おりゅう柳【おりゅうやなぎ】
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切れない動かない、不思議な伝説が残る 地名「高柳」の由来となった大柳 養父市八鹿町・県立但馬全天候運動場の東側に、1本の柳の木が植えられています。その後ろにある大きな窪地。ここには窪地いっぱいに根をはった柳の大木があったと伝えられており、「おりゅう柳」伝説の場所となっています。その大柳は「高柳」の地名の元になったとされています。 |
おりゅう柳【おりゅうやなぎ】
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切れない動かない、不思議な伝説が残る 地名「高柳」の由来となった大柳 養父市八鹿町・県立但馬全天候運動場の東側に、1本の柳の木が植えられています。その後ろにある大きな窪地。ここには窪地いっぱいに根をはった柳の大木があったと伝えられており、「おりゅう柳」伝説の場所となっています。その大柳は「高柳」の地名の元になったとされています。 |
アメノヒボコ伝説【あめのひぼこでんせつ】 |
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但馬一宮・出石神社に祀られるアメノヒボコ 但馬を開拓したと伝わる土木の神様 昔、新羅の国の王子、アメノヒボコをのせた船が但馬の国、気比の村に流れ着きました。アメノヒボコは来日山へ登り、山すそに広がる沼地の奥に緑美しい村をみつけます。そこは出石という村でした。 |
ネッテイ相撲【ねっていずもう】
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●現代の相撲の原型といわれる 養父市奥米地の水谷神社で行われる「ネッテイ相撲」は、平安時代から朝廷儀式として行われていたもので、四股を踏むことで悪霊を鎮めるとされる相撲神事です。 青色の裃姿の舞い手男性二人が、木太刀で一連の所作を行ったあと、相撲が奉納されます。上半身裸になり、「ヨイ、ヨイ、ヨイ」の掛け声で四股を踏み地を固め、手を振り下ろすことにより、天地が荒ぶれるのを鎮めます。その後、お互いの首をとって三度跳び上がり、元の位置に戻れるかどうかで豊凶を占います。当地では何度も繰り返すことを「練って、練って」といい、相撲の所作で行われる何回も足踏みを繰り返すことから「ネッテイ相撲」と言われるようになったとされています。 古くから伝わるこの「ねっていすもう」は、今の相撲の原型ともされ国選択無形民俗文化財、県指定文化財に指定され、地元の人たちが大切に守り続けています。 |
地がため地蔵【ぢがためじぞう】
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但馬の開拓時に祈願「地がため地蔵」 六十六地蔵を巡る、但馬の遍路道 但馬地方と丹波地方の境となる遠阪峠。朝来市山東町側の登り口付近に、「地がため地蔵」と呼ばれるお地蔵さんを祀った小さな祠があります。 |
牛が峯【うしがみね】
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大蛇と洪水の伝説が残る山「牛が峯」 水に因んだ地名がついた理由とは… 兵庫県と鳥取県との境になっている蒲生峠。この近くに牛が寝たような形の山「牛が峯」があります。 |
轟の太鼓踊【とどろきのたいこおどり】
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●蓮華寺で行われる盆の施餓鬼供養の仏事 蓮華寺で行われる盆の施餓鬼供養の仏事として踊られる轟の「太鼓踊り」。 特徴はその素朴さにあるといわれています。 同じ系統に属する「ざんざか・ざんざこ踊り」は衣裳や踊りに工夫を凝らすのに対し、 「太鼓踊り」には派手さもなく、衣裳も白浴衣のみです。踊りの構成は「ザンザンザカザット」の囃子込み太鼓と唄の部分が交互に演じられます。 その成立や起源についてははっきりと分かっておらず、締太鼓に江戸時代後期の年号が記されていることから、少なくともこの頃から踊っていたことが分かっています。昭和34年頃を最後に一時途絶えましたが、平成4年、約30年ぶりに地元有志によって復活しました。 |
法花寺万歳【ほっけいじまんざい】
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■法花寺万歳保存会 ■豊岡市教育委員会 |
