2015/01/13  

但馬の古代遺跡【たじまのこだいいせき】

 

但馬の古代遺跡【たじまのこだいいせき】
4世紀はじめから6世紀末頃までを考古学上、古墳時代といいます。大型の特色ある墳墓形式の時代で、大和政権による国内統一も進み、また朝鮮や中国大陸からの文化の流入も一層活発となってきます。但馬地方でも国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)など豪族たちの大型の墳墓がつくられました。

城ノ山古墳
・朝来市和田山町東谷

・出土品は国指定重要文化財
・4世紀後半


・唐草文帯重圏文鏡


●城ノ山古墳(しろのやまこふん)

三角縁神獣文帯三神三獣鏡が出土した大型円墳

北東に派生する狭い尾根の突端にある、南北径30m、東西径36m、高さ5mの円墳。墳丘は地山を加工・修飾して円形に整え、墳頂部に薄く盛土を行っています。さらに部分的に河原石と角ばった岩石をまじえた葺き石状の遺構が墳丘裾部に見られます。
昭和46年、和田山バイパスの建設工事に伴い全面発掘調査が行われました。埋葬部分(主体部)は8.9m×2.9mで地山を彫り込んで作られていました。中には6.43m×0.6mの木棺が安置され、遺骸は頭部を東に向けて埋葬されていました。人骨(頭骨)が残存しており、その頭部東側から銅鏡3面、石釧(いしくしろ)4個、石製合子(ごうす)1個(身のみ)、琴柱形(ことじがた)石製品1個が出土、頸部付近に点々と勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)が80個以上検出され、やや離れて棺東部に刀剣・工具類が13点余り出土しました。
また、棺西部の遺骸足部から銅鏡3面が出土しました。国の重要文化財の一つ、三角縁獣文帯三神三獣鏡は畿内の大和政権が配付したものといわれています。
これら築造形態および主体部・木棺規模・出土品などからみて4世紀末の古墳と推定され、この地方における首長層の墳墓であると考えられています。 城の山古墳では墳丘下にトンネルをつくって道路を通して保存対策がとられています。


船宮古墳
・朝来市桑市

・県指定史跡

・5世紀代

●船宮古墳(ふなのみやこふん)

5世紀代の同一水面の周濠をそなえた前方後円墳
日本最古の牛形埴輪が出土
古墳時代中期のもので全長約80m、但馬第2の大型前方後円墳で、ほぼ平坦な地形につくられ、 同一水面の周濠をそなえた前方後円墳としては、但馬唯一のものとされています。周濠は後円部側と西側にその痕跡をとどめ、東側は国道敷設による損壊をうけ、墳丘斜前方部の山頂に八幡社が造営され、また墳丘裾部も道路などにより円形状を呈しています。墳丘斜面部には、葺石として利用されたと考えられる河原石が散見しています。埴輪については円筒埴輪、壺形埴輪片や、日本最古の牛形埴輪が採集されています。後円部と前方部の比高差がなく、後円部と前方部を逆にみたり、双円墳とする説もあります。

どのような人が葬られていたかは不明ですが、氏神参道に船宮之碑には、但馬国営の「船穂足尼」の墳墓であると記されていますが、明らかなことはわかっていません。



八幡山古墳群
・香美町村岡区福岡

・県指定史跡

・5~6世紀

●八幡山古墳群(やはたやまこふんぐん)
5~6世紀、三角持送り式天井の竪穴系横口式石室

八幡山の丘陵屋根の南東に寄ったところにかたまり、かつては他に数基の古墳があったようです。この丘陵上には現在4基の古墳があり、3・5・6号墳が開口しています。構造から竪穴系横口式石室の名でよばれる石室で、特に5号墳は「三角持送り式天井」という特殊な構築方法として注目されています。石室の隅を三角にもちおくって天井部を架構していく方法は、日本全国をみても例が多くなく、源流は朝鮮半島に認められているといわれています。

また、6号墳からは多くの土師器や須恵器が出土されており、本古墳群の時期の一端をうかがわせます。5世紀末ころから6世紀前半にかけての遺物を含み、一度限りの埋葬だったとは考えにくい遺物の状況にあります。



