2011/06/22  

相応峰寺【そうおおみねじ】

 

相応峰寺【そうおおみねじ

相応峰寺
新温泉町(旧浜坂町)清富
・木像十一面観音菩薩立像
国指定彫刻
・絹本著色 両界曼茶羅図2幅
絵画 県指定文化財
・圓通殿 県指定文化財
●平安時代の写実的で精密な十一面観音立像を安置
浜坂湾に突き出た岬の山頂、相応峰寺は古く天平のころ(729~748)に開かれた天台宗の寺院です。観音堂には平安時代前期の国指定重要文化財にも指定されている十一面観音立像が安置されています。 2mを越す大像、両手両足のほとんどを一木で刻み出しています。人間的で量感があり写実的、着衣のひだや裳裾(もすそ)など鋭く精密に刻み込まれ、全体の均整がとれて、しかも力強さがみなぎる作品です。唐から都(中央仏)に入ってきた但馬ではめずらしい檀像派の作品と考えられています。

2011/06/22  

正楽寺【しょうらくじ】

 

正楽寺【しょうらくじ】

正楽寺
・美方郡新温泉町前
・鰐口
県指定文化財(工芸品)

●室町時代から伝わる仏具が納められた寺

開創した年代は不明ですが、江戸時代の1837年に隣家の火災で焼け、再建されたとの記録が残っています。
寺に保管されている「鰐口」(仏堂の正面軒先につり下げられる、金属製梵音具の一種)は銘帯の左右に「応永三十五年(1428年)戊申三月八日」と記されており、憧座には美しい蓮華が浮き彫りされています。室町時代の貴重な文化財でもあり、この寺の歴史の古さをうかがい知ることができます。

2011/06/22  

善住寺【ぜんじゅうじ】

 

善住寺【ぜんじゅうじ】

善住寺
・新温泉町熊谷・木造阿弥陀如来坐像
(彫刻)
県指定文化財

 

●桧一本木造り坐像「阿弥陀如来像」を安置
長保元年(999)覚増上人によって開かれたとされており、不慮の火災で大部分を消失してしまった後、宝暦12年(1763)に再建され、現在は立派な姿を受け継いでいます。斗拱、虹梁など優れた彫刻が施された「阿弥陀堂」には、釈尊をはじめとする十六羅漢が彩り豊かに描かれた但馬最古の「天井画」があり、共に平成10年(1998)町指定文化財に登録されました。
その堂内に安置される桧一本木造りの坐像「阿弥陀如来像」は室町時代初期のものとされており、昭和38年(1963)に県指定文化財に登録されています。上半身、顔立ちははっきりしており、堂々としたその姿からは力強さを感じます。

2011/06/22  

玉田寺【ぎょくでんじ】

 

玉田寺【ぎょくでんじ】

玉田寺
・美方郡新温泉町七釜
・石造宝篋印塔
県指定文化財(建造物)

宝篋印塔

●県内最古の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残る寺院

室町時代の応永年間(1394~1428年)、南溟禅師によって開創したと伝わる、臨済宗大本山天竜寺派の寺院です。当初は退耕庵と称していましたが、1648年に現在の退耕山玉田寺へと号を改めました。江戸時代後期の1777年に本堂を建立し、本尊は地蔵菩薩を拝み安産の守護仏として地元の信仰を集めています。
境内の「宝篋印塔」には1314年の銘があり、この塔は大阪府の廃寺にあったものを旧浜坂町の実業家・細見良が手に入れ、1975年に故郷の玉田寺に寄進したものです。鎌倉時代後期の様式をよく残した塔で、現在は県指定文化財であり第二次世界大戦における戦没者の供養塔となっています。

2011/06/22  

近藤朔風【こんどうさくふう】

 

近藤朔風【こんどうさくふう】
近藤朔風
(1880~1915)
明治13年1月14日に生まれる。「菩提樹」「野ばら」「ローレライ」などの名訳で有名。実父は明治の新国家設立に尽力した、豊岡市出石町出身の桜井勉
●「菩提樹」「野ばら」「ローレライ」などを訳詞
近藤朔風は、気象測候所の創始者として有名な桜井勉(豊岡市出石町出身)の五男として生まれました。12才の時に近藤家に養子に入り、東京外国語学校、東京美術学校、東京音楽学校で学び、芸術・音楽の見識を高めます。卒業後、『名曲新集』『西欧名曲集』などを発刊し、訳詞家としてその才能を発揮しました。「菩提樹」「野ばら」「ローレライ」「シューベルトの子守歌」などの訳詞は、名訳として絶賛されています。また、日本初のオペラの公演に携わり、日本の近代音楽の発展に貢献しました。

