2015/01/31  

桃観トンネルと石額【とうかんとんねるとせきがく】

 

桃観トンネルと石額【とうかんとんねるとせきがく】
桃観トンネル
桃観トンネル
・香美町香住区余部~
新温泉町久谷
・近代化遺産

石額
石額(久谷側)

●山陰線最大の難所に開通したトンネル
山陰線の中で最大の難所だった香美町香住区余部~新温泉町久谷を結ぶトンネルで、1911年(明治44)に完成しました。山陰線のトンネルの中で1番長く(全長1,991m)、約4年間の年月をかけ、当時としては巨費の61万円が投じられました。

この工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)で、難所工事であったため殉職者や病死した人もいました。その人々の名は桃観トンネル西口近くにある久谷八幡神社の中に『鉄道工事中 職斃病没者 招魂碑』と刻まれた石碑に刻まれています。
工事は西より東に向って上り勾配を利用して、掘削は久谷側の西口から始まりました。空気圧搾機や削岩機で掘削を進め、新鮮な空気を供給して作業を行うという、当時の技術の中でも最も近代的な工法が採用され、山陰西線(鳥取~香住)において、機械掘削の初めての試みとなりました。
煉瓦で造られたトンネルの出入り口には、山陰線の開通記念として、当時の逓信(ていしん)大臣兼鉄道院総裁だった後藤新平の筆による石額が掲げられています。久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」、余部側は「惟徳罔小(この徳は少なくない)」と刻されています。実際このような石額を掲げたトンネルは全国においても数例しかありません。

2015/01/13  

但馬の古代遺跡【たじまのこだいいせき】

 

但馬の古代遺跡【たじまのこだいいせき】
4世紀はじめから6世紀末頃までを考古学上、古墳時代といいます。大型の特色ある墳墓形式の時代で、大和政権による国内統一も進み、また朝鮮や中国大陸からの文化の流入も一層活発となってきます。但馬地方でも国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)など豪族たちの大型の墳墓がつくられました。

城ノ山古墳
・朝来市和田山町東谷

・出土品は国指定重要文化財
・4世紀後半


・唐草文帯重圏文鏡


●城ノ山古墳(しろのやまこふん)

三角縁神獣文帯三神三獣鏡が出土した大型円墳

北東に派生する狭い尾根の突端にある、南北径30m、東西径36m、高さ5mの円墳。墳丘は地山を加工・修飾して円形に整え、墳頂部に薄く盛土を行っています。さらに部分的に河原石と角ばった岩石をまじえた葺き石状の遺構が墳丘裾部に見られます。
昭和46年、和田山バイパスの建設工事に伴い全面発掘調査が行われました。埋葬部分(主体部)は8.9m×2.9mで地山を彫り込んで作られていました。中には6.43m×0.6mの木棺が安置され、遺骸は頭部を東に向けて埋葬されていました。人骨(頭骨)が残存しており、その頭部東側から銅鏡3面、石釧(いしくしろ)4個、石製合子(ごうす)1個(身のみ)、琴柱形(ことじがた)石製品1個が出土、頸部付近に点々と勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)が80個以上検出され、やや離れて棺東部に刀剣・工具類が13点余り出土しました。
また、棺西部の遺骸足部から銅鏡3面が出土しました。国の重要文化財の一つ、三角縁獣文帯三神三獣鏡は畿内の大和政権が配付したものといわれています。
これら築造形態および主体部・木棺規模・出土品などからみて4世紀末の古墳と推定され、この地方における首長層の墳墓であると考えられています。 城の山古墳では墳丘下にトンネルをつくって道路を通して保存対策がとられています。


船宮古墳
・朝来市桑市

・県指定史跡

・5世紀代

●船宮古墳(ふなのみやこふん)

