2011/06/22  

戊辰年銘大刀【ぼしんねんめいたち】

 

戊辰年銘大刀【ぼしんねんめいたち】

戊辰年銘大刀
・養父市八鹿町国木

・国指定考古

・兵庫県立歴史博物館所蔵

●関連情報
養父市役所

●箕谷古墳群から608年にあたる鉄刀が出土

昭和58年8月、つるぎが丘公園の建設に先立つ埋蔵文化財調査で、箕谷2号墳から100点以上の遺物とともに一本の鉄刀が出土しました。X線検査の結果、銅で象嵌(ぞうがん)された「戊辰年五月(中)」の大文字が判読され、また、この鉄刀は、奈良・飛鳥時代の天皇が儀式用に使った「圭頭大刀(けいとうたち)」と呼ばれる形式であることもわかりました。
日本最古の銅象嵌で、この大刀は銘文から戊辰年銘大刀(ぼしんねんめいたち)と呼んでいますが、戊辰年は「つちのえたつ」という干支(かんし)年号で、推古(すいこ)天皇16年(608)にあたることから、全国の古墳の実年代を考える基準資料として注目されています。銘文は刀身の柄(つか)よりに「戊辰年五月(中)」の6文字を刻んでいます。鉄にタガネで線を彫り、その線に銅線をうめこんで文字を書く、銅象嵌という方法です。これは日本最古の銅象嵌の技法です。文字は1字1cmほどで、銅線は0.2~0.4mmという細いものです。
書風はのびのある柔らかい筆勢で書かれ、全体として中国六朝(りくちょう)的な様相を残しています。特に 「五 」の字は円筆(えんぴつ)という特色があります。日本にある銘文鉄刀は全国で8本だけの珍しいものです。兵庫県立歴史博物館に保管展示され、レプリカは、つるぎが丘公園体育館に展示されています。

2011/06/22  

八木城跡【やぎじょうせき】

 

八木城跡【やぎじょうせき】

八木城跡
・養父市八鹿町八木

・国指定史跡

●関連情報
養父市役所

●殿屋敷、土城、八木城、3つの時代が語る城跡
八木城跡は標高330mの位置にあり、日本屈指の規模を誇る竹田城(和田山町)や山名氏の此隅山城(出石町)と並ぶ、但馬の代表的な山城です。八木氏が戦国時代に使った土城、豊臣秀吉によって任命された別所重棟・吉治という二代の大名によって改修され、八木城・土城・殿屋敷の3か所を八木城跡として国指定文化財になっています。
八木氏の初代・八木安高は、幕府から任命された地頭として八木の地を治め、その館跡が畑ヶ中の屋敷跡にありました。高い山の上に築くようになったのは、南北朝時代で、細い山の上に階段のように連続して曲輪を築いています。その特徴を伝えているのが八木の土城です。
やがて室町時代の後半になると、今滝寺、畑ヶ中、琴弾峠のような方向にも曲輪を拡張するようになります。曲輪は城の中心から放射状に三方向へ広がり、山城は大型化します。本丸の石垣は、長さ40m、高さ9.3mあり、豊臣時代に築かれた類例の少ない貴重な遺跡といわれています。
八木城跡は、3つの時代の城館跡が一か所に残っていることは極めて珍しく、地方の武士が幕府の家臣となって鎌倉時代から室町時代へ、さらに安土桃山時代へと生きる様子を示す遺構でもあります。
最後の城主の別所氏は、養父郡内で1万5千石を治めていましたが、慶長5年(1600)関が原の合戦に石田三成に与して、廃城になりました。

2011/06/22  

但馬五社【たじまごしゃ】

 

但馬五社【たじまごしゃ】
但馬を南北にわたる絹巻神社・出石神社・小田井神社・養父神社・粟鹿神社、この5つの神社を総称して「但馬五社」といいます。各神社間は約12km、お正月にはこの五社をめぐると大変御利益があるとされ、露店も並び、多くの参拝者で賑わいます。


絹巻神社
・豊岡市気比
●絹巻神社(きぬまきじんじゃ)
亜熱帯の鎮守の森に海の神様を祀る

天衣織女(あめのいおりめ)命・海部直命を祀り、全国でも珍しいおしりをあげた狛犬があります。以前は前方にありましたが、港大橋架設のため現在の位置に移動しました。
周囲は暖地性原生林で面積1万2千平方メートル余りに、シイ、クスノキ、サカキ、ダブ、ヤマザクラ、ツバキなど温帯、亜熱帯の樹木が生い茂り、県の天然記念物に指定されています。