『野ばら』
一、童は見たり 野中のばら
清らに咲ける その色愛でつ
あかずながむ 紅におう 野中のばら

二、手折りて行かん 野中のばら
手折らば手折れ 思い出草に
君を刺さん 紅におう 野中のばら

三、童は折りぬ 野中のばら
手折りてあわれ 清らの色香
永遠にあせぬ 紅におう 野中のばら

(ゲーテ作詞・ウェルナー作曲・近藤朔風訳詞)

 

2011/06/22  

佐藤家住宅別邸【さとうけじゅうたくべってい】

 

佐藤家住宅別邸【さとうけじゅうたくべってい】

佐藤家住宅別邸
・朝来市生野町口銀谷
国登録有形文化財(建造物)


佐藤家住宅別邸の
大阪出格子


●耐火構造をもつ重厚な土蔵造りの家

佐藤家住宅別邸は、佐藤医院の東側にある江戸時代後期の建築物です。生野は江戸時代から多くの火災が発生していた地域であったことから、路地に共同の井戸を設置するなどの防火対策が講じられていたが、佐藤家住宅別邸は、重厚な土蔵造りで軒裏に塗り込みが施されており、住宅建築としては珍しく耐火構造になっています。
その外観は、屋根にある越屋根をはじめ漆喰で塗られた玄関などの主なデザイン要素は建物の右側にまとめられて配置されています。また、一階の壁は腰の高さまでの焼き杉板張りになっており、軒下と道の間は名栗棒で作られた大阪出格子が設けられています。飾り石を玄関に配置するなど、播州地方や生野では珍しいデザインが採用されており、佐藤家住宅は建築構造、外観ともに珍しく特徴的な建物になっています。また内観にも、凝ったデザインの装飾が施されており、格式の高い客間になっています。

2011/06/22  

大林寺【だいりんじ】

 

大林寺【だいりんじ】

大林寺
・朝来市山東町森

・鰐口
県指定文化財

●但馬最古の鰐口が残る、由緒ある古刹
 今は廃寺となり観音堂を残すのみとなっている大林寺ですが、伝承からみると由緒ある古刹です。御本尊は千手観音で、かなり古い作と思われる不動明王も祀られています。
和銅3年(710)、藤原鎌足の次男である不比等が浄財を寄進し創建されたと伝えられています。創建当時は七堂伽藍僧房十二院もあり、寺領も2400石あったといいます。寺跡周辺の地名に、藤房・尾房・藤覚房・惣治房・桜本房・大房・松尾房等々と坊跡をかたるものが残っているのは、当時の名残りです。
さらに、 武蔵坊弁慶が大林寺の鐘を摂津摩耶山(現神戸)に運んだという伝説が残っており、的場という地名が残っていることとあわせて、一時は僧兵も在住していたと考えられています。
また、松尾坊跡から出土した鰐口は嘉慶2年(1388)につくられたもので、在名鰐口としては但馬最古のものであることからも、かつての隆盛が想像されます。
この鰐口は青銅製で、直径45cm、厚さ15cm、重さ19kg。撞座に優美な蓮華を表し、銘帯の上部に「但馬国」、右方に「大林寺 願主五郎左衛門尉幸信」(当地の豪族の名)、左方に「重慶2年戊辰正月十八日 大工橘守正」の刻文があります。貴重な工芸品として県の文化財に指定されています。
天正5年(1577)、豊臣秀吉の但馬攻略にともない、2400石といわれた寺領は没収され、さらに慶長5年(1600)、堂塔僧房全焼の被害に遭い、大林寺は急速に衰微していきました。寛文12年(1672)と弘化4年(1847)に修復し、万延元年(1860)に再建されたのが、現在残っている堂だといわれています。しかし明治6年(1873)、ついに廃寺となりました。但馬西国十九番の札所として「ちかひにや げにみどりの子の宝をも ひとしくたまふ しづの女までに」という巡礼歌が 残っています。

2011/06/22  

松岡の御柱祭(婆々焼祭) 【まつおかのおとうまつり(ばばやきまつり)】

 

松岡の御柱祭(婆々焼祭)
【まつおかのおとうまつり(ばばやきまつり)】
ばば焼き
松岡の御柱祭
(豊岡市日高町)
・豊岡市日高町松岡

4月14日

・市指定無形民俗文化財

 

松岡の御柱祭(婆々焼祭)
豊岡市日高町/松岡/4月14 町指定無形民俗文化財

十二所神社前の円山川河川敷で夕刻、老婆に見立てた藁(わら)人形を焼きます。

祭りの由来は、1300年頃、但馬(豊岡市高屋)に雅成親王(後鳥羽上皇第四皇子)が流刑となり、その後を追って、雅成親王の妻、幸姫が京の都からやってきました。その時、幸姫は懐妊の身で急に産気づき、この地で王子を生み落としました。しかし、産後のひだちが悪く、一刻も早く親王のところまで行きたいと、ある老婆に「高屋まであと何日かかりますか」とたずねたところ、老婆は意地悪く「高屋まで九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて20日はかかる」と答えました。 これを聞いた幸姫は、「3日歩けば気力が尽きてしまうほどなのに、これ以上到底生きる望みがありません」と、王子を残し円山川に身を投げてしまいました。