文堂古墳
・香美町村岡区寺河内

・県指定史跡

・7世紀前半

●文堂古墳(ぶんどうこふん)
6~7世紀に継続的に形成された首長墓のひとつ

標高270mの丘陵斜面にあり、高井集落を見下ろす位置にある古墳時代後期の古墳。全長約10.2mの両袖式横穴式石室となっており、玄室の長さ4.7m、幅2m、高さ1.8mの埋葬施設を有する古墳ですが、墳丘に墓地や畑地が作られているため墳丘は不明となっています。
1948年・1970年の調査で出土した副葬品から7世紀前半に築造されたものと言われています。出土した副葬品は、金銅装頭椎大刀、馬具、刀子、鉄釘、鉄鏃、珠文鏡、勾玉、金環、ガラス玉、須恵器、土師器など多岐にわたっています。
6~7世紀の矢田川上流域では、文堂古墳以外にも高井古墳、長者ヶ平1号古墳、長者ヶ平2号古墳が作られており、継続的な首長墓が形成されてました。


三の谷壁画古墳
・香美町村岡区高井

・県指定史跡

●三の谷壁画古墳(さんのたにへきがこふん)
同じ向きに配され、描かれた2羽の鳥の壁画

三の谷壁画古墳の1号墳は、直径約10mの小円墳で山腹斜面に築造されています。羨道部には数十条の細線を刻んで、林の中に鳥が2羽静止した壁画が丁寧に磨き上げられた160cm×60cmの石に描かれています。この2羽の鳥はともにくちばしを向かって左に描かれているので、右利きの作者が描いたのではないかと推測されています。


大藪古墳群
・養父市大藪

・県指定史跡

・6世紀後半~7世紀代

●関連情報
養父市役所

●大藪古墳群(おおやぶこふんぐん)
但馬最大級の後期古墳群
但馬最大級の後期古墳群で、東西約2km、南北約1kmの範囲で、山麓の斜面に、西の岡、禁裡塚(きんりづか)、野塚3号、塚山、コウモリ塚古墳といった大型の横穴式石室を持つ古墳が先端部に位置をしめています。さらに、これらの大古墳をまもるように背後に多数の小規模な古墳が存在しています。
代表的な禁裡塚古墳の墳丘は、32mあまりのやや長円形で石室は全長12.5m、玄室5.9mの大規模なもので、残存状況はきわめて良好で、玄室には奥壁に近い側壁と奥壁の中段付近にやや赤みをおびた部分があり、赤色顔料を塗布したものではと推測されています。また、その地域の首長墓とされる古墳に副葬される装飾付須恵器の破片が出土しています。

禁裡塚古墳から真西に700mのところへある西の岡古墳はきわめて整った美しさをそなえた横穴式石室で、その全長は13.6mと大きなものです。
6世紀後半から7世紀代にかけての大型古墳で、100年あまりに4基つくられていることから、一世代に1基ずつ造営され続けたと考えられています。この地に但馬最大級の政治権力者の存在が考えられ、畿内政権の動向と似た動きがあり、おびただしい古墳群は、有力な四単位の集団が中心となって形成されたこと、この集団から盟主を選び、その連合体が後の但馬全域に及ぶ支配体制を形づくったのではと想定されます。



箕谷群集墳
・養父市八鹿町小山

・国指定史跡

・7世紀前半(630年ごろ)

・戊辰年銘大刀

国指定考古

●関連情報
養父市役所

●箕谷群集墳(みいだにぐんしゅうふん)
銘文入りの大刀や100点以上の遺物が出土
7世紀前半(630年ごろ) 築造、2号墳から3号墳まで4基の古墳が築かれている箕谷群集墳(7000平方メートル)は国の史跡に指定されています。また昭和58年の発掘調査によって発見された銘文入りの戊辰年銘大刀をはじめ箕谷2号墳から出土した100点以上の遺物は国の重要文化財に、3・4号墳から出土した遺物と1号墳は養父市八鹿町の文化財に、それぞれ指定されています。
箕谷古墳群から出土した土器から年代を推定すると、西暦630年代から650年代(TK217型式後半)に作られた古墳群で、推古天皇や聖徳太子の時代に活躍した人を埋葬したお墓です。この当時、但馬を支配した国造の古墳と考えられるのは、約4km東南にある養父市の大薮古墳群で、箕谷古墳群の埋葬者も彼ら但馬支配に貢献した一族と考えられています。

