2013/05/29  

轟の太鼓踊【とどろきのたいこおどり】

 

轟の太鼓踊【とどろきのたいこおどり】
轟の太鼓踊
・県指定文化財
・豊岡市竹野町轟

 

●蓮華寺で行われる盆の施餓鬼供養の仏事
蓮華寺で行われる盆の施餓鬼供養の仏事として踊られる轟の「太鼓踊り」。
特徴はその素朴さにあるといわれています。
同じ系統に属する「ざんざか・ざんざこ踊り」は衣裳や踊りに工夫を凝らすのに対し、
「太鼓踊り」には派手さもなく、衣裳も白浴衣のみです。踊りの構成は「ザンザンザカザット」の囃子込み太鼓と唄の部分が交互に演じられます。
その成立や起源についてははっきりと分かっておらず、締太鼓に江戸時代後期の年号が記されていることから、少なくともこの頃から踊っていたことが分かっています。昭和34年頃を最後に一時途絶えましたが、平成4年、約30年ぶりに地元有志によって復活しました。

2013/05/28  

法花寺万歳【ほっけいじまんざい】

 

法花寺万歳【ほっけいじまんざい】
法花寺万歳
法花寺万歳
・県指定文化財

■法花寺万歳保存会
(豊岡市法花寺)
TEL.0796-22-3778

■豊岡市教育委員会
TEL.0796-23-1111

●今の漫才の起源といわれる県下唯一の門付け万歳
「万歳」とは、正月に家々の座敷や門前で祝いを述べる、祝福芸で、千秋(せんず)万歳ともいいます。また、今日の漫才の起源ともいわれています。
豊岡市法花寺の万歳は、江戸時代後期に京都へ出奉公していた村民の1人が習い覚えて帰郷し、農閑期の出稼ぎとして門付けをしたのがはじまりと伝えられています。かつては、丹後・丹波地方にまで門付けにまわったこともあるようです。
第2次世界大戦中に一時中断していましたが、1949年(昭和24)に復活。県下で唯一、門付け芸を伝承している万歳として貴重で、2004年には県の無形民俗文化財に指定されました。

●軽妙で巧みな掛け合いが笑いを誘う
 演者は烏帽子(えぼし)に素襖(すおう)を着て扇子を持った「太夫(たゆう:主人公)」と、大黒頭巾に裁着袴(たっつけばかま)に鼓を持つ「才若(さいわか:助演者)」の2人。それに三味線弾きの伴奏と合いの手が加わります。太夫と才若二人の役者が、巧みな掛けあいをみせた後、くだけた余興を演じます。七五調の文句を述べ、踊りながら掛け合いをします。今の漫才でいうと、才若がボケで、太夫がツッコミです。本来は2時間もかかる芸ですが、現在は15分ほどに短縮して演じられています。

2012/02/11  

農村歌舞伎【のうそんかぶき】

 

農村歌舞伎【のうそんかぶき】
農村歌舞伎舞台
農村歌舞伎舞台
(養父市関宮) 民家型入母屋造りの茅葺き。農村歌舞伎舞台で大切な7つの機構を全部備えています。
・国指定重要文化財

■葛畑コミュニティセンター
(養父市葛畑)
・見学希望、問い合わせ
養父市教育委員会
TEL.079-664-1628

●農村歌舞伎のおこり
葛畑(かずらはた)農村歌舞伎舞台は江戸末期、安政5年(1858)頃、荒御霊神社境内に建立されました。藤田甚左衛門らが葛畑座を結成し、農閑期に歌舞伎を上演したのが始まりといわれています。娯楽が少なかった農村では唯一、最大の楽しみで、田植えや蚕(かいこ)飼いが終わる閑期や雨乞いの祈願に、また秋の実りを祝う収穫祭や村祭りに、村人達は自らの手による地狂言を演じたり、あるいは旅役者の一座を招いて村芝居をおこなってきました。 元禄年間、歌舞伎芝居は農村の娯楽として盛んでした。七美郡誌に「百姓の鎧着て出る祭かな」という句も残っています。

