城下町出石【じょうかまちいずし】
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2011/06/22 観光名所
2011/06/22 温泉
城崎温泉【きのさきおんせん】
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2011/06/22 温泉
但東シルク温泉館【たんとうしるくおんせんかん】
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2011/06/22 温泉
湯村温泉【ゆむらおんせん】
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鞄【かばん】
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![]() ●関連情報 |
●豊岡市を代表する地場産業 我が国で、かばん製造業が産業として興ったのは、明治維新前後と考えらえています。外国人の来訪とともに「トランク」として輸入されたものが「鞄」となりました。一説には、明治6年大阪の商人、山城屋和助がフランスから鞄を持ち帰り、森田直七が模倣して作ったのが日本で初めてとされています。 豊岡では、明治時代の後半、柳行李から生まれた行李鞄から発展していきました。杞柳細工の起源は西暦前27年、 天日槍命(あめのひぼこのみこと)の伝授によるものといわれ、円山川の荒れ地に自生する「コリヤナギ」で籠を編むことから始まり、江戸時代、京極伊勢守高盛が柳の栽培と加工技術を保護し、販売にも力を注いできました。 柳行李は、軽くて堅牢な生活用品の「容器」として、一般大衆に愛され親しまれてきましたが、同じ用途の革製の大型トランクが出現しても「杞柳製トランク」とは呼ばれませんでした。鞄として呼ばれるようになったのは、バンド締め行李に工夫と改良が加えてからで、豊岡市小田井の奥田平治氏が、大正6、7年頃にバンド締め行李に漆を塗り、錠前を取り付け「新型鞄」として、行李にかわって豊岡の鞄として売り出したことが最初とされています。 昭和3年頃には「ファイバー鞄」が誕生し、軽くて強靱で安価、需要も高まり、豊岡の主要産業として発展していきました。さらに、昭和28年頃からビニールテックスなど新素材を取り入れたオープンケースの生産が始まり、輸出もアメリカを中心に急激なのびを見せました。 昭和43年11月には、企業の共同化を進め近代化を図るために、九日市上町に、全国で唯一の「豊岡鞄団地」を設置、機能的な職場環境の確保や積込・運搬の効率化など一層の合理化・近代化をはかった施設として注目を集めました。昭和53年3月には、豊岡鞄会館が、中核施設として新たに大磯町に完成。 品質技術面では、品質ラベルの表示や化学品検査協会登録認定工場制度などにより品質は向上し、生産面でもコンピューターミシンなど新鋭の機械設備が導入されるようになりました。 平成3年3月には、兵庫県商工部が「豊岡鞄産地振興ビジョン」を策定し、デザイン・ファッションの自己表現化、新技術、設備への対応、販売戦略の具体的方策が示され、ファッション化と高級化にポイントを置いた商品開発を目指しています。 平成6年には、国際バッグデザインコンテストを盛大に開催し、世界中からたくさんの作品が集まりました。また、今後の鞄産業の担い手として期待される市内の中学校・高校・短大の学生を対象とした「バッグデザインコンテスト」や、市民公開講座「バッグデザインの基礎知識」を継続して実施し、デザインの高度化、新鮮な発想のオリジナル商品開発、将来の人材確保などに力を入れています。 平成17年には豊岡市内にある宵田商店街通りを「カバンストリート」と呼び、商店街店舗(衣料品店やメガネ店、クリーニング店など)で豊岡の鞄を販売しています。 また、平成18年4月には、特許庁が新たに設けた「地域団体商標制度(地域ブランド)」に出願し、県下で第1号、工業製品としては唯一「豊岡鞄」が登録認定。豊岡鞄を「豊岡ブランド」として全国に広めようという取り組みが行われています。 そして、平成21年4月(2009年)には「カバンストリート」の宵田商店街が、経済産業省の「新・ がんばる商店街77選」に選ばれました。 鞄本来の機能から進んで、あらゆる用途に対応した鞄をつくり出してきた豊岡の鞄産業は、新たな商品開発を進めながら、国内市場はもとより世界を相手に販売網を広げています。 |
日下旅館【くさかりょかん】
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![]() 日下旅館 ・朝来市生野町口銀谷 ・日下旅館 国登録有形文化財(建造物)