現在、築墳当時の姿が復元され、公園として整備されています。中でも、2号墳は天井石を一枚取って強化ガラス製の天窓を設け、そこからの光で石室の内部がよく見えるようになっています。天窓を使った古墳の整備は、全国でも初めての試みで、石室内の壁は、もともと使われていた古い石材の上に新しい石材を積んで復元されています。古い石材はもろくなっているため、撥水(はっすい)強化処理が施されています。石室の床には礫を敷き、その中央に人を型取った板を設置。人型の周りには、2号墳から出土した戊辰年銘大刀や鉄刀、矢、土器など約35点の復元品が置かれ、埋葬当時の様子が再現されています。



二見谷古墳群
・豊岡市城崎町上山

・県指定史跡

●二見谷古墳群(ふたみだにこふんぐん)
組合せ式の家形石棺をおさめる横穴式石室
組合せ式の家形石棺をおさめる横穴式石室(4号墳)で、北但馬を代表する古墳の一つです。集落をはさんだ北側にも大型の横穴式石棺(1号墳)があり、刳抜(くりぬき)式の石棺がおさめられています。
有力な古墳ですが、当時その周辺に生産力の大きな田畑がひらかれていたとは考えにくく、円山川の舟運や漁業にかかわりのある一族の墓と考えられています。

現在、古墳保護のため保存会を結成し、一帯を史跡公園として整備しています。



茶すり山古墳
・朝来市和田山町筒江
・国指定史跡
●茶すり山古墳(ちゃすりやまこふん)
直径約90mで近畿地方最大級の円墳
墳頂には東西約35m、南北約30mの楕円形の平坦面があり、その内側には円筒埴輪や朝顔形埴輪が巡り、北側 段築平坦面にも埴輪が列状に並べられていました。
特徴は棺の中に大量の鉄製品を副葬するという点で、それらの中には、襟付短甲や鉄柄付手斧・蛇行剣といった畿内限定や畿内周辺に出土が集中する、全国的にも珍しい遺物もありました。中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた首長の墓であることが確認されています。


池田古墳
・朝来市和田山町平野
・県指定史跡

●池田古墳(いけだこふん)
但馬で最大の大型前方後円墳
大型の円墳である城ノ山古墳の北西わずか100mの眼下に築造された、但馬では最大の大型前方後円墳です。5世紀前半のもので、墳丘全長約141m、前方部幅約約71m、後円部径約76m、周濠を含めると全長は約170mに及びます。兵庫県下最大、全長194mの五色塚古墳(神戸市)などに次ぐ県下4番目の規模を誇り、かなりの強大な権力を持った首長の墳墓といえます。
埴輪列や葺石が確認されており、周濠からは多量の木製品が出土しています。水鳥型埴輪23体を出土していて、1つの古墳からの出土数としては全国最多です。埴輪、葺石、楯型周溝をすべて備えた前方後円墳は、北近畿では池田古墳と船宮古墳(ともに朝来市)だけと大変貴重な古墳です。

2015/01/10  

夢但馬【ゆめたじま】

 

夢但馬【ゆめたじま】

夢但馬ロゴマーク

 

●関連情報
夢但馬公式ホームページ

●地域の資源を見つめ直し、新しい但馬に生まれ変わる
「夢但馬」とは1994年に開催された「但馬・理想の都の祭典」から20年目となる2014年をきっかけに、地域の資源を見つめ直し、但馬全域で新しい地域づくりの機運をつくろうとしています。

「但馬・理想の都の祭典」では、”ハコモノ”がたくさん建設され、事業費をかけた大型イベントも行われました。それと同じことはもうできません。今の私たちだからこそ、できることがあるはずです。
但馬人が但馬のことをもっと知り、新しい視点や連携により、楽しみながら地域での取組みに参加していく。但馬以外の方にも魅力をお伝えし、より多くの方に来ていただく。すると、但馬がおもしろくなる。但馬の美味しいものや誇るべき観光地、海や山が、ますます多くの方に愛され、但馬での暮らしが生き生きと輝く。そんな展開を目指しています。

夢但馬の事業や関連イベントについては、公式ホームページで情報発信されています。
※夢但馬公式ホームページへ

夢但馬 2014 推進協議会事務局
(但馬県民局地域政策室夢但馬推進課内)
・0796-26-3675
・豊岡市幸町7-11

2015/01/10  

たけだ城下町交流館 【たけだじょうかまちこうりゅうかん】

 

たけだ城下町交流館
【たけだじょうかまちこうりゅうかん】

情報館 「天空の城」


旧木村酒造場 EN

 

