2015/01/31  

但馬の水産業【すいさんぎょう】

 

但馬の水産業【すいさんぎょう】
漁船
日本海へ繰り出す漁船

イカ釣り船
夕暮れに出港するイカ釣り船

松葉ガニ漁
松葉ガニ漁

●近代化の進む但馬の水産業
・但馬の漁港
但馬は日本海に面し、東は豊岡市津居山港から西は新温泉町(旧浜坂町)居組港に至る43kmのリアス式海岸に、たくさんの湾や入江、岬、そして100を数える大小の島や岩礁が散在しています。変化に富んだ景観をつくるとともに、豊かな磯物漁場を形成しています。
資源に富んだ日本海に、昔から多くの漁村・漁港が開かれ、なかでも日本海側屈指の香住漁港をはじめ、津居山、竹野、柴山、浜坂、諸寄などは早くからの良港として知られています。
但馬の漁業は、沿岸並びに日本海を主な漁場にして漁業生産に従事しています。
漁業種別でみると、「沖合底びき網」を中心に、「ベニズワイガニかご」と「沖合イカつり」を加えた沖合3種漁業の盛衰が但馬に大きな影響を及ぼしています。
魚種別では、各漁港ともにカレイ類、ズワイガニ、スルメイカが多く、このほかに香住、柴山、浜坂でベニズワイガニが多くとれています。ズワイガニ(マツバガニ)は高級名産品として、広く京阪神間に親しまれています。

・戦争前後の沖合漁業
但馬の漁業は沖合漁業を中心に発展をしてきました。
第二次大戦前はわずか10t程度の小船で、コンパスひとつで60時間余り走り続けて、沿海州沖(ソ連領)まで出漁する底引漁業が香住を中心とする但馬の漁港をにぎわせました。
戦中、底引漁船は戦争に徴用され、数多くの漁船が沈没するなど大きな被害を受け、漁師も多数犠牲になりました。ところが、戦後はこの沈没船が魚巣となり、戦中ほとんど漁獲をしなかったこともあって魚がふえ、豊漁が続きました。しかし、昭和50年代に入って減少傾向になってしまいました。

・漁船の発達
明治35年、香住浦漁業組合(初代組合長・長熈ちょうひろし)が創設されました。当時の漁業は、地引き網または手ぐりの網漁、はえ網漁でしたが、長組合長は発動機船の導入を漁民に説き、自ら購入して漁民に操業させ、これが日本海における発動機船底引網漁業の先駆けといわれています。
さらに明治末期には地元香住で発動機付漁船を建造し、但馬の漁船は急速に近代化されました。現在では高度な電波機器や漁ろう機械などのハイテク装備が装備され、安全と効率化が図られています。

・漁場と魚の保護
沖合漁業は、東経130度以東の日本海を舞台として、沖合底びき、沖合イカつり、ベニズワイガニかご漁業が操業されています。ロシア、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国の各沿岸域は、各200海里水域ラインが設けられ、漁場の制約の中での操業が続けられています。このラインは魚の保護育成のため、国際間で制限海域をとり決めています。
日本海域では魚の保護育成対策として、稚魚の漁獲は禁止し、漁期の制限も実施しています。

 

あゆ釣り
解禁と共にあゆ釣りを
楽しむ
●内水面漁業
但馬には河川・池沼などがあり、漁業が行われています。但馬の清流で育つあゆは、体型優美で香気ありとされて、昔から円山川中流や支流の八木川(俗称:八木太郎)、大屋川(俗称:大屋次郎)、さらに矢田川、岸田川、竹野川の河川で、毎年6月の解禁とともに一斉につり糸を垂れ、京阪神の釣師に高く評価されてきました。しかし河川の水量は減り、水質は悪くなるなどの環境変化で、初夏の風物詩あゆ釣りは大屋川、矢田川など一部の河川に限られるようになりました。
近年、下水処理施設が整備され、河川の水質改善を図ってきた河川では、あゆ、ます、さけの遊魚や、あまごなど渓流魚の放流を進め・漁業資源の増大をめざして取り組んでいます。

2015/01/31  

但馬の農業【たじまののうぎょう】

 