その後、毎年洪水が起き、村人を苦しめたため、その霊を祀ったのが始まりと伝えられています。竹と藁で鉢型の土台を作り、その上部に「御柱松(おたいまつ)」を立て、老婆に見立てた藁人形をくくりつけ、焼き捨てるという奇祭です。

2011/06/22  

百手の儀式【ももてのぎしき】

 

百手の儀式【ももてのぎしき】
弓

行列

百手の儀式
(香美町香住区)
・香美町香住区御崎平内神社

1月28日

百手の儀式
香美町香住区/御崎平内神社/1月28日

平家落人の伝説にまつわる儀式。壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の門脇宰相平教盛(たいらののりもり)を大将とする7人が、 寿永4年(1185)この地に流れつき、平家再興をはかるため、一の谷に門脇、2.5Kmを隔てて西方・平家崎に伊賀、東方さじき屋敷に矢引が住居を構えました。
百手の儀式は、この門脇、伊賀、矢引の武士にふんした3人の少年が的にめがけて101本の矢を射るもので、歩射という弓の神事からはじめられたといわれています。氏神の平内神社で、地区内で採取した竹で弓と矢を製作します。竹で編んだ45cm四方の的に目を描いた紙を貼って( 現在は普通の的になっています)、矢を放ちます。源氏に見立てた的に矢を射て平家の怨念を晴らす、親から子へ世代を重ね、士気を鼓舞し、平家再興を夢見て受け継がれてきた行事です。

他にも、平家落人の行事として、一行が流れついた時、修験僧からクズの葉にのせた小麦の蒸し物をもらって飢えをしのいだことにまつわる「小麦まつり」、大正時代まで続けられていた、正月にホラ貝を吹き出陣に備えていた「陣ぞろえ」、また近年まで「花あそび」などの行事も続けられていました。

2011/06/22  

火祭り【ひまつり】

 

火祭り【ひまつり】
火祭り
湯村の火祭り(新温泉町)
・新温泉町湯
8月24日
湯村の火祭り
新温泉町(旧温泉町)/湯/8月24日

「ジ~ロンボ(次郎坊)、タ~ロンボ(太郎坊)、む~ぎのな~かのク~ロンボ(黒んぼ)」という囃し言葉とともに、子どもたちが弧を描くように打ち振りまわす無数のたいまつの火。「ジ~ロンボ、タ~ロンボ」というのは天狗の名前で、天狗のような驕慢(きょうまん)な心。「む~ぎのな~かのク~ロンボ」は、麦が病気になった黒穂で、害を及ぼすもの。いずれも松明(たいまつ)で焼き払い、五穀豊穣、家内安全、健康を祈願します。春来川の川面に映える火は、暮れゆく夏の夜、幻想的な雰囲気をかもし出します。


火祭り
愛宕火祭
(豊岡市出石町)
・豊岡市出石町鍛冶屋伊福部神社
8月24日に近い日曜日

 

愛宕火祭
・豊岡市出石町/鍛冶屋伊福部神社/8月24日に近い日曜日

夜、陽が沈む頃、七年山中腹の愛宕(あたご)神社で、木と木をすり合わせて行う「火起こしの儀式」がおこなわれ、愛宕神社の燈明は、地域の若者達によって参道を運ばれます。この火をとって、子どもや、大人の共振りが始まります。パチパチと音をたてて燃え上がる麦ワラの束を縄で持って勢いよく振り廻します。同時に各地区の太鼓保存会によって、火祭太鼓が打ち鳴らされクライマックスを迎えます。
愛宕神社の祭礼は、江戸時代からおこなわれていましたが、大正の頃から途絶えてしまい、昭和55年に復活されました。


万燈の火祭り
(香美町香住区)
・香美町香住区三谷矢田川河川敷
7月24日
万燈の火祭り
・香美町香住区/三谷矢田川河川敷/7月24日

約200年前の江戸中期、まん延した疫病を鎮めるためにはじまったと伝えられています。その後、無病息災や豊作を願う行事として定着しましたが、松明用の麦わらが手に入らなくなり、一時途絶えましたが、昭和59年に復活されました。
4~10mの竹ざおの先端につけた麦わらに火をつけ振り回します。地元消防団の模範演技に続いて、子どもや女性たちも次々に火振りをします。火の粉を受けると無病息災、家内安全、火の用心などの願いがかなえられると言われています。
豪快に光跡を描く火振りがくりひろげられ、最期は約40人が、会場中央で、燃えさかるわらを空高く突き上げる大火柱を披露し、夜空に火の粉を1回、2回と大きく舞わせて、火の舞いをしめくくります。