●関連情報
旧木村酒造場 EN

●竹田城跡、竹田城下町の交流拠点施設
天空の城として知られる竹田城跡や竹田城下町のまち歩きの拠点施設として、平成25年秋にオープン。旧造り酒屋をリノベーションした敷地内には、観光案内所やレストラン、ホテルなどが設置されています。
情報館「天空の城」では、竹田城跡のジオラマや竹田城シアター、資料・各種パンフレットの展示や観光案内などを行っています。歴史が好きで研究熱心な地元のガイドさんが竹田の町を案内してくれる、観光ガイドも人気です。
旧木村酒造場 ENはホテル、レストラン、カフェとして旧酒造をリノベート。地元素材を主に使用した月替ランチが好評です。

情報館 「天空の城」
・079-674-2120
・朝来市和田山町竹田字上町西側363
・午前9時~午後5時(12~3月は午後4時まで)
・年末年始休
・入館無料
※ガイド案内(有料・5名以上/1週間前までに予約)

旧木村酒造場 EN
・079-674-0501
・朝来市和田山町竹田字上町西側363
・カフェ:午前11時~午後9時
・レストラン:ランチ午前11時~午後2時(LO)

ディナー午後6時~午後9時(LO)
・ともに第1火曜休

2015/01/10  

鹿肉料理【しかにくりょうり】

 

鹿肉料理【しかにくりょうり】
鹿肉定食
鹿肉定食
(道の駅あさご)

鹿肉丼
鹿肉丼
(道の駅フレッシュあさご)

●鉄分も多く、ヘルシーな健康食材
野生動物(シカ・イノシシ)による農業被害を軽減するため、朝来市では鹿肉を使ったジビエ料理の普及に努めています。近年、鹿肉は健康食材として見直されており、人気を集めています。他の肉に比べて、低カロリーで高タンパク、鉄分も豊富なので、女性や健康志向の人にはとっておきの食材です。
朝来市では道の駅あさごで「鹿肉定食」、道の駅フレッシュあさごで「鹿肉丼」「鹿肉カレー」を提供しています。

・道の駅あさご 079- 678-0808
・道の駅フレッシュあさご 079- 670-4120

生野鉱山及び鉱山町の文化的景観 【いくのこうざんおよびこうざんまちのぶんかてきけいかん】

 

生野鉱山及び鉱山町の文化的景観
【いくのこうざんおよびこうざんまちのぶんかてきけいかん】
八鹿駅舎
史跡生野銀山

八鹿駅舎
トロッコの軌道跡

八鹿駅舎
旧生野鉱山職員宿舎

●現役の鉱業都市で全国初の国重要文化的景観に選定

開坑は大同2年(807)と伝わり、古くから鉱山開発が進められた生野鉱山周辺は、鉱山町独特の景観が広がる全国でも貴重なまち並みが残る場所です。本格的な鉱山開発が進められた中世から近世にかけて、日本有数の銀山として栄え、「露天掘り跡」や「間歩」(江戸時代の坑道)といった採掘跡の他、市川河床には当時の選鉱場所であった「汰(ゆ)り池」跡などが残っています。
明治に入ると、日本初の官営鉱山として近代化が図られ、多くの御雇外国人が居留するなどモダンな建物も造られました。
市街地の鉱山町には江戸時代の地役人、郷宿(ごうやど)などの町屋が残る他、明治政府の役人の住居である鉱山官舎、トロッコの軌道跡などがあり、和洋が混在するの独特の景観が広がっています。
また、鉱石を製錬する際にできたカスをブロック状に固めた「カラミ石」が、民家の塀や土台、擁壁など至る所に用いられ鉱山町独特の景観を形成しています。
こうした日本でも貴重で珍しい景観が評価され、平成26年3月18日、文化庁による国の重要文化的景観に選定されました。兵庫県では初めて、現役の鉱業都市として選定されるのも全国初となります。

 

 

2014/12/17  

楽音寺・ヒメハナ公園【がくおんじ・ひめはなこうえん】

 

