堀田瑞松【ほったずいしょう】
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●専売特許第1号
堀田瑞松は豊岡市城南町の刀の鞘(さや)の塗師(ぬりし)の家に生まれました。22歳で京都に出て、鉄筆一刀彫(てっぴついっとうぼり)の名手となり、紫檀(したん)の置物台を孝明天皇に彫刻献上し、名前に「瑞」の一字を賜りました。 |
2011/06/22 先人たち
堀田瑞松【ほったずいしょう】
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●専売特許第1号
堀田瑞松は豊岡市城南町の刀の鞘(さや)の塗師(ぬりし)の家に生まれました。22歳で京都に出て、鉄筆一刀彫(てっぴついっとうぼり)の名手となり、紫檀(したん)の置物台を孝明天皇に彫刻献上し、名前に「瑞」の一字を賜りました。 |
2011/06/22 先人たち
北垣国道【きたがきくにみち】
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●生い立ち 若くして池田草庵に学び、生野義挙に参画した北垣国道(幼名晋太郎)は、養父市能座村の庄屋・北垣家の長男として天保7年(1836)8月に生まれました。父・三郎左衛門は、儒学を修めまわりの農民から信頼されていました。母・利喜は村岡藩岡丹治郎の娘で、物静かで気丈な人でした。 天保14年(1843)、北垣は父のすすめに従い、池田草庵のもとで原六郎らとともに論語など漢学を学びました。勉強も大変良くできたといいます。 長く続いた徳川の幕藩体制が揺らぎ、近代国家に生まれ変わろうとする幕末。北垣国道は尊皇攘夷派の活動にのめり込んでいきました。師である池田草庵の反対を押し切って、慶応元年(1865)原六郎たちといっしょに生野義挙に参加しましたが、生野挙兵は失敗に終わりました。 ●明治の官界で活躍 因幡に逃れた北垣国道は、名前を変えて鳥取藩に仕官しました。戊辰(ぼしん)戦争の北越征討軍に参加し、新政府から認められたのが、官界に入る第一歩となりました。 その後、元老院少書記官、熊本県知事、内務少書記官、高知県知事を経て、明治14年(1881)京都府知事になりました。在任中、琵琶湖の水を京都市に引く疎水工事を完成させたことは有名で、その後の京都の開発に大きく貢献しました。 のち北海道庁長官、拓殖務次官、貴族員議員、枢密院顧問官を歴任し、明治の官界で活躍しました。 |
2011/06/22 先人たち
加藤弘之【かとうひろゆき】
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●生い立ち 加藤弘之は天保7年(1836)6月23日、豊岡市出石町谷山に、出石藩用人・加藤正照の長男として生まれました。10歳になった加藤は藩校弘道館に通って朱子学を中心とした儒学を学びましたが、兵学師範の子としては兵学も学ぶ必要があり、練兵・武術の手ほどきも受けました。 17歳の時、父に従って江戸に行き、甲州兵学・儒学・洋学を学んだ加藤は、次第に洋学に魅せられ哲学・倫理学・法学などを勉強していきました。 江戸で貧しさと戦いながら勉学に励んでいた頃、郷土の父が亡くなりました。母は早く死亡し兄弟もすでに亡くなっていたので、加藤は天涯孤独の身となりました。 ●明治維新の担い手 桜田門外の変の起こった万延元年(1861)、幕府より蕃書調所(東大の前身)教授手伝に採用されました。蕃書調所は幕府が各藩の指導者を養成するためにつくった学校です。加藤は幕府の御用学者としての権威主義的色彩を強く持つようになります。福沢諭吉の私塾(慶應義塾)経営の方向とは好対照でした。 加藤はドイツ学を究め、明治天皇教育のため「国法汎論」を講義し、憲法・三権分立・市町村自治のだいたいの意味をたたき込んだといわれます。また、ヨーロッパから輸入された「天賦人権論」(すべての人間は生まれながらにして自由・平等の生活をする権利を有するとする思想)を信じ尊びました。明治維新により四民平等(江戸時代につくられた身分制度である士・農・工・商が廃止された)がうたわれているのに、被差別部落民はいぜん差別されている現実を嘆き、恥ずかしいと主張。