5世紀代の同一水面の周濠をそなえた前方後円墳
日本最古の牛形埴輪が出土
古墳時代中期のもので全長約80m、但馬第2の大型前方後円墳で、ほぼ平坦な地形につくられ、 同一水面の周濠をそなえた前方後円墳としては、但馬唯一のものとされています。周濠は後円部側と西側にその痕跡をとどめ、東側は国道敷設による損壊をうけ、墳丘斜前方部の山頂に八幡社が造営され、また墳丘裾部も道路などにより円形状を呈しています。墳丘斜面部には、葺石として利用されたと考えられる河原石が散見しています。埴輪については円筒埴輪、壺形埴輪片や、日本最古の牛形埴輪が採集されています。後円部と前方部の比高差がなく、後円部と前方部を逆にみたり、双円墳とする説もあります。

どのような人が葬られていたかは不明ですが、氏神参道に船宮之碑には、但馬国営の「船穂足尼」の墳墓であると記されていますが、明らかなことはわかっていません。



八幡山古墳群
・香美町村岡区福岡

・県指定史跡

・5~6世紀

●八幡山古墳群(やはたやまこふんぐん)
5~6世紀、三角持送り式天井の竪穴系横口式石室

八幡山の丘陵屋根の南東に寄ったところにかたまり、かつては他に数基の古墳があったようです。この丘陵上には現在4基の古墳があり、3・5・6号墳が開口しています。構造から竪穴系横口式石室の名でよばれる石室で、特に5号墳は「三角持送り式天井」という特殊な構築方法として注目されています。石室の隅を三角にもちおくって天井部を架構していく方法は、日本全国をみても例が多くなく、源流は朝鮮半島に認められているといわれています。

また、6号墳からは多くの土師器や須恵器が出土されており、本古墳群の時期の一端をうかがわせます。5世紀末ころから6世紀前半にかけての遺物を含み、一度限りの埋葬だったとは考えにくい遺物の状況にあります。



文堂古墳
・香美町村岡区寺河内

・県指定史跡

・7世紀前半

●文堂古墳(ぶんどうこふん)
6~7世紀に継続的に形成された首長墓のひとつ

標高270mの丘陵斜面にあり、高井集落を見下ろす位置にある古墳時代後期の古墳。全長約10.2mの両袖式横穴式石室となっており、玄室の長さ4.7m、幅2m、高さ1.8mの埋葬施設を有する古墳ですが、墳丘に墓地や畑地が作られているため墳丘は不明となっています。
1948年・1970年の調査で出土した副葬品から7世紀前半に築造されたものと言われています。出土した副葬品は、金銅装頭椎大刀、馬具、刀子、鉄釘、鉄鏃、珠文鏡、勾玉、金環、ガラス玉、須恵器、土師器など多岐にわたっています。
6~7世紀の矢田川上流域では、文堂古墳以外にも高井古墳、長者ヶ平1号古墳、長者ヶ平2号古墳が作られており、継続的な首長墓が形成されてました。


三の谷壁画古墳
・香美町村岡区高井

・県指定史跡

●三の谷壁画古墳(さんのたにへきがこふん)
同じ向きに配され、描かれた2羽の鳥の壁画

三の谷壁画古墳の1号墳は、直径約10mの小円墳で山腹斜面に築造されています。羨道部には数十条の細線を刻んで、林の中に鳥が2羽静止した壁画が丁寧に磨き上げられた160cm×60cmの石に描かれています。この2羽の鳥はともにくちばしを向かって左に描かれているので、右利きの作者が描いたのではないかと推測されています。


大藪古墳群
・養父市大藪

・県指定史跡

・6世紀後半~7世紀代

●関連情報
養父市役所

●大藪古墳群(おおやぶこふんぐん)
但馬最大級の後期古墳群
但馬最大級の後期古墳群で、東西約2km、南北約1kmの範囲で、山麓の斜面に、西の岡、禁裡塚(きんりづか)、野塚3号、塚山、コウモリ塚古墳といった大型の横穴式石室を持つ古墳が先端部に位置をしめています。さらに、これらの大古墳をまもるように背後に多数の小規模な古墳が存在しています。
代表的な禁裡塚古墳の墳丘は、32mあまりのやや長円形で石室は全長12.5m、玄室5.9mの大規模なもので、残存状況はきわめて良好で、玄室には奥壁に近い側壁と奥壁の中段付近にやや赤みをおびた部分があり、赤色顔料を塗布したものではと推測されています。また、その地域の首長墓とされる古墳に副葬される装飾付須恵器の破片が出土しています。

