2022/01/15  

兎塚の由来 【うづかのゆらい】

 

兎塚の由来
【うづかのゆらい】

兎塚の由来
兎塚の由来
下中山の兎の塚
・香美町村岡区森脇
下中山(八幡神社の西)にある兎の塚(現在は入口にバリケード設置)。八井谷地区と川端(兎塚小学校近く)と合わせて3つの塚が残っています。※川端は私有地を通るため、見学の際はご注意ください。

 

 

3羽の古兎伝説

豊かな自然溢れる香美町村岡区。南端にあたる兎塚地域には地名にまつわる兎伝説が残っています。
その昔、村の大池に大きな蛇が棲んでおり、通る人を襲ったり馬や牛を飲みこんで村の人々から恐れられていました。この噂を聞いた帝(みかど)は勅命を出し、弓の名手である日下部政高に大蛇を退治するよう命じます。大蛇退治に向かったところ、3羽の古兎が現れて大蛇を退治させまいと政高の行く手を阻んできました。邪魔をする古兎たちは弓であっという間に退治され、その勢いで大蛇も退治され一件落着。
その後、殺された兎が化けて村の人々をたたり始めたので、村人たちは相談して兎の霊を鎮めるため、塚(お墓)を作ることにしました。下中山、川端、八井谷の3カ所にお墓を作り、それぞれ厚く霊を祀ったところ、たたりはなくなりました。
そこからこの地域を「兎塚」と呼ぶようになったといわれています。

 

 

2019/03/02  

味取の俵石【みどりのたわらいし】

 

味取の俵石【みどりのたわらいし】
味取の俵石
味取の俵石
味取の俵石
・香美町村岡区味取
兵庫県下では柱状節理がよく観察できる場所のひとつとして知られています。村岡区の長楽寺には、江戸時代の村岡領主・山名義方(よしかた)公俵石見物の記録も残っています。

 

俵石を運んだ保食命(うけもちのみこと)と姫の伝説

鮎釣りで有名な矢田川の流れる香美町村岡区味取地区。集落を見下ろすように「味取の俵石」は鎮座しています。全体の幅約70メートル、高さ約20メートルと巨大で、近づいて見るとその迫力に自然の神秘を感じることができます。

岩肌は縦の重なりが美しく、柱のようにまっすぐで、断面は六角形となっています。この岩石は十数万年前に付近で大噴火が起きた際に、溶岩が冷え固まってできた玄武岩です。縦割りの柱状節理と平らに割れる板状節理が俵を積み上げたように見えるため「俵石」の名がつきました。ひとつひとつの岩が大きく、まさに「米俵」のよう。まっすぐに伸びている姿は、子どもたちが健やかに育つ過程を表すようであり、とても縁起のよい場所とされています。

そしてここには、俵石にまつわる伝説が残っています。その昔、食物の神である保食命とその姫が力をあわせて俵石を運んでいました。大量に運んだところで姫が「もういくら運んだでしょうか」と保食命にたずねます。保食命はそろばんを使い計算し始めましたが、近くの川の流れる音が大きいため、何度計算し直しても正確な数が分かりませんでした。「川水ども静かにせよ」と叫ぶと川音はピタッと止みましたが、それでも正確な数は分かりません。姫は、正確な数も数えられないような不甲斐ない男に連れ添っていてはいけないと、保食命を置いて去っていってしまったそうです。この時に二人が運んでいた石が俵を積み重ねたように見える「俵石」となり、保食命が川音を止めた川を音無川と呼ぶようになったと伝えられています。

 

 

2018/01/13  

泡原の長者【あわらのちょうじゃ】

 

泡原の長者【あわらのちょうじゃ】
泡原の長者
泡原の地名の由来
・香美町香住区
泡原は荒原とも書いて、山と山との間で日当たりがよくなく、土ももやせていて、作物があまり育たないところから、そのように名前がついたと言われています。
 

 

 