文部大丞権判事であった加藤は「被差別部落民を平民とする」という解放令の議案を公議所(議会)に提出可決し、明治4年8月解放令の大政官布告となったのです。 加藤は明治10年(1877)開成学校(のちの東京大学)綜理を命じられ、のち、明治23年(1890)再び、初代東京帝国大学総長になり、貴族院議員にも選ばれました。明治21年(1888)には文学博士、38年(1905)には法学博士を授けられました。26年(1893)には東大総長を辞任し、宮中顧問官を任じられ、33年(1900)華族となり男爵を授けられました。39年(1906)には枢密顧問官になりました。 その後、役職としては教育調査会総裁、高等教育会議議長、文学博士会会長、哲学会会長、国家学会評議員長、ドイツ学協会学校長、学士院院長など、その経歴は多彩で華やかなものでありました。また、憲法・政治・道徳・法律・哲学に関する膨大な著書を残しています。 官界学界の多数の官職を歴任し、明治の総帥(そうすい)として頂点を極め、大きな功績を残し、大正5年(1916)81歳の生涯を全うしました。 |
2011/06/22 先人たち
池田草庵【いけだそうあん】
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●生い立ち 但馬の生んだ偉大な儒学者(中国の古典を研究する人)であり、教育者の池田草庵は養父市八鹿町宿南に文化10年(1813)7月23日に生まれました。池田家はもともと旧家で、村三役(庄屋・組頭・百姓代)の組頭の孫左衛門の三男として生まれ、名を禎蔵といいました。 草庵10歳の時、母が亡くなり、兵庫県養父郡広谷十二所の満福寺にあずけ、僧侶としての修行を積ませることにしました。翌年には父も亡くなりました。住職の不虚上人(ふきょしょうにん)の熱心な指導により、草庵は寺一番の高弟と認められるようになりました。 しかし、天保2年草庵19歳の時、たまたま養父町を訪れた儒学者・相馬九方(そうまきゅうほう)の教えを受け、儒学を志す決心をし、不虚上人の許しのないまま寺を出てしまいました。のちにこの不義理な行動を深く反省し、絵師に「満福寺出奔図」を描かせ、掛け軸として生涯部屋にかけて自らの戒めとしたといいます。 京都へ行った草庵は相馬九方に入門。儒学の他、朱子学、陽明学の哲学を勉強し続けました。自信を得た草庵は、京都一条坊に塾を開きました。草庵の学問や人格の立派なことが故郷の人たちにも知られるようになり、そんな立派な先生ならはやく故郷に帰って、但馬の弟子を教育してもらいたいと願う人が多くなってきました。 但馬でも学習熱が高まり、但馬全体でも40くらいの寺子屋があったといわれます。草庵はこわれるままに故郷に帰ってきました。天保14年(1843)、満福寺を逃げ出して以来13年ぶり、草庵は31歳になっていました。 ●青谿書院を開く 弘化4年(1847)、草庵35歳の時、自分の生まれた宿南村に念願の学舎を建て、「青谿書院」(せいけいしょいん)と名づけました。この年、草庵は八鹿町の医師・国屋松軒(くにやしょうけん)の妹・久子と結婚しました。 草庵の門人たちは子弟共々共同生活をし、知識を与えるより人間の生き方、人格の完成をめざすもので、知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心を砕きました。門人たちは士族に限らず、農家の後継者としての働き手も多く、農繁期は帰宅して働くなど悪条件での勉学でした。のべ700人に達する但馬内外の子弟を教育しました。 草庵の名声は次第に広がり、遠い宇都宮藩の幼君の教育係としての要請もありましたが、動かず但馬の人材の育成につくしました。 「子は親の鏡という。親を見んとすれば先ずその子弟を見よ」 草庵の門下生からは近代化をめざす明治・大正の日本のリーダーとしての人材を多数輩出しました。まさに草庵は但馬聖人でした。 |
2011/06/22 先人たち
斎藤畸庵【さいとうきあん】
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●スケールの大きな南画家