禁裡塚古墳から真西に700mのところへある西の岡古墳はきわめて整った美しさをそなえた横穴式石室で、その全長は13.6mと大きなものです。
6世紀後半から7世紀代にかけての大型古墳で、100年あまりに4基つくられていることから、一世代に1基ずつ造営され続けたと考えられています。この地に但馬最大級の政治権力者の存在が考えられ、畿内政権の動向と似た動きがあり、おびただしい古墳群は、有力な四単位の集団が中心となって形成されたこと、この集団から盟主を選び、その連合体が後の但馬全域に及ぶ支配体制を形づくったのではと想定されます。



箕谷群集墳
・養父市八鹿町小山

・国指定史跡

・7世紀前半(630年ごろ)

・戊辰年銘大刀

国指定考古

●関連情報
養父市役所

●箕谷群集墳(みいだにぐんしゅうふん)
銘文入りの大刀や100点以上の遺物が出土
7世紀前半(630年ごろ) 築造、2号墳から3号墳まで4基の古墳が築かれている箕谷群集墳(7000平方メートル)は国の史跡に指定されています。また昭和58年の発掘調査によって発見された銘文入りの戊辰年銘大刀をはじめ箕谷2号墳から出土した100点以上の遺物は国の重要文化財に、3・4号墳から出土した遺物と1号墳は養父市八鹿町の文化財に、それぞれ指定されています。
箕谷古墳群から出土した土器から年代を推定すると、西暦630年代から650年代(TK217型式後半)に作られた古墳群で、推古天皇や聖徳太子の時代に活躍した人を埋葬したお墓です。この当時、但馬を支配した国造の古墳と考えられるのは、約4km東南にある養父市の大薮古墳群で、箕谷古墳群の埋葬者も彼ら但馬支配に貢献した一族と考えられています。

現在、築墳当時の姿が復元され、公園として整備されています。中でも、2号墳は天井石を一枚取って強化ガラス製の天窓を設け、そこからの光で石室の内部がよく見えるようになっています。天窓を使った古墳の整備は、全国でも初めての試みで、石室内の壁は、もともと使われていた古い石材の上に新しい石材を積んで復元されています。古い石材はもろくなっているため、撥水(はっすい)強化処理が施されています。石室の床には礫を敷き、その中央に人を型取った板を設置。人型の周りには、2号墳から出土した戊辰年銘大刀や鉄刀、矢、土器など約35点の復元品が置かれ、埋葬当時の様子が再現されています。



二見谷古墳群
・豊岡市城崎町上山

・県指定史跡

●二見谷古墳群(ふたみだにこふんぐん)
組合せ式の家形石棺をおさめる横穴式石室
組合せ式の家形石棺をおさめる横穴式石室(4号墳)で、北但馬を代表する古墳の一つです。集落をはさんだ北側にも大型の横穴式石棺(1号墳)があり、刳抜(くりぬき)式の石棺がおさめられています。
有力な古墳ですが、当時その周辺に生産力の大きな田畑がひらかれていたとは考えにくく、円山川の舟運や漁業にかかわりのある一族の墓と考えられています。

現在、古墳保護のため保存会を結成し、一帯を史跡公園として整備しています。



茶すり山古墳
・朝来市和田山町筒江
・国指定史跡
●茶すり山古墳(ちゃすりやまこふん)
直径約90mで近畿地方最大級の円墳
墳頂には東西約35m、南北約30mの楕円形の平坦面があり、その内側には円筒埴輪や朝顔形埴輪が巡り、北側 段築平坦面にも埴輪が列状に並べられていました。
特徴は棺の中に大量の鉄製品を副葬するという点で、それらの中には、襟付短甲や鉄柄付手斧・蛇行剣といった畿内限定や畿内周辺に出土が集中する、全国的にも珍しい遺物もありました。中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた首長の墓であることが確認されています。