●農村歌舞伎舞台の構造
 構造は民家型入母屋造りの茅葺き、内部は地下で舞台をまわす独楽廻式で、舞台の背景を天井から吊るし上げ下げするブドウ棚や、スッポンといわれ、役者を奈落から舞台に上げるせり上がりロ、田楽がえしといわれる背景の移動装置、がんどう返し、二重合など、農村歌舞伎舞台で大切な7つの機構を全部備えています。
明治25年(1892)に本格的な歌舞伎舞台にするため、大阪の舞台建築技術を習い村人総出で修復しました。現存の舞台は昭和51年(1976)に全面改修され、昭和60年(1985)に屋根の葺き替えをおこなっています。
衣裳や小道具も江戸時代から使用されてきたものが、葛畑コミュニティセンターに保存されています。

葛畑土人形【かずらはたつちにんぎょう】

 

葛畑土人形【かずらはたつちにんぎょう】
内裏雛
葛畑土人形 (養父市)

素朴な風合いの土人形。子守をする娘や昔話に登場する桃太郎、天神様など、素朴な風合いの土人形が数多く作られました。

葛畑土人形
■葛畑コミュニティセンター
(養父市葛畑)

・見学希望、問い合わせ
養父市立関宮公民館

TEL.079-667-2331

素朴な風合いの土人形
葛畑土びなは、前田家の初代、三良右衛門(通称友助)によって、江戸時代末期、天保年間に作りはじめらたといわれています。もとは鍋屋から製糸業、瓦の製造業をおこなっていましたが、冬期の副業として、生糸の商用で京都へ行った時、伏見で買い求めた土人形とその見聞した技法によって土びな作りを始めました。もともと三良右衛門は、他人の技法をすぐに習得する器用さを持っていたといわれています。当初、川原場に住み小路頃の山腹に窯を築いていましたが、付近の土があまり良くないので、葛畑の土を利用し、内裏雛、恵比須、大黒天などを作っていました。
2代目友助(通称俊三郎)は、原料の土を求めて明治25年(1892)葛畑に移り住み家業を継ぎました。
3代目太蔵は鳥取県で土人形、仏像、仏具、仏像の製作し技術を磨き、帰郷。鋭意、雛人形の製作に没頭し、明治末期から昭和初期にかけて、葛畑土びなの最盛期を形成しました。葛畑土びなの贈答が流行し、女子の誕生や嫁入りには欠かせないものとなり、従業員10数名を雇用、数名の売り子と村岡、湯村、関宮、大屋などの小売店を通じて美方郡、養父郡一帯へ販売していました。
4代目俊夫氏は、若くして家業を継ぎ、兵役中の4年間は休業しましたが、戦後復活させ、伝来ものの上に、さらに創意工夫を活かして新しい感覚で取り組み、雛人形はもちろん武者人形、置物、玩具、十二支など、百種類を越す作品を発表しました。
しかし、昭和63年(1988)に俊夫氏がなくなり、現在では葛畑コミュニティセンターに作品を残すのみとなっています。

出石焼【いずしやき】

 

出石焼【いずしやき】
作業

出石焼

出石焼
(豊岡市出石町)

・国の伝統工芸品

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

じばさんTAJIMA

●透きとおるような白磁、出石焼の変遷

出石焼の歴史は、江戸時代半ば、天明4年(1784)に、陶器を焼いたのがはじまりとされています。その後、優良な石磁の鉱脈が発見され、染め付け磁器を製作するようになりました。

天保年間に最盛期を迎え、明治初期に衰退しましたが、明治9年(1876)、桜井勉らが旧士族の失職を救済するため、有田の陶匠・柴田善平を招いて盈進社を設立し、同社からパリや東京の博覧会に出品して一躍出石白磁の名声を高めました。

明治32年(1899)から指導に当たった友田九渓は出石焼きの品質改良に業績を残し、セントルイス万国博覧会で金賞を獲得しました。昭和に入って出石に県立窯業試験場が設立され、出石焼の品質はますます向上しました。