但馬の農業【たじまののうぎょう】
棚田

棚田
稲刈り
稲刈り

●良質米の安定生産を目ざす稲作

稲は古代から作られ、中・近世には新田開発が進み、明治以降の品稲改良など稲作技術の進歩によって、わが国全土に米作りがひろがりました。
但馬においては、沖積平地や段丘地、山腹に棚田がひろがり、700~800mの高地にいたるまで、わずかな水があれば、水田が開かれています。しかし、但馬は山岳急峻な地形にあり、水田面積は総面積のわずか6%弱で、兵庫県の12%の2分の1しかありません。近年では水田の効率利用を進めるほ場整備や農道の整備が行われ、機械化農法に変容をとげてきました。台風などの自然災害の被害を少なくする稲作の工夫、病虫害防除対策など技術の進歩により、収穫量が増加、安定してきました。
但馬の穀倉と称される六方田んぼを有する豊岡市をはじめ、円山川沿いに平坦地の多い、豊岡市、朝来市、広長な谷筋や無数の棚田を有する多事全域は多収穫地域に挙げられます。

しかし、反面、人々の食生活の変化に伴う米離れ現象により、米の需要は落ち込んできました。昭和46年の稲作転換対策にはじまり、水田利用総合対策、水田利用再編対策などにより、山間の棚田は相次いで植林され、大豆やさといもなど転作物が、米にとって代わる傾向にあります。さらに、アメリカやタイ、中国などでは、安い価格で米が生産されているため、日本で稲作自立経営では規模拡大によるコストダウンが必要となってきています。おいしくて、安全性の高い米作りが重要とされています。

 

大根畑
養父市杉ケ沢高原の

轟大根畑

●立地を活かした特色ある野菜づくり

但馬の畑地はすこぶる広く、農家の周辺に自給生産を目的とした総合野菜園のイメージがありますが、近年では、高原山野を、国・県の助成を得て造成した野菜団地が脚光を浴びています。また、但馬には開発有望地が多くあり、今後が注目されています。
野菜生産の概要は、豊岡市日高町の広大な神鍋高原、養父市関宮・大屋の南但馬高原などの高冷地野菜、豊岡市、朝来市の平地における多品目野菜が目立っています。中でも神鍋高原のスイカやキャベツ、養父市杉ケ沢高原やおおや高原の大根は表日本市場には欠かせない作物として取引されています。

 

なし園
香美町香住区のナシ園
●ブランド生産をすすめる果樹栽培
但馬を代表する果樹栽培は「ナシ」です。生産の多くを香美町香住区、続いて新温泉町など各地で産地ブランド化をはかりながら、但馬各地でひろく栽培されています。香住のナシ作りはナシの先進地鳥取に似ている適地であることから昭和4年に、兵庫県農事試験場がナシ栽培地委託試験地として、香美町香住区下浜村に58本を植えたことからはじまりました。兵庫県にとってもこの地が「兵庫二十世紀ナシ発祥の地」であるといわれています。その後、急斜面の山を開墾し、次々に苗木を植え育て、糖度が高く肉質の良い甘み豊かで、見て美しいナシづくりをめざし、今日のブランド香住ナシをつくりあげました。

その他の果樹では、ブドウが豊岡市を中心に香住、日高、養父、和田山などで栽培されている他、山野に富んだ但馬の地域性を活かして、柿、栗、梅が各地で生産されています。また、生産だけにとどまらず、体験活動やレジャー、レクリェーションとしての観光果樹園も行っています。

2015/01/31  

但馬の気象【たじまのきしょう】

 

但馬の気象【たじまのきしょう】

来日山の雲海
(豊岡市城崎町)

雪景色
(豊岡市日高町)
●概要
但馬は、気候区分で「山陰型」に属します。山陰型とは、中国山地に隔てられた日本海側にみられる独特の気候で、その上、複雑な地形が特殊な気候をつくりだしています。
但馬の東部には円山川が流れ、下流に豊岡盆地・出石盆地などの平地がありますが、西部には高い山と谷間が続き、山は日本海に直接落ち込んで、海岸には絶壁が多くあります。このような複雑な地形のため、夏は暑く、冬は寒いという但馬独特の気候は、地域によっても多彩な違いを見せています。但馬では「弁当を忘れても、傘を忘れるな」といわれるほど雨が多く、とくに秋から冬にかけては、北西の季節風によって冬空が続きます。

●気温と湿度
夏は、最高気温が39~40.5度、最高湿度80~85%と、緯度にして20度以上も赤道に近いマニラにほぼ近く、非常に蒸し暑くて過ごしにくい日が多くあります。逆に、冬は最低気温が日によって-10度を下まわることもあります。このように、夏暑く、冬寒いという年格差の大きい気候が但馬の特徴です。

