2014/12/10  

おりゅう柳【おりゅうやなぎ】

 

おりゅう柳【おりゅうやなぎ】
おりゅう柳
おりゅう柳
おりゅう柳
(養父市)
・養父市八鹿町国木
植えられた柳の木の後ろには直径約30m、深さ約2mほどの窪地があります。おりゅう柳は高さ120m以上もあったと伝えられています。

 

切れない動かない、不思議な伝説が残る
地名「高柳」の由来となった大柳

養父市八鹿町・県立但馬全天候運動場の東側に、1本の柳の木が植えられています。その後ろにある大きな窪地。ここには窪地いっぱいに根をはった柳の大木があったと伝えられており、「おりゅう柳」伝説の場所となっています。その大柳は「高柳」の地名の元になったとされています。
昔、高柳におりゅうという美しい女性が住んでおり、夫・子どもと共に幸せに暮らしていました。八鹿の栂山のふもとには大柳があり、おりゅうが長い髪をすくと、その柳の枝が風のない日でも音をたてて揺れていたそうです。
さて、この頃京の都では御門の病気回復祈願すのため、三十三間堂という大きな寺が建てられることになりました。そして材木に大柳が選ばれます。
村人は守り神の大柳を切りたくありませんでしたが、仕方なく切り倒し始めました。しかし次の日、驚いたことに切り口が見当たりません。再度切り始めますが、やはり次の日には切り口がなくなっていました。
そこで村人たちは寝ずの番をすることにしましたが、途中で眠ってしまいます。すると夢に老人が現れてこういいました。
「私は柳に巻き付いているかずら。柳を切りたいのなら、木くずを燃やしなさい。夜になると木の精たちが集まり、傷口をふさいでいるのだ。私も助けようとしたが邪魔者扱いされたので、悔しくて秘密を教えることにした」。
それから木くずを焼くと切り口はふさがらなくなってしまったそうです。
やっと切り倒した柳を京へ運ぼうとしますが、今度はびくとも動きません。みんなが困り果てていた時、突然男の子が大柳の上によじ登りました。すると柳はするすると動き始めます。「あれはおりゅうの子のみどり丸ではないか」と声があがりました。おりゅうは柳が切り倒されたその時刻に息を引き取っていました。結局、京へ7日かけて運ばれましたが、みどり丸が上に乗らないと柳は動かなかったそうです。おりゅうはやっぱり柳の精だったのでしょうか。
似た話に、文楽の人形芝居として有名な「三十三間堂棟木由来」があります。これは男女の恋物語の話で、全国的に広く知られています。

2014/12/10  

アメノヒボコ伝説【あめのひぼこでんせつ】

 

アメノヒボコ伝説【あめのひぼこでんせつ】

地がため地蔵
出石神社
出石神社(豊岡市)
・豊岡市出石町宮内
但馬開発の祖・アメノヒボコを祀る神社。但馬国一宮であり、「いっきゅうさん」の愛称で親しまれています。

 

但馬一宮・出石神社に祀られるアメノヒボコ
但馬を開拓したと伝わる土木の神様

昔、新羅の国の王子、アメノヒボコをのせた船が但馬の国、気比の村に流れ着きました。アメノヒボコは来日山へ登り、山すそに広がる沼地の奥に緑美しい村をみつけます。そこは出石という村でした。
出石の大村長ふとみみはアメノヒボコ一行を温かく迎え入れ、田や畑を分け与え、一緒に楽しく暮らし始めました。
ある日、雨の季節がやってきて、あたり一面泥の海となり、人も家も流されてしまいました。雨があがっても、なかなか水が引かず、村人たちは大変苦労していました。
その様子をみたアメノヒボコは、どうにかならないものかと考えます。「瀬戸の大岩を切り開いて、沼地の水を海へ流せばよいのだ」とひらめきました。
アメノヒボコはふとみみに相談し、村人たちの協力のもと、みんなが力を合わせ、谷をつくり、水をせき止め、木を切り、根を掘り起こし、土を運び、出てきた岩を割っていきました。そして、最後の大岩にとりかかりましたが、なかなか割れず嵐がやってきました。やっと岩が割れましたが、嵐のため沼は泡立ち、水がふくれ上がっています。「せきを切るぞ!」アメノヒボコの声に合わせて、せきが切られると、音を立てて沼の泥水が海へと流れ出しました。すると、大地が顔を出し人々は手をとりあって喜んだそうです。
アメノヒボコは国つくりの神様・土木の神様として出石神社に祀られています。

2014/12/10  

ネッテイ相撲【ねっていずもう】

 