欲張りな長者をいましめる昔話

昔々、香住谷の泡原に、三郎太という男が住んでいました。三郎太は大変欲ばりで人使いが荒く、鬼のように恐れられていたそうです。この三郎太の娘であるあやめが18歳になった春、とある家に使いをやり、「七郎どのを娘の婿にいただきたい」と申し入れました。この家は栄えた家でしたが、昔の勢いはなく、三郎太からお金も借りていました。三郎太が「貸した金も返さんでいい。ただ、体と扇子いっぱいの土だけでええ」と言うので、安心して七郎を婿にやりました。

ところが、七郎は昼も夜も休みなく働かされるようになります。とうとう七郎は実家に帰ってしまいました。次の日、仲人がやってきて、「帰ってこんでええから、扇子いっぱいの土をくれ」と言います。母親が「土は渡した」と言うと、「扇子いっぱいの土というのは、泡原の家で扇子を開いて、その中に入る土地全部のことだ」と言いました。泡原の家は山の上にあったので、扇子の中に入る土地といえば、この家の全ての土地となります。

三郎太は初めからこの家の土地を手に入れるために仕組んでいたのでした。結局、七郎の家は田畑も家も全て取られてしまいました。ひどい仕打ち娘のあやめは、「夫に謝りたい」と家を飛び出しますが、追っ手に捕まりそうになり、池に身を投げてしまいました。そして、それを知った七郎も同じ池に身を投げました。

さすがの三郎太も自分のしてきたことを後悔して土地を寄付し、巡礼の旅へと出かけて二度と帰ってきませんでした。やがて不思議なことに、池にはあやめの花が1本に二つずつ咲くようになったそうです。

 

2014/12/10  

和田の竜【わだのりゅう】

 

和田の竜【わだのりゅう】
和田の竜
和田の菖蒲綱づくり
和田の菖蒲綱づくり
(香美町)
・香美町村岡区和田 皇大神社
・毎年6月第1日曜

端午の節句(旧暦の5月5日)に行われる伝統行事。火災などの厄除けを祈願する行事として行われています。菖蒲、よもぎなどを混ぜた藁縄を作り、約20mもの綱を編んでいきます。できあがると2つの組に分かれて綱引きを行います。

 

古くから残る竜の伝承と伝統行事
人との繋がりを編む菖蒲綱づくり

自然豊かな香美町村岡区和田。春来峠の登り口に位置するこの地区には竜にまつわる伝承が残っています。
和田にはその昔、大きな池があったといわれています。周辺は昼でも暗い森で、その池には竜が住んでいたそうです。その竜は誰彼かまわず人々を襲い、村の人々を悩ませていました。
ある時、村を通りかかった旅の僧が、なんとかしてあげたいと、一計を案じます。村人たちに大きなわら人形を作らせ、その腹の中にもぐさ(ヨモギを乾かして作ったもの)と針をつめて池のほとりに立たせました。僧がもぐさに火をつけると竜が現れ、人形を飲み込んでしまいました。
熱さに竜は暴れ回りましたが、やがて池の底深く沈み、姿を消してしまいました。
その後、人々は穏やかな日々を楽しんでいましたが、村では次々に災難が起こるようになりました。村人は竜のたたりだと考え、池のほとりに小さなお宮を建て竜神として祀りました。そして村にはまた穏やかな日々が戻ったそうです。
和田では、この話に由来する菖蒲綱づくりが古くから伝わっています。端午の節句に行われる伝統行事で、「ヨーイヤッサ、ヨイサッサ」のかけ声で竜に似せた綱を村人総出で編み、綱引きを行います。昔は豊作を願い、その綱を刻んで田に入れていました。。
不思議なことに、菖蒲綱づくりを取り止めた年には村が大火事に見舞われたことがありました。その後は毎年続けて行われ、今は村人の親睦の場として大きな意味を持っています。声をかけあって作る一本の綱が、心を繋ぐ「絆」として息づいています。