●今の漫才の起源といわれる県下唯一の門付け万歳 「万歳」とは、正月に家々の座敷や門前で祝いを述べる、祝福芸で、千秋(せんず)万歳ともいいます。また、今日の漫才の起源ともいわれています。 豊岡市法花寺の万歳は、江戸時代後期に京都へ出奉公していた村民の1人が習い覚えて帰郷し、農閑期の出稼ぎとして門付けをしたのがはじまりと伝えられています。かつては、丹後・丹波地方にまで門付けにまわったこともあるようです。 第2次世界大戦中に一時中断していましたが、1949年(昭和24)に復活。県下で唯一、門付け芸を伝承している万歳として貴重で、2004年には県の無形民俗文化財に指定されました。 ●軽妙で巧みな掛け合いが笑いを誘う |
農村歌舞伎【のうそんかぶき】
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■葛畑コミュニティセンター |
●農村歌舞伎のおこり 葛畑(かずらはた)農村歌舞伎舞台は江戸末期、安政5年(1858)頃、荒御霊神社境内に建立されました。藤田甚左衛門らが葛畑座を結成し、農閑期に歌舞伎を上演したのが始まりといわれています。娯楽が少なかった農村では唯一、最大の楽しみで、田植えや蚕(かいこ)飼いが終わる閑期や雨乞いの祈願に、また秋の実りを祝う収穫祭や村祭りに、村人達は自らの手による地狂言を演じたり、あるいは旅役者の一座を招いて村芝居をおこなってきました。 元禄年間、歌舞伎芝居は農村の娯楽として盛んでした。七美郡誌に「百姓の鎧着て出る祭かな」という句も残っています。 ●農村歌舞伎舞台の構造 |
葛畑土人形【かずらはたつちにんぎょう】
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・見学希望、問い合わせ TEL.079-667-2331 |
●素朴な風合いの土人形 葛畑土びなは、前田家の初代、三良右衛門(通称友助)によって、江戸時代末期、天保年間に作りはじめらたといわれています。もとは鍋屋から製糸業、瓦の製造業をおこなっていましたが、冬期の副業として、生糸の商用で京都へ行った時、伏見で買い求めた土人形とその見聞した技法によって土びな作りを始めました。もともと三良右衛門は、他人の技法をすぐに習得する器用さを持っていたといわれています。当初、川原場に住み小路頃の山腹に窯を築いていましたが、付近の土があまり良くないので、葛畑の土を利用し、内裏雛、恵比須、大黒天などを作っていました。 2代目友助(通称俊三郎)は、原料の土を求めて明治25年(1892)葛畑に移り住み家業を継ぎました。 3代目太蔵は鳥取県で土人形、仏像、仏具、仏像の製作し技術を磨き、帰郷。鋭意、雛人形の製作に没頭し、明治末期から昭和初期にかけて、葛畑土びなの最盛期を形成しました。葛畑土びなの贈答が流行し、女子の誕生や嫁入りには欠かせないものとなり、従業員10数名を雇用、数名の売り子と村岡、湯村、関宮、大屋などの小売店を通じて美方郡、養父郡一帯へ販売していました。 4代目俊夫氏は、若くして家業を継ぎ、兵役中の4年間は休業しましたが、戦後復活させ、伝来ものの上に、さらに創意工夫を活かして新しい感覚で取り組み、雛人形はもちろん武者人形、置物、玩具、十二支など、百種類を越す作品を発表しました。 しかし、昭和63年(1988)に俊夫氏がなくなり、現在では葛畑コミュニティセンターに作品を残すのみとなっています。 |
出石焼【いずしやき】
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●透きとおるような白磁、出石焼の変遷
出石焼の歴史は、江戸時代半ば、天明4年(1784)に、陶器を焼いたのがはじまりとされています。その後、優良な石磁の鉱脈が発見され、染め付け磁器を製作するようになりました。 天保年間に最盛期を迎え、明治初期に衰退しましたが、明治9年(1876)、桜井勉らが旧士族の失職を救済するため、有田の陶匠・柴田善平を招いて盈進社を設立し、同社からパリや東京の博覧会に出品して一躍出石白磁の名声を高めました。 明治32年(1899)から指導に当たった友田九渓は出石焼きの品質改良に業績を残し、セントルイス万国博覧会で金賞を獲得しました。昭和に入って出石に県立窯業試験場が設立され、出石焼の品質はますます向上しました。 さらに、戦後、出石焼の作品が日展の特選に選ばれるなど作家活動が盛んになり、昭和56年(1981)には、国の伝統工芸品に指定されました。 |