池田古墳
・朝来市和田山町平野
・県指定史跡

●池田古墳(いけだこふん)
但馬で最大の大型前方後円墳
大型の円墳である城ノ山古墳の北西わずか100mの眼下に築造された、但馬では最大の大型前方後円墳です。5世紀前半のもので、墳丘全長約141m、前方部幅約約71m、後円部径約76m、周濠を含めると全長は約170mに及びます。兵庫県下最大、全長194mの五色塚古墳(神戸市)などに次ぐ県下4番目の規模を誇り、かなりの強大な権力を持った首長の墳墓といえます。
埴輪列や葺石が確認されており、周濠からは多量の木製品が出土しています。水鳥型埴輪23体を出土していて、1つの古墳からの出土数としては全国最多です。埴輪、葺石、楯型周溝をすべて備えた前方後円墳は、北近畿では池田古墳と船宮古墳(ともに朝来市)だけと大変貴重な古墳です。

2011/11/21  

大乗寺【だいじょうじ】

 

大乗寺【だいじょうじ】


大乗寺
・香美町香住区森

・十一面観世音菩薩
・障壁画165面
以上国指定彫刻・絵画
・大乗寺客殿など2棟
県指定重要文化財
・午前9時~午後4時

・拝観料大人800円
・TEL0796-36-0602

●関連情報
大乗寺

●別名応挙寺、165の障壁画が立体曼陀羅をつくりだす

高野山真言宗 亀居山 大乗寺は聖武天皇の御代天平17年(745)、行基菩薩自ら聖観音菩薩立像を彫刻し祀ったのが始まりとされています。一時衰退しましたが、安永年間、密蔵法印が伽藍の再建につくし、弟子の密英上人が後を継ぎ伽藍を完成させました。
その際、客殿に円山応挙とその一門の手による障壁画が描かれ、そのため別名応挙寺とも呼ばれ、多くの人々が訪れています。
円山応挙(1733~1795)は、はじめ狩野派の石田幽汀に学び、その後、自然の写生に専念したり、西欧の遠近法などの手法を学び、彼独特の新しい画風としての写生画を完成しました。その写生画はあらゆる階層の人々に支持され、画壇の第一人者となり、円山派の祖として仰がれた人物です。
その昔、円山応挙は生活が苦しく絵を売りながら、何とか暮らしを支え、絵を学んでいたころ、大乗寺の住職・密蔵上人と出会いました。上人はまだ無名であった応挙の画才を見抜き、即座に学費を援助しました。応挙にとって大乗寺の密蔵・密英住職は、忘れることのできない恩人だったのです。
天明7年、当時55才になっていた応挙は、古くなって改築の時期がきていた大乗寺伽藍の話を聞きつけました。以来8年間、5回に渡って大乗寺を訪れ、子や弟子の呉春・長沢芦雪らとともにご恩返しとして、多数のふすま絵や軸物を描いたと伝えられています。
大乗寺の中心に位置する仏間の十一面観世音菩薩(国重文)を守る立体曼陀羅が、客殿13室(県指定文化財)に障壁画として165面も描かれ、すべて国の重要文化財に指定されています。
※作品の一部はデジタル再製画を展示

2011/11/20  

帝釈寺【たいしゃくじ】

 

帝釈寺【たいしゃくじ】


帝釈寺
・香美町香住区下浜
木造聖観音立像
・国指定重要文化財

 
●帝釈天を安置する平安時代の歴史ある古刹
帝釈寺は702年道照により再建されたという帝釈天を安置する古刹です。帝釈天とはヒンドゥー教などの武神であるインドラと同一の神で仏教に取り入れられ、梵天と並んで仏教の二大護法善神になりました。本堂には本尊帝釈天像が安置されています。また、脇仏の木造聖観音立像は国指定の重要文化財で、厄除け観音としても広く信仰されている仏像です。この木造聖観音立像は檜の一本造りで両手のほとんどまで同じ木で彫りだされています。両手は痛んで失っていますが、左手は蓮華を持ち、右手には与願印であったと考えられています。裳裾の両側は引き上げられ、上瞼は直線的で平安時代の特徴をよくあらわしています。

※拝観は事前に予約が必要です。

2011/11/20  

郡主神社【ぐんしゅじんじゃ】

 