●降水量
地球上の年降水量は、平均750~850mmといわれ、日本の多くの地域はこれをはるかに上回り、本州で1500mm、四国・九州で2000mm以上に達します。
但馬では、城崎で2600mm、生野・和田山で1800mmで、城崎の降水量のピークは、冬の雪の降る時期、生野のピークは台風シーズンです。梅雨前後は、前線に近い瀬戸内海側に雨が多く、県中部の山岳地帯にさえぎられた但馬では、かえって雨が少ないのです。冬型の気圧配置になると、大陸の高気圧から吹き出される乾燥した低温の大気が、日本海側で大量の水蒸気を供給されて湿っぽくなり、それが日本列島を縦断する山脈にぶつかって大量の雪を降らせるため、但馬は、本州西南部としては珍しい多雪地帯となっています。

●日照時間
年間日照時間は、姫路の1980.9時間に比べて、豊岡は1640.9時間とはるかに少ないのですが、7月は、姫路171.8時間、豊岡180.6時間とわずかに多いのです。これは、太平洋側のほうが梅雨前線の影響を受けやすいためです。

●霧

霧には発生する場所によって、山霧、川霧、海霧、盆地霧、都市霧などがあり、発生のしかたによっても、放射霧、対流霧、前線霧などに分かれます。但馬では、氷ノ山や扇ノ山でみられる山霧や、豊岡盆地の円山川を中心に発生する川霧が有名です。豊岡の霧発生日数は、年間127日で、じつに3日に1度の割合にもなります。日常生活にはあまりありがたくない霧ですが、とくに晩秋、来日山から望むみごとな霧の雲海は、幻想的な美しさです。

●降雪
但馬の冬は、早く訪れて長く続きます。11月になると、どんよりとした雲が広がり、中旬には北西の季節風が吹きはじめて、高い山に初雪が降ります。スキーヤーにはうれしい雪も、住民には、交通路の遮断、降雪による植林や果樹園の被害、除雪作業の連続など、厳しい冬の日々が続きます。3月に入るとやっと春らしくなってきて、下旬にようやく暖かい春を迎えます。

ラムサール登録湿地【らむさーるとうろくしっち】

 

ラムサール登録湿地【らむさーるとうろくしっち】

ハチゴロウの戸島湿地
(豊岡市城崎町今津)
●世界の重要な湿地を保全する「ラムサール条約」
世界の重要な湿地を保全する「ラムサール条約」(事務局・スイス)に豊岡市の「円山川下流域・周 辺水田」が平成24年に登録されました。
「ラムサール条約」とは世界の重要な湿地を守る国際条約のことで、「特に水鳥の生息地として国際的に需要な湿地に関する条約」が正式名称です。
対象エリアは、河口から約13kmの流域と両岸に広がる水田、人工湿地など約560ヘクタール。コウノトリやヒヌマイトトンボをはじめとする稀少動植物や魚類などを重層的にかかえていることが評価されました。
水鳥などを観察できる「ハチゴロウの戸島湿地」をはじめ円山川下流域などでは、コウノトリなど多様な生き物が生息・生育できる環境を保全・整備する取り組みが行われています。

山陰海岸ジオパーク

 

山陰海岸ジオパーク

玄武洞(豊岡市) 


はさかり岩(豊岡市)
今子浦のかえる島(香美町)


鎧の袖(香美町)


三尾大島(新温泉町)

 

●関連情報
山陰海岸ジオパーク


●貴重な地質遺産「山陰海岸ジオパーク」
「ジオパーク」とは、科学的に見て特別に重要で貴重な、あるいは美しい地質遺産を複数含む一種の自然公園です。地質遺産保全と地球科学普及に利用し、地質遺産を観光の対象とするジオツーリズムを通じて地域社会の活性化を目指しており、ユネスコの支援のもと、主にヨーロッパや中国で積極的に取り組まれています。
山陰海岸ジオパークのエリアは、山陰海岸国立公園(京都府八丁浜海岸から鳥取県鳥取砂丘まで)を中心として、東は京丹後市の経ケ岬から、西は鳥取市の湖山池の西端を通って白兎海岸までの東西約110キロメートル、南北最大約30キロメートルからなります。京都府(京丹後市)、兵庫県(豊岡市・香美町・新温泉町)、鳥取県(岩美町・鳥取市)をまたがる広大なエリアを対象としています。
また、北丹後地震時の地震断層である郷村断層・山田断層、鳥取地震の地震断層である鹿野断層・吉岡断層、更新世に活動した玄武洞、火山地形を残す神鍋山(火山群)及び扇ノ山(第四紀火山)などの貴重な地質遺産もエリアに含まれています。
日本列島がアジア大陸の一部であった時代の岩石から、今日に至るまでの経過が確認できる貴重なエリアで、平成20年12月、日本ジオパーク委員会から日本ジオパークとして認定されました。
そして平成22年10月4日、ついに「世界ジオパークネットワーク」への加盟が認定されました。

