2011/06/22  

桑原神社【くわばらじんじゃ】

 

桑原神社【くわばらじんじゃ】

桑原神社
・豊岡市竹野町桑野本

・行道面
国指定彫刻

●鎌倉時代の祭礼舞楽に用いられた行道面を収蔵
豊岡市竹野町桑野本、桑原神社には古い9つの行道面があります。

建久2年(1191)8月15日に鷹野神社の祭礼舞楽に用いられた面と伝えられています。もと菩薩面10面、僧形面2面がありましたが、菩薩面3面は桑原神社に納められ、洪水のために流出してしまったと伝えられています。現在の菩薩面は、3つの様式に類型に分けることができます。第1の様式(1号面)は、繊細優美な純然たる藤原様式の面で、制作の年代も藤原末期と考えられています。第2の様式のもの(2号・3号面)は、頭髪に飾り金具をつけ、彫法は繊細。写実的で生気ある典型的な鎌倉初期の作品と考えられます。第3の様式のもの(4~7号面)は、頭髪に飾り金具をつけないで、顔の輪郭、眉、鼻、唇など表現は大まかですが、鎌倉時代の特色を示しています。

また、僧形面2面も喜びをユーモラスに生き生きと表現した鎌倉期の作品です。
他に宝冠の残欠け5片、木製の光背2枚、金銅製の光背透かし彫り断片3片、鉄製の鈴および鐃1器ずつがあり、これらもすべて神事に関係あったものと考えられ、鎌倉期の制作と考えられています。

2011/06/22  

三柱神社【みはしらじんじゃ】

 

三柱神社【みはしらじんじゃ】
三柱神社

三柱神社

三柱神社

・養父市八鹿町八鹿
・本殿
県登録有形文化財

●棟札から建立年代と彫刻師が判明
養父市八鹿町八鹿地区景観形成地区の重点文化財活用地区にある神社で、2007年(平成19)に県の文化財に登録されました。
神社建築を代表する一間社流造で、屋根は柿葺。大工や寄進者などを記した棟札により、建立年代は1782年(天明2)とわかりました。さらに、彫刻師・中井権次をはじめ木挽きなどの名も判明し、貴重な資料となっています。

丹波地方で著名な中井氏は、第4代中井忠貞が大工から彫刻師に家業を転換して栄え、江戸時代後期に北近畿で多くの社寺に豪華な彫刻を残しました。第6代中井正貞からは中井権次を襲名しています。
三柱神社は保存状態もよく、時代相応の上質な建物です。

2011/06/22  

三川権現社【みかわごんげんしゃ】

 

三川権現社【みかわごんげんしゃ】

三川権現社
・香美町香住区三川
●山岳修験道の行場として栄えた日本三大権現のひとつ
ブナやシャクナゲが群生する香美町香住区の三川山は、古来より山岳修験道の行場として栄えた古霊場です。 修験道の開祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)が674年に蔵王権現を勧請して開いたと伝えられています。 三川権現は、 大和の大峯山、伯奢の三徳山と並び、日本三大権現に数えられ、かつては歴代の国主、諸公をはじめ一般の人々の信仰も篤く、隆盛を極めていました。

しかしふもとにある三川権現社は、天文7年(1538)、雷火によって奥の院を焼き伽藍を焼失します。その後一時再建されますが、天保3年(1832)に但馬有史以来といわれる山津波(土石流)によって全ての建造物を流失、埋没してしまいました。
出石城主仙石氏や村岡城主山名氏らが再興を計り、高野山大僧正と信徒らが蔵王堂を再建して、現在の三川権現社があります。
現在、5月3日の山開きには全国各地から山伏や行者が集まり、三川権現蔵王堂前で盛大な護摩供養が行われます。「知恵の火で煩悩を焼く」という護摩供養は、積み上げた護摩木に火をつけ、参拝者が願いを込めた小木を炎の中に投げ入れるという火の祭で、家内安全や海上安全、無病息災など所願の成就が祈られます。

また、三川権現には「ぽっくり尊」という、老いてから大往生できるという仏様も祀られています。苦しみを身替わりに背負ってくれるという代苦仏です。さらに全国観音霊場(四国、西国、板東、秩父の合計188ケ所)のお砂文があり、ここに来れば一度に巡ることができるようになっています。
今も修験道の地として知られる三川権現、近年は年間を通して多くの参拝客が訪れています。

2011/06/22  

名草神社【なぐさじんじゃ】

 