さらに、戦後、出石焼の作品が日展の特選に選ばれるなど作家活動が盛んになり、昭和56年(1981)には、国の伝統工芸品に指定されました。

2011/11/21  

北前船【きたまえせん】

北前船【きたまえせん】
北前船
復元された北前船
(豊岡市竹野町)
竹野町「北前館」には、復元した天神丸をはじめ、船箪笥(ふなだんす)、磁石など、北前船に関する資料を展示しています。

北前館
・豊岡市竹野町竹野
・TEL.0796-47-2020
・木曜定休/9~17時

●但馬での北前船のおこりと歴史
江戸中期から明治末期にかけて、大阪から瀬戸内海を経て、日本海から北海道まで、西廻り航路で不定期に往復した商船を上方では「北前船」と呼んでいました。港に寄っては、米や塩、油、鉄などその土地の産物を買い集め次の港で売っていました。但馬海岸の港は、それらの船にとって嵐の時の避難、風のない時の風待ちなどのための大事な寄港地となりました。
そこで、但馬の人たちも北前船をしたて、北海道や下関・大坂まで広く廻漕する廻漕(かいそう)業が盛んにおこなわれるようになりました。その船数は、弘化2年(1845)の記録によると170艘あり、中でも竹野村(竹野町)が56艘と最も多かったと記されています。また、浜坂町の市原惣兵衛が興した縫い針「みすや針」は、こうした海運により販路を確立し、生産は日本一となりました。
船主の家などに残る船箪笥(ふなだんす)や船道具、竹野町の鷹野神社をはじめ各地に、航海の安全を祈願して奉納された船絵馬など、当時の廻船の構造などを知る貴重な資料が残されています。また、北前船は商いの他にも、各地の文化や風俗なども運び寄港地の人々との交流も深めました。
しかし、明治期になると交通・運輸が発達し、とりわけ鉄道が普及したことから、和船による廻漕業は哀えていきました。

2011/11/21  

但馬牛【たじまうし】

 

但馬牛【たじまうし】
放牧
庭先

但馬牛を飼う但馬の人々は、牛を家族の一員として一つ屋根の下で共に寝起きして、雪深いきびしい風土に生き、温和で姿美しい但馬牛を大切に育ててきました。

■但馬牛博物館
・新温泉町丹土1033

・TEL.0796-92-1005

・午前9時~午後5時
・木曜定休
(休日と重なった

場合は次の平日)

・入館料/無料

●関連情報
新温泉町役場
但馬牛博物館

●但馬牛とは
農耕用の機械が導入されるまで、農家は農業の働き手のひとつとして、各家庭に1頭は牛を飼育していました。家族の住む母家に同居させ、我が子同様に愛情を注ぎ、大事に育てたと言います。起伏に富んだガタガタ道は、牛の足腰を丈夫にし、但馬特有の夏の湿気と冬の寒気がよい毛並みをつくりました。子牛は競り市で売られ、農家の大事な収入源でした。優良牛の育成を目指して、よい特性を備えている牛を選び、何世代もの近親繁殖を繰り返す間に、その優れた特質が固定され、血統(蔓牛)をつくってきました。現在も兵庫県外の優良牛との繁殖はせず、純血を守っています。

●但馬牛を創った男「前田周助」
現在の但馬牛の歴史を語る上で、なくてはならない人がいます。香美町小代区に生まれた前田周助(1797~1872)です。牛の取引と小代牛の宣伝のために、わざわざ大阪の市場まで牛を連れて出かけたという逸話が残る人物。彼の人生はまさに但馬牛とともに生きたと言えます。周助は「蔓(つる)牛」の開発に一生をかけました。「蔓」とは、他地域との交流を避けた「閉鎖育種」の方法で生み出された、発育・資質・繁殖性の優秀な牛の血統のことを言い、その系統牛を「蔓牛」と呼びます。但馬牛の優れた特質は、長年に渡り、他との交配をさけ、改良に改良を重ねて受け継がれた優良な血統から生み出されました。