楽音寺・ヒメハナ公園【がくおんじ・ひめはなこうえん】

楽音寺
ヒメハナ公園

●関連情報
ヒメハナ公園

●人々の「交流」と自然との「共生」をテーマに
県指定天然記念物ウツギノヒメハナバチの群生地として有名な楽音寺に隣接。 ふるさと創生事業で建設された総合公園で、人々の「交流」と自然との「共生」をテーマに、多目的室などを備えたウツギの館や和風レストラン、公園のシンボル、ヒメハナ橋などが整備されています。春は桜が美しく、夏は水遊び場や遊具が設置してあるこども広場が子どもたちに人気。ターザンロープや全長170mのローラースライダーもスリル満点です。県下の各市町の木を集めた兵庫の森もあり、家族でゆったりと過ごすことができます。
ウツギノヒメハナバチ群生は5月下旬~6月中旬、楽音寺境内にクレーターのように作られた無数の土穴から飛び出し、ウツギ(卯の花)の花粉と蜜を求めて乱舞します。初夏を告げる風物詩としても有名です。

楽音寺
・079-676-2340
・兵庫県朝来市山東町楽音寺

ヒメハナ公園
・079-676-4587
・兵庫県朝来市山東町楽音寺
・午前9時~午後5時
・月曜定休、年末年始

2014/12/05  

地がため地蔵【ぢがためじぞう】

 

地がため地蔵【ぢがためじぞう】
地がため地蔵
地がため地蔵
柴の地がため地蔵
(朝来市)
・朝来市山東町柴
朝来市山東町側から遠阪峠を登る国道427号線から柴地区に入って奥に進むと山際にある地がため地蔵。但馬地蔵巡礼六十六ケ所の40番目の札所となっています。

 

但馬の開拓時に祈願「地がため地蔵」
六十六地蔵を巡る、但馬の遍路道

但馬地方と丹波地方の境となる遠阪峠。朝来市山東町側の登り口付近に、「地がため地蔵」と呼ばれるお地蔵さんを祀った小さな祠があります。
昔、但馬の地は泥海で人々の生活は苦しく、大変難儀をしていました。そこで、天日槍命をはじめとする但馬五社(絹巻神社・出石神社・小田井神社・養父神社・粟鹿神社)の神々が集まり、力を合わせて瀬戸の津居山を切りひらき、その泥水を日本海に流し出して但馬の平野を開拓しました。
しかし泥がなかなか乾かない但馬の土地を見て、もっと住みよい土地にしようと思われた神々。見国岳といわれる粟鹿山の頂上に集まり、乾ききらない但馬の土地を眺め、大きな梵字を書き、その要所の六十六ヶ所に地がため地蔵としてお地蔵さんを祀りました。
そのおかげで但馬の土地は乾き、今のように大きな盆地を中心にした豊かな但馬国が生まれたといいます。
但馬地蔵巡礼六十六ヶ所とは、全国六十六ケ国の但馬版として整備された巡礼道で、総道程約175キロメートルもあります。心を込めて巡れば全国をまわるだけの功徳が得られるとされています。
但馬全域にわたって地蔵菩薩を示す「訶」の梵字をかたどった順路になっており、その一番手前にあるのが、柴地区の地がため地蔵。このお地蔵さんは、但馬地蔵巡礼六十六ヶ所の40番目の札所になっています。そのご詠歌に「柴原をわけゆく我ものちの世は頼む地蔵の姿おがむよ」とうたわれています。

2014/08/16  

黒田官兵衛・豊臣秀吉ゆかりの地めぐり【くろだかんべい・とよとみひでよしゆかりのちめぐり】

 

黒田官兵衛・豊臣秀吉ゆかりの地めぐり
【くろだかんべい・とよとみひでよしゆかりのちめぐり】

史跡生野銀山
竹田城跡
(写真提供:吉田利栄)


八木城跡


出石城跡


出石皿そば


豊岡陣屋跡
(豊岡図書館)


カバンストリート
カバンステーション


御殿山公園
(村岡藩陣屋跡)


法雲寺・山名蔵


城山園地(芦屋城址)