名草神社【なぐさじんじゃ】
名草神社
・養父市八鹿町石原


・名草神社本殿
県指定建造物
・名草神社拝殿
県指定建造物


・三重塔
国指定建造物

●関連情報
養父市役所

●標高760mと日本一高いところにある三重塔
標高1,139mの高さを誇る妙見山の8合目に但馬妙見名草神社はあります。妙見さんは澄みきった聖なる空間に鎮座し、稲の豊作を但馬の内外から多くの農民が列をなして参拝した但馬を代表する神社です。
境内の標高760mのところには三重塔があります。三重塔は出雲大社の境内に出雲国の守護大名である尼子経久が願主となって大永七年(1527年)に建立したものです。妙見社が出雲大社本殿の用材として妙見杉を提供した縁によって、出雲大社から三重塔を譲り受けました。寛文五年(1665年)1月に解体が始められて、船で日本海を渡り、名草神社の境内には5月に上がりました。雪に備えた突貫工事によって9月に竣工しました。
明治37年に国宝に指定されましたが、昭和25年の現在の文化財保護法によって国指定重要文化財となりました。また、昭和62年には解体修理工事が完成し、丹塗りの鮮やかな姿を見せています。
屋根は薄い杉板を何枚も重ね合わせたこけら葺きの屋根です。高さは23.9mもあり、三層目の軒下には四隅に四匹の猿の彫刻が置かれています。「見ざる、聞かざる、言わざる」という三猿は有名ですが、あと一匹は「思わざる」だと言われています。
宝暦四年(1754年)建築の本殿は県指定文化財で標高800mの場所に鎮座しています。正面は9間で、側面が5間あります。屋根は入母屋造という形で、こけら葺きです。正面には千鳥破風があり、その前には唐破風をつけた豪華な造りで、こうした正面から見た姿は日光東照宮の姿に例えられています。
拝殿も県指定文化財で、元禄二年(1690年)の建築です。本殿の前に庭を隔てて相対しており、正面は石垣からせり出すように建てられています。正面が5間で側面が2間あり、中央1間を通路とした形で、割拝殿と言います。名草神社で最も古い建物です。

2011/06/22  

中嶋神社【なかしまじんじゃ】

 

中嶋神社【なかしまじんじゃ】

中嶋神社
・豊岡市三宅
・本殿
国指定建造物
●お菓子の神様、田道間守命をまつる
菓祖、田道間守命(たじまもりのみこと)がまつられている中嶋神社。田道間守は天日槍の子孫、三宅連(みやけのむらじ)らの祖先で、垂仁天皇の命を受けて、はるかな地に、命を長らえることのできる実、その時節でなくてもいつでもある香り高い果物(橘)を探し求める旅に出ました。荒海を渡りようやく命がけで橘の実を手に入れることができ、日本へ帰ってきましたが、天皇は崩御の後で、悲しみ嘆いた田道間守は、天皇の陵(墓)に、橘を捧げたまま息絶えてしまいました。
忠節を尽くした田道間守の墓は、垂仁天皇陵の堀の中に浮かぶ小さな島にひっそりと祀られています。また、田道間守が持ち帰った時じくの香の木の実は、わが国のお菓子のはじまりとされ、田道間守の故郷、中嶋神社に祀られています。

本殿は国指定重要文化財で、建造年代は1428年、屋根を側面から見ると後方は短く、前方の軒先が流れ下っている二間流造(ながれづくり)で、室町時代の典型的な神社建築を伝えています。

2011/06/22  

小代神社【おじろじんじゃ】

 

小代神社【おじろじんじゃ】

小代神社
・香美町小代区秋岡

・小代スギ
国指定特別母樹林

●燈明杉の伝説を残す、歴史ある神社
もとは「神明宮」と称していましたが、明治3年(1870)の神仏引分の際「小代神社」と改められました。延喜5年(905)からつくられた「延喜式」神名帳に小代神社二座と記載されており、その歴史は古く由緒正しい神社です。 伝説によると、元和元年(1615)、大坂浪士の上田上野介政広の息子、上田新右衛門政英が、夢に現れた老翁のお告げ通り、輝く杉の木から顕われたご神体を神社に祀ったといわれています。
後にこの杉の木は燈明杉と呼ばれ、樹齢1000年といわれる今も社殿の裏で高々とそびえています。
山腹に建てられた小代神社には他にも様々な木々が生育し、トチノキ、夫婦スギ、ハリモミなど、巨樹としても有数のものがあります。本殿脇にある夫婦スギは長い年月の間に2本の木が合体した珍しいもので、名前の由来にもなっています。樹高は40m以上あり、雄大な姿で繁茂しています。 社叢を構成するスギは雪に強く、材質も優れていることから植林用スギ品種「小代スギ」として国指定特別母樹林に指定されています。
かつて神社で行われていた例祭には数多くの参拝者があったといいます。「但馬秘鍵抄」という古書に、小代神社祭神に蒼稲魂命、牛知魂命を祀るとされているため、畜産守護の神として、崇敬されていたようです。
また、縁結びの神、安産の神ともいわれ、多数の青年男女が参詣していました。様々な伝説を残す小代神社、今は信仰の上からだけでなく、森林が繁茂する幽玄な地に惹かれて、足を運ぶ人もいます。

2011/06/22  

大生部兵主神社【おおいくべひょうずじんじゃ】

 