斎藤畸庵は城崎温泉の旅館「伊勢屋」の長男として生まれました。 幼い頃から詩や絵を好み、16歳の時、京都へ出て中林竹洞(なかばやしちくとう)の門に入り、南画(なんが)を学んだと伝えられています。その後、奈良の月ヶ瀬、和歌山の那智(なち)、九州の耶馬渓(やばけい)など各地を旅行し、その風景を描き残しました。 畸庵の作品は山水図が中心で、幕末から明治の南画家としては、スケールの大きな作風を展開しています。郷里・但馬には、各地の寺院を中心に多くの作品が残されてます。 |
2011/06/22 先人たち
前田周助【まえだしゅうすけ】
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●生い立ち
美方郡香美町小代区に生まれた前田周助の幼年は、「牛飼い坊主」といわれたほどの牛好きでした。長じてますます牛を愛し、鑑識力に優れ、資財をなげうって、数々の良牛を買い求め続けました。 彼の評判を伝え聞いた兵庫県養父市吉井に住む大博労(だいばくろう)孫左衛門が、はるばる前田家をたずね、その牛を一目見て優秀なのに驚きました。孫左衛門の啓発と援助によって、当時但馬唯一の牛市場であった養父市場に進出しました。周助の取り扱う牛は値段が高いのにかかわらず、飛ぶように売れたので、周助の名とともに小代牛(おじろぎゅう)の名声はますます高くなりました。 ●人生をかけた但馬牛の改良 ※博労(ばくろう)とは |
2011/06/22 先人たち
上田広甫【うえだこうほ】
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●初代いけばなを発展させ、未生流の基盤を築く 上田広甫は豊岡市日高町土居に生まれ、幼名を安太郎といい、遠縁の豪農上田家で働いていました。その頃、未生流の祖(そ)「未生斎一甫(みしょうさいいっぽ)」と出会いました。生け花の素質を認められ、一甫に仕えることになりました。連れられて大阪へ出て修行を積み、未生流華道の奥義を極めました。 |
2011/06/22 先人たち
大石りく【おおいしりく】
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●生い立ち
りくは寛文9年(1669)に豊岡藩の武家屋敷で、石束(いしづか)源五右衛門毎公(つねとも)の長女として生まれました。石束毎公は豊岡藩京極家家臣の筆頭家老でした。 ●赤穂浪士の討ち入りのあと妻は… 元禄14年(1701)3月14日、江戸城内、松之廊下で主君浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を腰の小刀で切り付けたのです。浅野内匠頭長矩はただちに切腹。浅野家は断絶、赤穂城は没収となりました。 大石内蔵助が開城準備や残務処理をしました。これらの悲痛な忙しさを裏で支えたのが、妻りくでした。城を明け渡したあと、大石一家は京都の山科へ移り住みました。そこで討ち入りの日を世間をあざむきながら、じっと待ちました。 元禄15年(1702)4月、大石内蔵助は長男・主税を残して、りくと3人の子供たちを豊岡へ返しました。7月には三男・大石大三郎が生まれました。 正徳3年(1713)、大三郎が広島藩浅野家に仕官し1500石を賜り、りくも広島で暮らしました。元文元年(1736)11月19日、68歳の生涯を広島でとじました。墓は広島の国泰寺墓地にあり、子どもたちと一緒に眠っています。豊岡市日撫の正福寺には遺髪塚があります。 毎年「りく祭り」が盛大に豊岡市で行われています。 |
2011/06/22 観光名所
雲海【うんかい】
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●秋の雲海はみごとな自然の芸術品 ■来日岳【豊岡市城崎町】 豊岡市城崎町の中西部には標高566.6mの来日岳がそびえています。約1万年前に大噴火があったとされる古い火山で、太古には、このあたりが海であったこともうかがえます。 山頂からは、大岡山、蘇武岳、遠くには但馬の屋根・氷ノ山を望み、眼下には豊岡盆地、円山川、日本海が展開します。ことに晩秋には円山川の川霧に包まれる早朝、足元一面を白一色に閉じ込める霧の海「雲海」が日本海へ流れる雄大な様を見ることができます。来日岳は自然の宝庫。ハイキングコースに最適です。 ・城崎温泉観光協会 0796-36-3663 ■大岡山【豊岡市日高町】 ■郷路岳【豊岡市但東町】 |
2009/12/18 観光名所