郡主神社【ぐんしゅじんじゃ】

郡主神社
・美方郡香美町村岡区板仕野
・本殿
県指定文化財(建造物)

 


●大物主神と平重盛を祀る室町時代建立の神社

室町時代の1408年建立と伝わる神社です。大物主神と平清盛の嫡男・重盛を祀っており、本殿は兵庫県が指定文化財としています。江戸期の寛永および享保年間などに幾度か修理し、現在本殿は鞘堂に納められています。三間社流造の本殿、屋根は柿葺きで、身舎と向拝のつなぎは中央を海老虹梁、両端を大面取りのつなぎ虹梁と、珍しい形式をとっています。15世紀初めの建築様式を今に伝える貴重な文化財です。

2011/06/28  

森田家住宅【もりたけじゅうたく】

 

森田家住宅【もりたけじゅうたく】
森田家住宅
森田家住宅

森田家住宅
・香美町香住区隼人
・国登録有形文化財

●大規模養蚕伝える香美町初の登録有形文化財
2006年8月、香美町で初めて国の登録有形文化財に選ばれた「森田家住宅」。但馬では、これが10カ所目の登録有形文化財です。
登録有形文化財とは、築後50年以上の建造物で、デザインや建設技術が優れたものが対象となります。明治初期に建設された森田家住宅は、大規模な養蚕農家の形式を残しており、庄屋屋敷としても貴重なものだといわれています。明治3年(1870)に建設された入母屋造(いりもやづくり)の屋根を持つ母屋や、明治初期に建設された白の漆喰塗りが特徴の土塀、付属室と中門・塀も景観が評価され、同宅敷地内の計4点が文化財登録されています。
終戦前後までは、地元で栽培された桑の葉を使って、大規模な養蚕を行っていたようです。

※同住宅は原則として非公開

2011/06/22  

法雲寺【ほううんじ】

 

法雲寺【ほううんじ】

法雲寺
・香美町村岡区村岡2365


山名史料館・山名蔵
TEL0796-98-1151

●関連情報
法雲寺

●村岡山名氏の菩提寺
 村岡山名氏の菩提寺。寺内の御霊屋には太祖・義範公以降の位牌が奉安されています。記録によると「法雲寺(ほううんじ)」という名は、 村岡山名氏三代・矩豊公が寛永19年(1642)に村岡に入部した際に、在郷の禅院を山名家の菩提寺と定め、命名したものです。以前は「報恩寺(ほうおんじ)」と呼ばれていました。
現在の村岡周辺は南北朝時代から七美(ひつみ)の庄と呼ばれており、庄内のほとんどは花園・妙心寺(臨済宗)第二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ)の荘園でした。後醍醐天皇の側近で建武の中興の功労者だった宗弼が永和元年(1375)、80歳の時、七美庄に「報恩寺」(ほうおんじ)を建立しました。
その後、南北朝から室町へと時代が進むにつれ、荘園の形態も弱体化し、報恩寺の荘園を管理する役目は終わり、土地の為政者の祖先供養が重要な役割となりました。
元禄年間、 矩豊公が藩都を村岡の地に移し、鎌倉時代以来の宝牌を「法雲寺」に納め、名門山名宗家としての祭祀を尽くしました。寺の名前は二代・矩政公の法名「法雲」(ほううん)をあてはめたそうです。寺名の変更と同時に、法華経の信仰者だった矩豊公は宗派を臨済宗から日蓮宗に変更しました。
しかし、当時徳川将軍家は「天台宗」と「浄土宗」を信仰しており、矩豊公は御伽衆と言う将軍に近しい役職上から、その後「日蓮宗」から「天台宗」へと宗派を再び変更しました。以来二十代の住職によって現在まで引き継がれています。
境内の山名史料館には山名氏に関する武具・什器・文書などが展示されており、山名氏の栄光と共に歩んできた町の歴史を伺い知ることができます。

2011/06/22  

黒野神社【くろのじんじゃ】

 