こちらより山陰海岸ジオパークの動画をご覧いただけます。

2015/01/31  

太田垣士郎資料館【おおたがきしろうしりょうかん】

 

太田垣士郎資料館【おおたがきしろうしりょうかん】


ロープウエイ

●関連情報
城崎温泉ロープウエイ

●城崎の偉人・太田垣士郎の資料館
 「城崎温泉ロープウエイ」が創業40周年を迎え、それを記念し平成14年に建設された「太田垣士郎資料館」。太田垣士郎氏は城崎ロープウエイの発案者であり、地元・城崎町出身の偉人です。関西電力株式会社の初代社長を務め、石原裕次郎主演映画『黒部の太陽』でも取り上げられた黒部川第四発電所(くろよん)を完成に貢献しました。
その太田垣氏が、子供の頃に友達と駆け回った大師山に城崎温泉ロープウェイの建設を発案したのが昭和37年(1962)。生まれ育った城崎の発展のため、温泉街、日本海を一望できる最高の場所へ、多数の観光客に訪れてもらいたいと尽力しました。
城崎温泉ロープウェイ山麓駅前に建設された資料館には、太田垣氏愛用の自宅の机やゴルフクラブ、趣味で描かれた直筆の自画像や色紙などのゆかりの品を展示しています。その他にも映像でたどる足跡や、写真など、ここにくれば、いかに太田垣氏が城崎の観光づくりに寄与したかが手に取るように分かります。
また、創業40周年に合わせて、「城崎温泉ロープウェイ」のゴンドラもリニューアル。新品のゴンドラには、城崎のイメージキャラクターである、ジョーくんとサキちゃんが描かれています。窓の大きさが広くなったゴンドラからは、美しい温泉街の町並み、円山川、日本海の眺望がよりワイドに楽しめるようになりました。新しい城崎温泉街の観光スポットとして、注目を浴びています。

太田垣士郎資料館
・0796-32-2530
・兵庫県豊岡市城崎町湯島806-1
・午前9時~午後5時
・木曜休館

2015/01/31  

城崎文芸館【きのさきぶんげいかん】

 

城崎文芸館【きのさきぶんげいかん】

城崎文芸館

左右360度の
画像を見る

↑上のアイコンをクリックすると左右360度の画像が見れる「Quick Time VR」がご覧になれます。


Quick Time VRを楽しむためには上のバナーより「Quick Time」をダウンロードしてください。

●関連情報
城崎温泉観光協会
●城崎温泉の観光・文化の拠点
城崎温泉を訪れた数多くの小説家や歌人、画家たちの作品を展示。中でも、小説「城の崎にて」で知られる志賀直哉との関わりは深く、白樺派と呼ばれた同人たちにもスポットをあてたコーナーや城崎温泉の歴史なども紹介しています。その他、城崎温泉の伝承民芸「麦わら細工」の実演を見学できるほか、ハガキ、コマ、竹トンボなどの麦わら細工の製作体験もすることができます。お茶コーナーやミュージアムショップもあり、城崎ゆかりの文学読本なども販売しています。また、城崎温泉観光協会が併設されており、いろいろなパンフレットが揃い、観光情報も充実しています。

城崎文芸館
・0796-32-2575
・兵庫県豊岡市城崎町湯島357-1
・午前9時~午後5時(入館午後4時30分まで)
・毎月最終水曜休館(祝日の場合は翌日)
・大人400円 中高生300円

2015/01/31  

竹野おしあげ料理【たけのおしあげりょうり】

 