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●当時は珍しかった3階建ての旅館 平成16年(2004年)に国登録有形文化財に登録された日下旅館は、JR生野駅前に建つ旅館建築です。1910年に当時にして1500円を投じた木造2階建として建築され、次に裏の座敷が造られ、1921年に3階が増築されました。3階が完成した当時、南は姫路から北は城崎にかけて3階建の建物は2軒しかなく、多くの賓客を招いて大祝宴を開いたそうです。2階・3階には数寄屋風の座敷を配置し、鉱山町ならではのカラミ石を使った地下室も設けられていました。そのころは暖房も鍋料理などの燃料も全て炭火だったため、外壁や部屋の壁などのいたる所に、さまざまな意匠の空気孔が開けられています。 丸に日と文字が入れられた鬼瓦に、家人の思い入れが読みとれます。 |
今井家住宅【いまいけじゅうたく】
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![]() 今井家住宅 ・朝来市生野町口銀谷 ・主屋 国登録有形文化財(建造物) ・西塀 国登録有形文化財(建造物)
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●かつての生野の大山師別邸と伝わる 江戸末期に建築された一部2階建の古民家で、平成17年(2005年)に主屋と西塀が国の登録有形文化財となりました。大山師と呼ばれる、山師(江戸時代に代官所から採掘権を与えられた鉱山経営者)のうち特に規模の大きかった大山師『丹波屋』の別邸だったとも伝わっています。 |
旧海崎医院【きゅうかいざきいいん】
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![]() 旧海崎医院 ・朝来市生野町口銀谷 国登録有形文化財(建造物)
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●和と洋の景観が織り成す魅力ある建築物 旧海崎医院は、1887(明治20)年頃に建設され、待合室、診察室、休息室からなる床面積47平方メートルの医院棟です。 待合室は板敷きに漆喰塗、格間約30cmの格天井で仕上げられており、30cm四方の各格間には菊、ボタンやアサガオなど の花や小鳥、太陽、月をモチーフにした日本画が描かれています。また待合室の屋根の瓦は、その色合いから、「赤瓦」 ともいわれる生野瓦が使われており、独特の味わいを醸しだしています。そして、通りに面した部分の外観は、羽目板張 に鎧戸付きの両開き窓や軒蛇腹をまわした寄棟瓦葺きの洋風の造りになっているのに対し、奥には縁側があり、屋根も切 妻屋根と純和風の造りになっています。 大きな建造物ではないですが、この和洋の景観が織り成す魅力や格天井の絵など 質の高い細部が高く評価され、平成14年(2002年)国登録有形文化財になりました。 |
鉱石の道【こうせきのみち】
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![]() 神子畑選鉱所
鉱石の道 ●関連情報 |
●明延~神子畑~生野鉱山を結ぶ輸送ルート 生野鉱山(朝来市生野町)、神子畑鉱山(朝来市)、明延鉱山(養父市大屋町)は、明治時代から昭和にかけて、国内のスズや銅の主力産地として日本の近代産業を支えました。これら3つの鉱山には、鉱石や人、物資を運ぶため、鉱石輸送の専用道路が整備されていました。明延で採掘された鉱石が、専用電車(一円電車)で神子畑選鉱所へ運ばれて選鉱・製錬され、専用道路で生野精錬所に輸送。 高純度のインゴットとなって、生野鉱山本部から銀の馬車道を通って姫路・飾磨港へと運ばれていきました。 現在、明延~神子畑~生野間の輸送ルートは「鉱石の道」と名付けられ、産業遺産をめぐる観光ルートとして整備されています。現在も残る「神子畑鋳鉄橋(日本最古の鋳鉄橋)」や「羽渕鋳鉄橋」は輸送路の整備のため建設されたもの。この山深い場所に近代的な鋳鉄製の橋が建設されたことは、明治政府の力の入れようを物語っています。 沿線ではその他にも、一円電車やムーセ旧居(外国人宿舎)など、往時を偲ぶ貴重な貴重な産業遺産群を見学するこができます。 |
桑田家住宅【くわたけじゅうたく】
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![]() 桑田家住宅 ・朝来市生野町口銀谷 ・桑田家住宅主屋 ・桑田家住宅門及び塀 ・桑田家住宅土蔵 国登録有形文化財(建造物) |
●生野では珍しい「幕板」を持つ地役人住宅 国の登録有形文化財・桑田家住宅は江戸時代後期(1751-1829ごろ)に建てられた、地役人邸宅の様式をもつ伝統的な木造平屋建ての建物です。 玄関の前に広場が設けられ、通りに面した駒寄の前庭と小路沿いの立塀、玄関の大戸とくぐり戸、障子の玄関引き戸などが特徴的。生野では大変珍しい「幕板(雨よけや意匠のために、屋根の下にスカート状に取り付けられた板)」を備えています。 脇門を持つ漆喰の土塀に囲まれ周囲に下屋庇を配したこの住宅は、鯉の店通りにひときわ落ち着いた雰囲気を漂わせています。 |