黒野神社【くろのじんじゃ】

黒野神社
・香美町村岡区村岡

・絹本著名釈迦十六善神像
国指定

●南北朝時代の釈迦十六善神像を所蔵

延喜5年(902)12月、藤原忠平等が撰上した「延喜式」神名帳に黒野神社の名が掲載されています。黒野神社が所蔵している「絹本著名釈迦十六善神像」(縦130.3cm 幅58.5cm)は南北朝時代のものといわれ、国指定重要文化財に指定されています。また、「貴徳面」(縦20cm 横15.5cm)は鎌倉時代のもので、町指定文化財に指定されています。

2011/06/22  

三川権現社【みかわごんげんしゃ】

 

三川権現社【みかわごんげんしゃ】

三川権現社
・香美町香住区三川
●山岳修験道の行場として栄えた日本三大権現のひとつ
ブナやシャクナゲが群生する香美町香住区の三川山は、古来より山岳修験道の行場として栄えた古霊場です。 修験道の開祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)が674年に蔵王権現を勧請して開いたと伝えられています。 三川権現は、 大和の大峯山、伯奢の三徳山と並び、日本三大権現に数えられ、かつては歴代の国主、諸公をはじめ一般の人々の信仰も篤く、隆盛を極めていました。

しかしふもとにある三川権現社は、天文7年(1538)、雷火によって奥の院を焼き伽藍を焼失します。その後一時再建されますが、天保3年(1832)に但馬有史以来といわれる山津波(土石流)によって全ての建造物を流失、埋没してしまいました。
出石城主仙石氏や村岡城主山名氏らが再興を計り、高野山大僧正と信徒らが蔵王堂を再建して、現在の三川権現社があります。
現在、5月3日の山開きには全国各地から山伏や行者が集まり、三川権現蔵王堂前で盛大な護摩供養が行われます。「知恵の火で煩悩を焼く」という護摩供養は、積み上げた護摩木に火をつけ、参拝者が願いを込めた小木を炎の中に投げ入れるという火の祭で、家内安全や海上安全、無病息災など所願の成就が祈られます。

また、三川権現には「ぽっくり尊」という、老いてから大往生できるという仏様も祀られています。苦しみを身替わりに背負ってくれるという代苦仏です。さらに全国観音霊場(四国、西国、板東、秩父の合計188ケ所)のお砂文があり、ここに来れば一度に巡ることができるようになっています。
今も修験道の地として知られる三川権現、近年は年間を通して多くの参拝客が訪れています。

2011/06/22  

小代神社【おじろじんじゃ】

 

小代神社【おじろじんじゃ】

小代神社
・香美町小代区秋岡

・小代スギ
国指定特別母樹林

●燈明杉の伝説を残す、歴史ある神社
もとは「神明宮」と称していましたが、明治3年(1870)の神仏引分の際「小代神社」と改められました。延喜5年(905)からつくられた「延喜式」神名帳に小代神社二座と記載されており、その歴史は古く由緒正しい神社です。 伝説によると、元和元年(1615)、大坂浪士の上田上野介政広の息子、上田新右衛門政英が、夢に現れた老翁のお告げ通り、輝く杉の木から顕われたご神体を神社に祀ったといわれています。
後にこの杉の木は燈明杉と呼ばれ、樹齢1000年といわれる今も社殿の裏で高々とそびえています。
山腹に建てられた小代神社には他にも様々な木々が生育し、トチノキ、夫婦スギ、ハリモミなど、巨樹としても有数のものがあります。本殿脇にある夫婦スギは長い年月の間に2本の木が合体した珍しいもので、名前の由来にもなっています。樹高は40m以上あり、雄大な姿で繁茂しています。 社叢を構成するスギは雪に強く、材質も優れていることから植林用スギ品種「小代スギ」として国指定特別母樹林に指定されています。
かつて神社で行われていた例祭には数多くの参拝者があったといいます。「但馬秘鍵抄」という古書に、小代神社祭神に蒼稲魂命、牛知魂命を祀るとされているため、畜産守護の神として、崇敬されていたようです。
また、縁結びの神、安産の神ともいわれ、多数の青年男女が参詣していました。様々な伝説を残す小代神社、今は信仰の上からだけでなく、森林が繁茂する幽玄な地に惹かれて、足を運ぶ人もいます。