●関連情報
2014年大河ドラマ

●NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』
豊臣秀吉の軍師として、天下取りを支えた戦国武将・黒田官兵衛。織田信長より中国攻めの総大将に任命された秀吉にとって、中国の雄・毛利氏と対峙する上で、但馬・播磨の諸将を抑えることは非常に重要なことでした。秀吉は2度但馬攻めを行い、その際には官兵衛も活躍したとされます。その後、但馬を治めた秀吉は、出石城に前野氏、豊岡城に宮部氏、竹田城に赤松氏、八木城に別所氏といった信任の厚い家臣を配置しました。現在もこれらの4城には城跡とともに城下町の風情が残っています。秀吉を助けた天才軍師「黒田官兵衛」
 天文15年(1546)、姫路城で黒田職隆の嫡男として生まれた黒田官兵衛。父・職隆は播磨国で力を持っていた御着城主・小寺政職の家老として仕え、官兵衛も16歳の時に政職の小性として出仕しました。若くして信任を得て、後に家督と家老職を継ぎ、姫路城代として小寺氏を支えました。
天正3年(1575)、織田方につくか、毛利方につくかで悩んだ政職に対して、織田につくよう説得。岐阜城で織田信長に会うと、中国攻めを進言しました。この際に秀吉と運命の出会いを果たし、鳥取城の兵糧攻めや備中高松城の水攻めなど、中国の雄・毛利勢との戦いで数々の功績を挙げました。
二人の運命を変えたのは、明智光秀による「本能寺の変」。主君・信長が討たれたことに泣き叫ぶ秀吉に対し、「御運が開けましたな」と言って、すぐに光秀を討って天下を取ることを進言したと言われています。
中国大返しを指揮し、山崎の戦いで見事、光秀を打ち破った秀吉と官兵衛。官兵衛はその後も側近として仕え、秀吉の天下統一に大きく貢献しました。

●官兵衛・秀吉ゆかりの地

竹田城跡・史跡生野銀山【朝来市】
 天空の城として有名な竹田城跡。大河ドラマ『軍師官兵衛』のオープニングタイトルバック、第一話にも登場し、ロケが行われました。竹田城下町には古民家を改装したカフェやレストランもあり、まち歩きに最適です。
天正5年(1577)の竹田城の戦いでは官兵衛も城攻めに加わったとされています。特に竹田城主が管轄してきた生野銀山は財源を確保する上で重要な場所で、この銀山確保を最初に進言したのは官兵衛であると言われています。史跡生野銀山は現在、観光坑道として一般公開されており、明治以降の近代的な坑道と江戸時代以前の手掘りの跡を同時に見学することができます。

八木城跡【養父市】
 但馬の代表的な山城遺構で、今も石垣・曲輪などの城跡が残っています。山名四天王の1人・八木氏が代々城主を務め、秀吉による但馬攻めによって落城しました。その後は秀吉の家臣である別所氏が治めました。
また、旧城下町には元々旅館だった建物を改装した「八木城交流館」があり、八木城について地元の人と語り合えます。

出石城跡と城下町出石【豊岡市】
 但馬守護・山名氏の本拠であり、秀吉による但馬攻めによって山城であった有子山城は落城しました。その後、弟の秀長が城主になるなど、但馬を治める重要拠点とされました。江戸時代に入ると、小出氏が治め、不便である山城は廃され、ふもとに出石城が築かれました。現在は城郭を残すのみとなっており、春は桜、秋には紅葉のスポットとしてシーズンには観光客で賑わいます。
また、江戸時代、5万8千石の城下町として栄えた町は但馬の小京都と言われ、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。町内には40以上のそば店があり、5枚の小皿に盛られた「出石皿そば」が名物となっています。

豊岡城址(神武山公園)と城下町【豊岡市】
 豊岡市街地の中央に位置する桜の名所、神武山公園。ここはかつての豊岡城の本丸跡であり、山頂からは市街地が一望できます。官兵衛とともに秀吉を支えた有力家臣・宮部継潤(善祥坊)が治め、この際に「豊岡」と改名されました。善政をしいたとされ、市内の御霊神社は継潤を祀っています。
武家屋敷があった京町には古民家が残り、大石内蔵助の妻・りくは、豊岡藩の家老・石束家の出身で、生家跡の脇に生誕碑が建立されています。近くの宵田通りは「カバンストリート」と呼ばれ、地場産品であるカバンを販売するお店があります。

村岡藩陣屋跡(御殿山公園)と城下町【香美町】
 七美五郷の中心地として栄えた香美町村岡区。江戸時代、村岡を治めた山名氏の初代・豊国は名門山名氏の末裔であり、晩年は秀吉の御伽衆(相談役)を務めました。陣屋跡である「御殿山公園」は緑のきれいな散策コースとして整備され、桜・紅葉のスポットです。周辺には城主の妻が生活した奥方部屋や歴代藩主の墓所が残っています。城下町にある「法雲寺」は山名氏の菩提寺であり、境内の史料館「山名蔵(有料)」には、山名氏ゆかりの武具や書画などを展示しています。

