない者の紫衣の着用を禁止したのです。 沢庵は投淵軒から怒って上京し、大徳寺反対派をまとめて反対運動の先頭に立ち、幕府に対する抗弁書(こうべんしょ)は沢庵自らが書いたといいます。幕府は中心人物である沢庵を羽州(山形県)上ノ山に流罪にしました。 3年後、将軍秀忠の死による大赦(たいしゃ)があり、許され江戸に帰ってきました。三代将軍家光は柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)の言葉を聞き入れ、品川に4万坪の土地を与え、万松山東海寺を建ててその開山に沢庵を迎えました。 これを受け入れた時から、野僧に徹すべしの生き方を捨てました。そして、自分を権力者にこびる「つなぎ猿」と自分を自分で軽蔑しあざ笑う晩年でした。 ●沢庵の遺言 正保2年(1645)12月、沢庵は万松山東海寺で没しました。時に73歳でした。死ぬ前に残す言葉を弟子が求めると自分で筆を取り、「夢」の一字を書いて筆を投げ捨てるようにして息を引き取ったといいます。 「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」 と遺言を残しました。 |
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