ネッテイ相撲【ねっていずもう】
ネッテイ相撲
・国選択文化財
・県指定文化財
・養父市奥米地

 

●現代の相撲の原型といわれる
養父市奥米地の水谷神社で行われる「ネッテイ相撲」は、平安時代から朝廷儀式として行われていたもので、四股を踏むことで悪霊を鎮めるとされる相撲神事です。 青色の裃姿の舞い手男性二人が、木太刀で一連の所作を行ったあと、相撲が奉納されます。上半身裸になり、「ヨイ、ヨイ、ヨイ」の掛け声で四股を踏み地を固め、手を振り下ろすことにより、天地が荒ぶれるのを鎮めます。その後、お互いの首をとって三度跳び上がり、元の位置に戻れるかどうかで豊凶を占います。当地では何度も繰り返すことを「練って、練って」といい、相撲の所作で行われる何回も足踏みを繰り返すことから「ネッテイ相撲」と言われるようになったとされています。
古くから伝わるこの「ねっていすもう」は、今の相撲の原型ともされ国選択無形民俗文化財、県指定文化財に指定され、地元の人たちが大切に守り続けています。

2014/12/05  

地がため地蔵【ぢがためじぞう】

 

地がため地蔵【ぢがためじぞう】
地がため地蔵
地がため地蔵
柴の地がため地蔵
(朝来市)
・朝来市山東町柴
朝来市山東町側から遠阪峠を登る国道427号線から柴地区に入って奥に進むと山際にある地がため地蔵。但馬地蔵巡礼六十六ケ所の40番目の札所となっています。

 

但馬の開拓時に祈願「地がため地蔵」
六十六地蔵を巡る、但馬の遍路道

但馬地方と丹波地方の境となる遠阪峠。朝来市山東町側の登り口付近に、「地がため地蔵」と呼ばれるお地蔵さんを祀った小さな祠があります。
昔、但馬の地は泥海で人々の生活は苦しく、大変難儀をしていました。そこで、天日槍命をはじめとする但馬五社(絹巻神社・出石神社・小田井神社・養父神社・粟鹿神社)の神々が集まり、力を合わせて瀬戸の津居山を切りひらき、その泥水を日本海に流し出して但馬の平野を開拓しました。
しかし泥がなかなか乾かない但馬の土地を見て、もっと住みよい土地にしようと思われた神々。見国岳といわれる粟鹿山の頂上に集まり、乾ききらない但馬の土地を眺め、大きな梵字を書き、その要所の六十六ヶ所に地がため地蔵としてお地蔵さんを祀りました。
そのおかげで但馬の土地は乾き、今のように大きな盆地を中心にした豊かな但馬国が生まれたといいます。
但馬地蔵巡礼六十六ヶ所とは、全国六十六ケ国の但馬版として整備された巡礼道で、総道程約175キロメートルもあります。心を込めて巡れば全国をまわるだけの功徳が得られるとされています。
但馬全域にわたって地蔵菩薩を示す「訶」の梵字をかたどった順路になっており、その一番手前にあるのが、柴地区の地がため地蔵。このお地蔵さんは、但馬地蔵巡礼六十六ヶ所の40番目の札所になっています。そのご詠歌に「柴原をわけゆく我ものちの世は頼む地蔵の姿おがむよ」とうたわれています。

2014/12/05  

牛が峯【うしがみね】

 

牛が峯【うしがみね】
牛が峯
海上の神代杉
海上の神代杉
(新温泉町)
・新温泉町海上
海上の児嶋神社にある神代杉は2,500年前の崩落で埋まった杉とされており、実際にこの地で土砂崩れがあったのではないかと伝えられています。

 