芦屋城址(城山園地)【新温泉町】
 官兵衛が活躍した鳥取城攻めの際に敵対した「塩治周防守」の居城であったのがこの「芦屋城」です。別名を「亀ヶ城」と呼び、日本海を眼前に断崖絶壁に囲まれた城は、天然の要害となっています。現在は城山園地として日本海が一望できる公園として整備されています。桜の名所としても名高い場所で、ここから見渡す景色は昼間はもちろんのこと、夕方は日本海に沈む夕日が格別。恋人の聖地にも選定されていて、デートスポットとなっています。


●散策モデルコース

●官兵衛・秀吉ゆかりの地マップ

 

2014/08/11  

平家伝承ゆかりの地【へいけでんしょうゆかりのち】

 

平家伝承ゆかりの地【へいけでんしょうゆかりのち】

百手の儀式(御崎)
平家蕪(御崎)
白山神社(気比)
弁天公園(城崎温泉)


田久日の供養塔
田久日地区


三尾大島(三尾)
八柱神社(三尾)


姫ケ淵(横行)
横行渓谷の入り口にある湧き水(横行)


黒川ダム(黒川)
屏風神社(黒川)

●関連情報
香美町平家の落人伝説


●但馬に伝わる平家の伝承をたどる

香美町香住区余部(御崎)
 但馬の中でも色濃く平家の伝承を伝える香美町の御崎地区。壇ノ浦の戦いに敗れた、平清盛の異母弟である門脇宰相教盛を大将とする7人がこの地にたどり着いたとされます。山中から立ち上る一条の炊煙をたよりに崖をよじ登り、そこで出会った高野聖に土着を勧められた一行が、この地に身を置いたというのが村の始まり。毎年1月28日には、地区内の平内神社で、平家再興を願う神事「百手の儀式」が行われます。門脇、伊賀、矢引の武士に扮した3人の少年が、的に目がけて101本の矢を射ます。
平内神社の脇には平教盛(門脇宰相)の供養碑が佇んでいます。また、息子の嫁である小宰相の局と孫の道家の供養塔もあります。漂着した平家一行の家柄は、門脇家・伊賀家・矢引家と、今でも代々御崎地区に伝わっています。
また、春先に集落一面を黄色に染める蕪の花も、平家の伝承が残っています。この蕪は「平家蕪」と呼ばれ、なぜか御崎地区だけに咲き誇ります。伝承では食糧に窮した門脇宰相の一族が、神に祈願をしたところ、この蕪に恵まれるようになったと伝わります。地元では主に葉と茎の部分を漬物にして食します。日本海と黄色の花びらが相まって絶好の写真スポットであり、シーズンはカメラマンで賑わいます。豊岡市気比・城崎温泉
 遠浅の砂浜が続く豊岡市の気比の浜。夏は海水浴、冬は対岸に位置する津居山港で揚がる「松葉がに」を目当てにたくさんの観光客で賑わいます。この風光明媚な里は、平家の侍大将であった平盛嗣が源氏の追っ手から身を隠したと伝わる場所。『平家物語』では越中次郎兵衛の通称で知られ、豪勇を讃えられる名将です。平家の家臣として、源氏との幾多の戦いに参戦しました。
しかし、壇ノ浦の戦いで敗れた後、この気比の地に逃れてきたといいます。この地を治めていた宮代将監(気比)道弘の家に、馬飼の下男として住むこととなりました。その後、道弘の娘である絹巻姫と結婚。平穏な日々を暮らしていた盛嗣ですが、やがて源氏の追っ手に見つかり、鎌倉にいる源頼朝の元へ護送されることになりました。盛嗣は頼朝の前でも屈せず堂々と自説を述べ、気骨のある平家武者として最後を遂げたといいます。地元の白山神社には、盛嗣の死を嘆いた絹巻姫が建立したと伝わる供養塔が残っています。
また、名湯「城崎温泉」に中心にある弁天公園にも供養塔があり、盛嗣も戦いの傷を癒すため、湯治に訪れたのかもしれません。