 



小田井神社
・豊岡市小田井
●小田井神社(おだいじんじゃ)
国作大己貴命を祀る

延喜式神名帳(905)に記されいる式内神社で、国作大己貴(くにつくりおおなむち)命を祭神に祀っています。弘安年中(1278~87)の但馬大田文には、小田井社々領31町3反あまり神供田25町1反あまりとあり、当時は神仏習合で社家(四社)、社僧(4ヶ寺・金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行っていたとされています。
しかし、天正3年(1575)、戦で森に火を放たれ焼失、ご神霊はみこしで一日市に火難を避けられたと伝えられています。同じ天正年中、羽柴秀吉が中国征伐に陣営を置き、多くの神領・神供田を没収、社家社僧は離散してしまいました。貞享年間中(1684~87)に社殿を再興し、鳥居を建て、元文年中(1736~1740)に神殿を改造しました。
昭和になってから、円山川河川工事で移転や境内の改築が行われ、現在に至っています。

 



出石神社
・豊岡市出石町宮内
●出石神社(いずしじんじゃ)
但馬開発の祖神、天日槍命を祀る

但馬一の宮といわれ、祭神は但馬開発の祖神、天日槍(あめのひぼこ)命と八種の宝が祀られています。天日槍は朝鮮半島から日本に渡来した人々が信仰した神様だと考えられています。出石神社由来記には天日槍が、その当時入江湖であった但馬地方を瀬戸の岩戸を切り開いて耕地にしたと記されています。
「祭具の鉾・首部」を所蔵し、天日槍命は太陽光の化身とも、祭具としての鉾の擬人化ともいわれています。また、龍が鉾に巻きついている姿は歌舞伎の柱まき(柱に手と足をかけみえをきること)の原型ではという説もあります。

出石神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀ったと伝えていますが、諸書によると奈良朝時代すでに山陰地方の有数の大社であったことがうかがわれます。

境内の門の脇に鳥居の一部が置いてありますが、これは出石川改修の際、川から出土したもので、平安時代のものだといいます。出土した付近は今でも「鳥居」という地名で、かつては一の鳥居、二の鳥居があったとされ、二の鳥居の一部ではないかといわれています。
現在の社殿は大正3年に再建され、本殿は三間社流れ造りで南に面しています。拝殿は舞殿形式で入母屋造り平入りで蔀戸をつり、正面に身舎の屋根と独立した平唐破風出桁の向拝は他に類のない珍しい建物です。

 



養父神社
・養父市養父市場
●養父神社(やぶじんじゃ)
農業・養蚕・牛馬の神、倉稲魂命など五柱を祀る

延喜式の式内大社で、天平9年(737)但馬税正帳にも出石神、粟鹿神と共に名を連ねる古い宮です。鎌倉時代には多くの社田を持ち、三重の塔、堂、坊をもった神宮寺のあったことも知られています。現在の社務所は江戸時代の別当寺、普賢寺です。
祭神は農業・養蚕・牛馬の神、倉稲魂(うがのみたま)命をはじめ大己貴命、少彦名命、谿羽道主命、船帆尼命の五柱を祀っています。春の大祭、八十八夜祭など年間多くの祭りがあり、春の桜、秋の紅葉など信仰、名所としてにぎわいます。また、但馬の3大祭りに数えられる「お走りまつり」が伝えられ、4月15日から16日にかけて、御輿が町内を横断し、約18km離れた斎神社へお参りを行います。特に15日の大屋川渡りは圧巻です。

 



粟鹿神社
・朝来市山東町粟鹿
●粟鹿神社(あわがじんじゃ)
約600年前に国家平癒を祈願、勅使門を建立

但馬国一の宮、延喜式に定める明神大社で、阿米弥佐利命が主祀神で、その他、諸々の神々が祀られています。創建は古く崇神天皇の頃と伝えられています。神徳高き神社として朝廷の尊崇が厚く、約600年前には国家の大難に際して4度の勅使が派遣され、そのご加護として勅使門が建てられたとされています。 当地方における数少ない遺構の一つとして貴重です。 本柱間の両開きの唐戸は、透かし彫りの欄間をつけ、羽目板には鳳凰が刻まれ、 頭貫には唐草模様が見られます。
また、御本殿裏の御塚には、日子坐王命が葬られ御陵として崇められています。境内の末社も由緒があり、1,540坪に及ぶ神域の社叢林は深厳な景観を形成し、町指定天然記念物です。