大蛇と洪水の伝説が残る山「牛が峯」
水に因んだ地名がついた理由とは…

兵庫県と鳥取県との境になっている蒲生峠。この近くに牛が寝たような形の山「牛が峯」があります。
昔、牛が峰には大きなお寺が建っていました。ある日、「日の水」という泉まで水を汲みに行った小僧さんが行方不明になる事件が続けて起こりました。調べてみると、小僧さん達は大蛇にひと飲みにされていたことが分かり、寺は騒ぎになったそうです。
それを聞いた慈覚大師というお坊さんが、「わらで人形を作り、もぐさをつめ、線香に火をつけ、大蛇が人形をのみこんだ頃、もぐさに火がつくようにして、泉の側に立たせてみては」といい、人形を作り、泉の側に立てました。
すると、大蛇が人形をひと飲みにして逃げていきました。人々はうまくいったと喜びましたが、地震のように山が鳴り崩れ落ち、小又川がせき止められ大きな湖になり、丘は小さな小島になってしまいました。
それから何年か経ち、七美の方から来た占いをよくあてる娘が「6月10日には大水が出るから、丘の上に集まるように」といいだしました。人々は丘に集まるが、天気もよく大水の気配は感じられません。
丘を降りようとした時、上流の方から地鳴りが聞こえ、山崩れでできた湖の水が土手を破り、あっという間に大水が何もかも飲み尽くしてしまいました。不思議にもその後、その娘の姿を見た人はいなかったそうです。
今は小又川も狭い谷あいを曲がりくねって流れており、かつて湖があったとは想像もつきませんが、山の中なのに「海上(うみがみ)」や「児嶋(こじま)」など、水に因んだ名前の地名が多いのはこの理由からだといわれています。

2013/05/29  

轟の太鼓踊【とどろきのたいこおどり】

 

轟の太鼓踊【とどろきのたいこおどり】
轟の太鼓踊
・県指定文化財
・豊岡市竹野町轟

 

●蓮華寺で行われる盆の施餓鬼供養の仏事
蓮華寺で行われる盆の施餓鬼供養の仏事として踊られる轟の「太鼓踊り」。
特徴はその素朴さにあるといわれています。
同じ系統に属する「ざんざか・ざんざこ踊り」は衣裳や踊りに工夫を凝らすのに対し、
「太鼓踊り」には派手さもなく、衣裳も白浴衣のみです。踊りの構成は「ザンザンザカザット」の囃子込み太鼓と唄の部分が交互に演じられます。
その成立や起源についてははっきりと分かっておらず、締太鼓に江戸時代後期の年号が記されていることから、少なくともこの頃から踊っていたことが分かっています。昭和34年頃を最後に一時途絶えましたが、平成4年、約30年ぶりに地元有志によって復活しました。

2013/05/28  

法花寺万歳【ほっけいじまんざい】

 

法花寺万歳【ほっけいじまんざい】
法花寺万歳
法花寺万歳
・県指定文化財

■法花寺万歳保存会
(豊岡市法花寺)
TEL.0796-22-3778

■豊岡市教育委員会
TEL.0796-23-1111

●今の漫才の起源といわれる県下唯一の門付け万歳
「万歳」とは、正月に家々の座敷や門前で祝いを述べる、祝福芸で、千秋(せんず)万歳ともいいます。また、今日の漫才の起源ともいわれています。
豊岡市法花寺の万歳は、江戸時代後期に京都へ出奉公していた村民の1人が習い覚えて帰郷し、農閑期の出稼ぎとして門付けをしたのがはじまりと伝えられています。かつては、丹後・丹波地方にまで門付けにまわったこともあるようです。
第2次世界大戦中に一時中断していましたが、1949年(昭和24)に復活。県下で唯一、門付け芸を伝承している万歳として貴重で、2004年には県の無形民俗文化財に指定されました。

●軽妙で巧みな掛け合いが笑いを誘う
 演者は烏帽子(えぼし)に素襖(すおう)を着て扇子を持った「太夫(たゆう:主人公)」と、大黒頭巾に裁着袴(たっつけばかま)に鼓を持つ「才若(さいわか:助演者)」の2人。それに三味線弾きの伴奏と合いの手が加わります。太夫と才若二人の役者が、巧みな掛けあいをみせた後、くだけた余興を演じます。七五調の文句を述べ、踊りながら掛け合いをします。今の漫才でいうと、才若がボケで、太夫がツッコミです。本来は2時間もかかる芸ですが、現在は15分ほどに短縮して演じられています。

2012/02/11  

農村歌舞伎【のうそんかぶき】

 

農村歌舞伎【のうそんかぶき】
農村歌舞伎舞台
農村歌舞伎舞台
(養父市関宮) 民家型入母屋造りの茅葺き。農村歌舞伎舞台で大切な7つの機構を全部備えています。
・国指定重要文化財

■葛畑コミュニティセンター
(養父市葛畑)
・見学希望、問い合わせ
養父市教育委員会
TEL.079-664-1628

●農村歌舞伎のおこり
葛畑(かずらはた)農村歌舞伎舞台は江戸末期、安政5年(1858)頃、荒御霊神社境内に建立されました。藤田甚左衛門らが葛畑座を結成し、農閑期に歌舞伎を上演したのが始まりといわれています。娯楽が少なかった農村では唯一、最大の楽しみで、田植えや蚕(かいこ)飼いが終わる閑期や雨乞いの祈願に、また秋の実りを祝う収穫祭や村祭りに、村人達は自らの手による地狂言を演じたり、あるいは旅役者の一座を招いて村芝居をおこなってきました。 元禄年間、歌舞伎芝居は農村の娯楽として盛んでした。七美郡誌に「百姓の鎧着て出る祭かな」という句も残っています。