豊岡市竹野町田久日
 豊岡市竹野町田久日はかつて陸の孤島と呼ばれ、昭和40年に但馬海岸道路が開通するまで、船で移動するか、海岸沿いの険しい山道をつたわないと訪れることができない場所でした。平家伝承が残る海辺の村として、隣村の宇日地区ともに知られています。
平家の侍大将である「藤原景清(悪七兵衛)」と、「平盛嗣(越中次郎兵衛)」が但馬で最初に落ち延びた場所といい伝えられています。『平家物語』ではともに、豪勇として描かれている二人。地区内の高台にある公民館の脇には、その功績を讃える供養塔(碑)が残されています。村はずれには「舟隠し岩」や、武具や兵器を隠したといわれる石窟場所もあります。
また、大正の始めまで、同じ平家の里である香美町御崎地区とは、大晦日にのろしを上げあって互いの無事を確かめ合っていたともいいます。

新温泉町三尾
 眼前には三尾大島が優雅に浮かぶ新温泉町三尾地区。香美町の御崎地区と林道で結ばれ、平家の隠れ里ともいわれています。集落のシンボルである「三尾大島」は、周囲が約800メートルもある小島。頂上付近には厳島神社が祀られていることから、先祖は平家と関係があったのではないかと推測されています。そのことを示すかのように、氏神である八柱神社の例祭には、平家の旗印でもある赤いのぼり旗を掲げます。
「御火浦」というどことなくロマンチックな地名。名前の由来は、その昔、神功皇后が朝鮮半島へ出兵した際の出来事が始まりといわれています。三尾の日和山で漁師が焚いたかがり火が見えて、難を逃れた皇后は、そのお礼として「御火浦」という名を授けたとされます。その後度々、大火に見舞われたため、元の「三尾浦」に戻ったと伝わります。

養父市大屋町横行
 養父市大屋町栗ノ下から氷ノ山に登るコースにある横行渓谷はヤマメの泳ぐ美しい谷です。10~11月頃の秋には、ブナ原生林の紅葉が美しく、周辺の山々が紅や黄色に色づきます。この美しい渓谷には、ある平家一門の姫の悲しい物語が伝承されています。
由緒ある平家の姫とその家臣一行は、播磨の国から峠を越えて渓谷沿いを逃れている道中、この横行渓谷に辿り着きました。岩盤の丘に「平家ケ城」を築き、源氏の追っ手から身を隠します。平家ケ城から約1キロほど下った場所に、「見手ケ城」があります。ここに見張りをおき、旗を立てていました。その旗が倒れると敵の源氏が攻めてきた合図。しかし、台風のために旗が倒れ、城にいたお姫様は、敵に攻められたと思い、城の下を流れる渓谷に身を投げたといいます。この場所は「姫ケ淵」と呼ばれ、お姫様の悲話を今に伝えています。
生き残った6人の家臣は平家の家名を後世に伝えるため、横行地区に住んだといわれ、集落では、その場所を「六軒屋敷」と呼んでいます。

朝来市生野町黒川
 瀬戸内海に注ぐ市川の源流、朝来市生野町黒川。国道429号沿いを流れる源流部は「黒川渓谷」と呼ばれ、秋は紅葉の名所です。大きく屈曲した川筋は奇岩が多く、独特の渓谷美をみせます。
黒川には平家の落人伝承が伝わる地名が残っています。市道・長野線沿いにある「ホソビラの平家塚」は、かつて平家の武者が住みついたが、流行病により没落したと伝わります。塚のそばにある榎の根元からは、錆びた刀が大量に出土しました。他にも直谷渓谷の奥には「平家墓」「平家の屋敷跡」といわれる場所もあり、屋敷跡に黄金の鶏を埋めたという伝承も残っています。
平家塚から国道を東へ進むと、屏風のようにそり立つ巨岩が見えます。その昔、この地に疫病が流行しましたが、ここから上流だけは被害がなかったといいます。以来、御神体として祀られています。ここからさらに奥に進めば、黒川の本村に到着。高さ98メートルの黒川ダムや美人湯で知られる黒川温泉があります。

表米神社の相撲桟敷【ひょうまいじんじゃのすもうざしき】

 

表米神社の相撲桟敷【ひょうまいじんじゃのすもうざしき】

表米神社の相撲桟敷

・朝来市和田山町竹田
・県指定文化財

●半円形に六段の珍しい石積段型桟敷
竹田城跡のふもとにある表米神社。格技を好んだと言われる表米宿弥命を祀り、境内には相撲桟敷が設けられています。
半円形に六段の石積段型桟敷は、全国でも非常に珍しく、県の文化財に指定されています。現代でいうところの野外観覧席で、江戸末期と明治期の座席割図が各1枚残っていることから、村の行事に利用されていました。角正面には舞台もあり、歌舞伎の見物などに使われたとも考えられます。