「蔓牛」を創り出すことで、安定的に優秀な子牛が生産することができます。周助は系統牛になりそうな牛がいると聞けば、東へ西へと駆け回りました。そのためには私財を投げ打って、牛を買い求める毎日。そしてついに100年に一度の雌牛を手に入れました。飼料の選定から一切の手入れ、特に繁殖には多年の研究と経験の全てを注ぎました。こうして周助の生み出した牛は「周助蔓」と言われ、現在の但馬牛の代表的な蔓のひとつ「あつた蔓」の素となりました。

●伝説の但馬牛「田尻号」
昭和14年に香美町小代区に生まれた伝説の雄牛「田尻号」。全国和牛登録協会の資料によると、全国の黒毛和種繁殖雌牛の99.9%が、「田尻号」の血統に繋がることが分かりました。名だたる高級黒毛和牛の母牛の大部分が、この「田尻号」をルーツに持っています。明治に入り西洋文化の影響で肉食が盛んになると、日本の小型の牛を改良するため、体格のよい外国の牛と交配させることが進められました。但馬でも例外ではなく、外国牛との交配が行われましたが、肉質の低下を招き、優良な血統牛を失いかねない危機におちいります。

第二次世界大戦後、但馬牛の純牛種を守ろうと、新しい血統作りが始まりました。ここで注目されたのが「周助蔓」。険しい山々と深い谷あいにあり、隣村との行き来が困難な小代には、外国牛との交配を免れた但馬牛が奇跡的に生き残っていました。中でも田尻松蔵が丹精込めて育て上げた「田尻号」は、生まれて半年で美方郡の種オス牛候補として認められた名牛。特に遺伝力の強さは他の雄牛の中でも群を抜いていたと言います。

但馬の山間部では家の玄関の横に牛小屋があり、昔から家族同様に牛が育てられてきました。松蔵も「田尻号」を我が子のように可愛がり、毎日運動と手入れを欠かさなかったそうです。そのおかげでほとんど病気をすることもなく、昭和29年まで種牛として活躍しました。昭和30年には長年の功績を讃えられ、黄綬褒賞を受賞しています。


●但馬牛の特徴

1.資質が抜群によい
毛味、色味、骨味が良く皮は薄く、弾力ゆとりがあり、
品位に富み体のしまりが良い。
2.遺伝力が強い
全国の和牛改良に広く活用されている。
3.肉質、肉の歩留りがよい
肉の味がよく、骨が細く皮下脂肪が少ない。
4.長命連産で粗飼料の利用性が良い
長命連産。山野草を好み、古来より
「但馬牛は、山でつくり、草で飼う」といわれています。

2011/06/28  

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】

 

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】
大杉
大杉ざんざこ踊
(養父市)
・養父市大屋町大杉二宮神社
8月16日
・国指定無形民俗文化財
若杉
若杉ざんざか踊
(養父市)
・養父市大屋町若杉三宮神社
8月16日
・県指定無形民俗文化財

●関連情報
養父市役所

 

大杉ざんざこ踊
・養父市大屋町/大杉二宮神社/8月16日/国指定無形民俗文化財

大杉ざんざこ踊は鬼踊りとも呼ばれ、かけ声の中、大シデを背負った4人の中踊りを大勢の踊り子が取り囲み、古式にのっとり踊られます。発祥は明らかではありませんが、一説によると、昔、カガミという流行病が村を襲い、これを嘆いた庄屋が慶安2年(1649)に伊勢に参拝した帰途、奈良にてこの踊りを習い覚え、旧暦7月16日、氏神に奉納したところ、村が次第に平穏になったと伝えられています。

若杉ざんざか踊
・養父市大屋町/若杉三社神社/8月16日/県指定無形民俗文化財

大杉ざんざこに対して若杉ざんざか踊は姫踊りという別名が表すように、優雅でかつ古式ゆかしい踊りです。村に残る文書の中に、その昔、大和の修業者が一人やって来て、村で流行していた大難の病気を平癒するため、氏神様に踊りを奉納したことから始まったとされています。