●農村歌舞伎舞台の構造
 構造は民家型入母屋造りの茅葺き、内部は地下で舞台をまわす独楽廻式で、舞台の背景を天井から吊るし上げ下げするブドウ棚や、スッポンといわれ、役者を奈落から舞台に上げるせり上がりロ、田楽がえしといわれる背景の移動装置、がんどう返し、二重合など、農村歌舞伎舞台で大切な7つの機構を全部備えています。
明治25年(1892)に本格的な歌舞伎舞台にするため、大阪の舞台建築技術を習い村人総出で修復しました。現存の舞台は昭和51年(1976)に全面改修され、昭和60年(1985)に屋根の葺き替えをおこなっています。
衣裳や小道具も江戸時代から使用されてきたものが、葛畑コミュニティセンターに保存されています。

葛畑土人形【かずらはたつちにんぎょう】

 

葛畑土人形【かずらはたつちにんぎょう】
内裏雛
葛畑土人形 (養父市)

素朴な風合いの土人形。子守をする娘や昔話に登場する桃太郎、天神様など、素朴な風合いの土人形が数多く作られました。

葛畑土人形
■葛畑コミュニティセンター
(養父市葛畑)

・見学希望、問い合わせ
養父市立関宮公民館

TEL.079-667-2331

素朴な風合いの土人形
葛畑土びなは、前田家の初代、三良右衛門(通称友助)によって、江戸時代末期、天保年間に作りはじめらたといわれています。もとは鍋屋から製糸業、瓦の製造業をおこなっていましたが、冬期の副業として、生糸の商用で京都へ行った時、伏見で買い求めた土人形とその見聞した技法によって土びな作りを始めました。もともと三良右衛門は、他人の技法をすぐに習得する器用さを持っていたといわれています。当初、川原場に住み小路頃の山腹に窯を築いていましたが、付近の土があまり良くないので、葛畑の土を利用し、内裏雛、恵比須、大黒天などを作っていました。
2代目友助(通称俊三郎)は、原料の土を求めて明治25年(1892)葛畑に移り住み家業を継ぎました。
3代目太蔵は鳥取県で土人形、仏像、仏具、仏像の製作し技術を磨き、帰郷。鋭意、雛人形の製作に没頭し、明治末期から昭和初期にかけて、葛畑土びなの最盛期を形成しました。葛畑土びなの贈答が流行し、女子の誕生や嫁入りには欠かせないものとなり、従業員10数名を雇用、数名の売り子と村岡、湯村、関宮、大屋などの小売店を通じて美方郡、養父郡一帯へ販売していました。
4代目俊夫氏は、若くして家業を継ぎ、兵役中の4年間は休業しましたが、戦後復活させ、伝来ものの上に、さらに創意工夫を活かして新しい感覚で取り組み、雛人形はもちろん武者人形、置物、玩具、十二支など、百種類を越す作品を発表しました。
しかし、昭和63年(1988)に俊夫氏がなくなり、現在では葛畑コミュニティセンターに作品を残すのみとなっています。

出石焼【いずしやき】

 

出石焼【いずしやき】
作業

出石焼

出石焼
(豊岡市出石町)

・国の伝統工芸品

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

じばさんTAJIMA

●透きとおるような白磁、出石焼の変遷

出石焼の歴史は、江戸時代半ば、天明4年(1784)に、陶器を焼いたのがはじまりとされています。その後、優良な石磁の鉱脈が発見され、染め付け磁器を製作するようになりました。

天保年間に最盛期を迎え、明治初期に衰退しましたが、明治9年(1876)、桜井勉らが旧士族の失職を救済するため、有田の陶匠・柴田善平を招いて盈進社を設立し、同社からパリや東京の博覧会に出品して一躍出石白磁の名声を高めました。

明治32年(1899)から指導に当たった友田九渓は出石焼きの品質改良に業績を残し、セントルイス万国博覧会で金賞を獲得しました。昭和に入って出石に県立窯業試験場が設立され、出石焼の品質はますます向上しました。

さらに、戦後、出石焼の作品が日展の特選に選ばれるなど作家活動が盛んになり、昭和56年(1981)には、国の伝統工芸品に指定されました。