大生部兵主神社【おおいくべひょうずじんじゃ】

大生部兵主神社
・豊岡市但東町薬王寺
●県社として栄えた牛馬の神を祀る神社
薬王寺の大生部兵主神社は「天王さん」と呼ばれ、牛馬の神様を祀る神社として古くから人々に親しまれてきました。いつ頃できたものかはっきりしていませんが、かつては県社として栄えた由緒ある神社です。
用命天皇の時代(585~587)、勅命を受けて三上山(京都・大江山)に棲む鬼の討伐にやって来た皇子・麻呂子親王が、牛頭天王に祈願したという伝説が残っています。このことから、それ以前に創立されたものと推測されます。また国司文書には、天武13年(684)に社を別の地に移して祀ったとあり、その前後に現在の地に移されたのだと考えられています。
境内には樹齢400年と推定されるご神木の杉の木があります。この木には、地上1~3mの間に23カ所の呪いの釘跡があります。この辺りの山は、昔、大江山とを結ぶ修験の道があったといわれ、山に入り帰らぬ男への恨みを女が釘に込めて、この杉に打ち込んだのだといいます。後に宮司がこの凄惨なありさまを見るのが恐ろしく、ノミで釘を抜き、周囲を修復したそうです。木には今でもその跡が残っています。
現在は 交通安全、家内安全、縁結びの神様として崇められており、毎年5月3日に豊作を祈願する春の大祭が行われています。大祭では地元の中学生が巫女の衣装をまとって、神楽「浦安の舞」を奉納します。続いて「練り込み太鼓」が披露され、笛や太鼓の音が辺りに響き渡ります。この日は餅まきなども行われ、神社は地元の人たちで賑わいをみせます。

2011/06/22  

酒垂神社【さかだるじんじゃ】

 

酒垂神社【さかだるじんじゃ】

酒垂神社
・豊岡市法花寺
・本殿
国指定建造物
●お酒の神様、酒弥豆男命・酒弥豆女命を祀る

酒弥豆男命と酒弥豆女命という酒の神をまつる酒垂神社。本殿は2本の柱で一間をつくる一間社流造の構造で、国の重要文化財に指定されています。現在は保護のために上屋で覆われています。永享10年(1438)に斧始め、嘉吉元年(1441)に立柱、文安元年(1444)に遷宮、体裁を完備したのが、宝徳元年(1449)で、前後11年をかけて建てられた建物です。
おもしろいのは、中嶋神社と同じ大工の手によってつくられています。記録によると大伴久清という宮大工によって建てられており、細部にわたってすぐれた意匠がこらされています。
大伴久清という大工の苗字・大伴は、今も三江地区に分布している大伴姓と関係があるかも知れません。江戸時代に入って修理を担当した藤原勘右衛門は、明らかに下宮の人でした。その修理技術は優秀で、原型を損なうことなく修復しています。

2011/06/22  

四所神社【ししょじんじゃ】

 

四所神社【ししょじんじゃ
四所神社
四所神社
・豊岡市城崎町湯島
・本殿・拝殿
県登録有形文化財

だんじりまつり
だんじりまつり

●関連情報
城崎温泉ホームページ

●城崎温泉の中心に位置する守護神
祭神は湯山主大神(ゆやまぬしのおおかみ)などを祀っています。城崎温泉街の中央に位置し、708年(和銅元)、日生下権守(ひうけごんのかみ)が神託を受け、4柱(四所)の明神を奉祀したことから始まったと伝えられています。
古来より城崎温泉の氏神、温泉の守護神として信仰されてきました。かつて城崎の町はこの四所神社を境に、西が上部、東が下部とわかれていました。
毎年、四所神社の秋の祭礼「だんじり祭り」が外湯のひとつ「一の湯」の前で、盛大に行われます。だんじり(屋台)が激しくぶつかり合う三つ巴の争いは迫力があり、多くの見物人が訪れます。

2011/06/22  

気比の銅鐸【けいのどうたく】

 

気比の銅鐸【けいのどうたく】
気比銅鐸4個
・豊岡市気比
・国指定考古遺物

・東京国立博物館所蔵

●関連情報
とよおか発掘情報

●貝殻などの上に置かれていた縦横四区画をもつ銅鐸

大正元年(1912年)9月、当時、小学校を改築するために必要な石材をもとめて、気比村字溝谷(鷲崎)の石切場で銅鐸4個が発見されました。
路傍にたっていた巨岩の背面にある小岩窟の中に、河原石や貝殻類をしきならべて、その上に置かれてたといわれています。いずれも流水文の小型銅鐸で、その内の第3号鐸は縦横四区画をもつ特色ある文様構成をしています。当時、日本海側では初めての発見で古代史学者が注目しました。その内の2個は大阪府下でつくられたことがわかってきています。陸路約200kmを隔てた間での交易がおこなわれていたことが推測されます。
銅鐸は弥生時代における最も謎の多い遺物で、気比の銅鐸は質の良さ、保存状況の良好さ、出土状況が比較的はっきりしています。大正元年11月に、宮内省から東京帝室博物館へ着出の指令が出され、現東京国立博物館の蔵品となっています。