竹野おしあげ料理【たけのおしあげりょうり】
竹野おしあげ料理

竹野おしあげ料理
竹野おしあげ料理

●北前船の村が生んだ郷土料理
江戸時代末期、竹野は北前船を中心とした回船業の村として栄えました。「おしあげ料理」とは、秋に航海を終えて無事に船が帰ってきた時に出していた郷土料理のことです。「おしあげ」という言葉は、船を浜に「押し上げ」、漁の無事と漁師の労をねぎらい、「仕上げ」の料理を振る舞っていたことに由来します。
船員の無事を祈っていた女房たちの喜びと、海の神様への感謝の気持ちが生んだ「めでたい料理」が、竹野のまちおこしとしてよみがえりました。
春と秋の期間のみ、竹野の旅館、民宿などを中心として、地元産のお魚を地元調味料で味わう「竹野おしあげ料理」を各施設ごとに趣向を凝らして提供しています。特に春、秋はマダイ、アジ、メバル、ヒラメ、イカ、アワビなどのお魚が旬を迎えます。

提供施設(平成26年12月現在)
※おしあげ料理は要予約となります。
※各施設によりメニューが変わります。
*旅 館
・奥城崎シーサイドホテル 0796-47-0666
・福田屋 0796-47-0360
・ふるばやし 0796-47-0026
・サイド城崎たけの館 0796-47-0011
*民 宿
・亀正 0796-47-0214
・日の出荘 0796-47-0217
・伊藤四郎ェ門 0796-47-0451
・岡本屋 0796-47-0301
・はやとり 0796-47-1711
*飲食店
・おっとっと 0796-47-0877
・おようじ茶屋(御用地館内) 0796-47-1555

※詳細はたけの観光協会へ 0796-47-1080

2015/01/15  

但馬国府・国分寺館【たじまこくふ・こくぶんじかん】

 

但馬国府・国分寺館
【たじまこくふ・こくぶんじかん】
但馬国府・国分寺館
但馬国府・国分寺館
 

●関連情報
但馬国府・国分寺館

●古代但馬の謎にせまる歴史博物館
古代但馬国の中心地であったと推定されるる国史跡「但馬国分寺跡(奈良時代)」及び「但馬国府跡(祢布ヶ森遺跡・平安時代)」をメインテーマとする歴史博物館。平成17年3月、祢布ヶ森遺跡に隣接する場所に開館しました。但馬の中でも多くの歴史遺産が眠る地域として知られ、但馬国分寺跡から出土品や但馬古代史の謎を秘める出土品、模型を数多く展示しています。
また、総合学習室には、5000冊を超える歴史・考古学関係の書籍があり、無料で利用することが可能。小中学生の調べ学習にも役立ちます。但馬国府・国分寺館
・0796-42-6111
・豊岡市日高町祢布808
・午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
・水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始休館
・大人500円 高校生300円 小中学生150円

2015/01/13  

おりゅう灯籠【おりゅうとうろう】

 

おりゅう灯籠【おりゅうとうろう】
おりゅう灯籠
地がため地蔵
おりゅう灯籠(豊岡市)
・豊岡市出石町柳
谷山川(旧出石川)の大橋東詰にあった船着場の灯籠で、現在は但馬信用金庫出石支店の前に佇んでいます。灯籠のすぐそばには柳の木があり、おりゅうと恋人が寄り添う様子に見立てています。

 

城下町出石に伝わる悲恋の物語
今も出石川の橋のたもとに灯籠が佇む

今から七百年ほど前、出石川は町のまん中を流れ、大きな船が往来して、毎日賑わっていました。そのころ、出石のある豪族の屋敷には若い侍が暮らしていました。彼は書を学び、武術を練習し、たくましい青年に育っていきました。
この屋敷には、おりゅうという心も顔かたちも美しい娘が奉公していました。お互いに惹かれ合う二人は、恋に落ちました。しかし、身分の違いはその恋を実らすことを阻みました。
おりゅうは里に帰されました。そんな時、日本に蒙古軍が攻め込んできました。武術に優れた若い侍は九州の防衛のために、あわただしく旅立っていきました。愛する彼の出征を聞いたおりゅうは船着き場に走りました。しかし、彼をのせた船は見る見る遠ざかってしまいました。
それから数ヶ月後、彼の戦死の報が屋敷にもたらされました。おりゅうの体が出石川に浮いたのは、その数日後でした。
以後、大雨のたびに出石川は氾濫します。人々は、これはおりゅうの悲しみの現れだと語り合いました。そして、これを鎮めるために、船着き場にほこらを建てて供養し、そのそばには灯籠も建てました。その灯は、上り下りする船の船頭たちの道しるべになり、「おりゅう灯籠」とよばれるようになりました。今も、出石川の橋のたもとに、おりゅう灯籠が建っています。