九鹿ざんざか踊り
(養父市)
・養父市八鹿町九鹿日枝神社
10月第3日曜日
・県指定無形民俗文化財

 

九鹿ざんざか踊り
・養父市八鹿町/九鹿日枝神社/10月第3日曜日/県指定無形民俗文化財

神功皇后の三韓征伐の凱旋を祝って踊ったのが始まりと伝えられていますが、由来を明らかにするものがありません。踊りの動作、歌詞、服装などに室町時代の色が濃く、当時の修験者らが疫病退散、五穀豊穣を祈願して、奉納したのが起源と推測されています。
4~5人からなる、かみしも姿の唄い手の踊り唄と、「サンザカザンザカ ザンザカザットゥー」の掛け声に合わせ、紺の筒袖と股引姿の踊り手が踊ります。小中学生が角兵衛獅子の所作に似た子ども踊りで前座をつとめ、青年を中心とした8人が大人踊りを踊り、豆しぼりの手拭いで向こう鉢巻、腰に太鼓、手に木ばちなど古式にのっとたいでたちで、荘重さの中にも力強く、気迫に満ちています。


寺内
寺内ざんざか踊り
(朝来市和田山町)
・朝来市和田山町寺内山王神社
7月第3日曜日
・県指定無形民俗文化財

 

寺内ざんざか踊り
・朝来市和田山町/寺内山王神社/7月第3日曜日/県指定無形民俗文化財

五穀豊穣や子孫繁栄を願って、慶安(1648~1652)のころに始まったといわれ、以来、地元衆の皆さんによって引き継がれています。山王の遣いである猿にふんした12人の踊り手が円陣を組み、腰の太鼓を「ザンザカザットウ」の囃子(はやし)に合わせて打ち鳴らします。また、その中心では2人の踊り手が飾り付けをした高さ3メートルの「しない」と呼ばれる竹を背負い、それをからませたり地面に打ちつけたりしながら踊りを奉納します。


s
久谷ざんざか踊り
(新温泉町・旧浜坂町)
・新温泉町久谷八幡神社
9月15日
・県指定無形民俗文化財

 

久谷ざんざか踊り
・新温泉町(旧浜坂町)/久谷八幡神社/9月15日/県指定無形民俗文化財

全国各地に分布している風流太鼓のひとつで、八幡神社の祭りに、神前や家々の庭先で五穀豊穣や氏子の安全を願って踊られます。踊り手は若い中高生で、華やかな一文字笠をかぶり、腰につけた締太鼓を叩きながら踊ります。
起源は、地元に伝わる伝承や歌の歌詞から、室町時代末から江戸時代のはじめごろに確立したと考えられています。風流太鼓踊りは、手に持つ持ち物や音から西播ではチャンチャコ踊りなどとも呼ばれ、但馬や西播、丹波地方にも残っています。

2011/06/22  

別宮のお綱うち【べっくうのおつなうち】

 

別宮のお綱うち【べっくうのおつなうち】
お綱打ち
別宮のお綱うち(養父市)
・養父市別宮

1月9日

別宮のお綱うち
養父市/別宮/1月9日
150年は続いていると思われる伝統行事。早朝、地区の男たちが集まり、大きな声をかけて、太い藁(わら)をねじりながら回り、三ッ組の太さ約30cm、長さ17~18m、重さ70~80kg大綱を作ります。20数人もの男が交代しながら汗を流す大がかりなもの。できあがった綱は、お綱屋敷で上と下地区に別れ、村中で綱引きをします。7回綱引きをし、最後に上地区が勝ち、その年は豊作になるとされています。綱はその後、カンザキの岡まで運び、大きな2本のケヤキの木に飾るように結びつられます。カリマタの方からくる悪魔を鎮めるとされています。

2011/06/22  

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】

 

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】
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高速回線用 低速回線用
5.9MB 1.1MB
PLAY TIME:2分43秒
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