2011/06/22  

藤原東川【ふじわらとうせん】

 

藤原東川【ふじわらとうせん】

藤原東川
(1887~1966)
明治20年1月、兵庫県朝来市和田山町に生まれる。歌人。農民の喜びや悲しみを歌う「田園歌人」「農民歌人」といわれた。「郷愁」「にいはり」「乳木」「山帰来」の歌集を残している。
●生い立ち
明治20年(1887)1月18日、朝来市和田山町宮に、父・久蔵、母・さとの長男として生まれ、与八郎と名付けられました。素直で明るく、成績もよかったので、学校や村の人たちからの信頼もあつく、みんなから大切にされていました。小学校高等科を主席の成績で卒業し、本人も学校も進学を希望したのですが、跡取りとして百姓をしなければならず、進学はかないませんでした。

農業にあけくれる生活の中で、これではだめだと村を出る決心をし、明治37年(1904)、17歳の時、突然神戸へ出ていきました。しかし、学歴もなく特別な技術も持たない彼は、その日その日によって仕事を転々とする日雇い人夫しか働き口がなく、ついに絶望の果て、郷里に帰ることになりました。

故郷に帰った彼は、農業のかたわら漢詩を学び、新聞・雑誌の文芸欄に投稿し続け、作品がしばしば入選し、認められるようになりました。

●農民の喜びや悲しみを歌に

明治43年(1910)、いよいよ文筆活動で世に立とうと考え、家族の反対を押し切って東京に出ました。当時24歳でした。ところが、生活費に困り、学費が続かず、途中で退学。翌44年(1911)、東京での生活を断念、再び故郷へ帰らざるを得なくなりました。

帰郷後の彼は、ますます勉強に励み、大正4年(1915)29歳の時、中路よしと結婚。翌年、若山牧水主宰の歌誌『創作』の詩友となり、本格的な歌人としてのスタートを切りました。

東川の但馬歌壇における功績は、但馬の歌人を結集して一つの大きなエネルギーを作り出したことです。これまで、但馬の歌壇は結社ごとに独立して、他の結社との交渉はほとんどありませんでした。東川の作った『雪線』はそれぞれの独立性を尊重しながら、短歌を作るという共通の目標を結集した原点です。『雪線』は昭和58年(1983)400号を突破し、会員も300名を越えました。『雪線』は平成元年(1989)1月号より『但丹歌人』と改め、現在に及んでいます。東川が但馬歌壇の父といわれ、今も多くの人から敬愛され、圧倒的な地位を占めている理由がここにあります。また、但馬史研究会の創設に力を尽くしたことも忘れてはなりません。

春いまだ野は 冬枯れのままながら 柳畑のいろのあかるさ

野良ぐるま ひきてかえるに道遠く いつしか月の光をぞ踏む

春によし 夏はまたよし 秋はなほ今日あたためて飲む冬の酒

張り替えて 吉き日をぞ待つわが家の障子 さやけき今朝は雪晴れ

昭和41年(1966)3月19日、多くの人々に惜しまれながら、生涯を閉じました。享年79歳でした。

2011/06/22  

前田純孝【まえだじゅんこう】(翠渓すいけい)

 

前田純孝【まえだじゅんこう】(翠渓すいけい)

前田純孝(翠渓)
(1880~1911)
明治13年4月3日、兵庫県美方郡新温泉町(旧浜坂町)諸寄に生まれる。東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。

歌碑

ふるさとの浜坂町諸寄の海にのぞみ建てられている歌碑

●生い立ち
東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。前田純孝は明治13年(1880)4月3日、浜坂町諸寄(現新温泉町)の旧家に父純正、母うたの長男として生まれました。

父はかつて池田草庵(いけだそうあん)の青谿書院(せいけいしょいん)の門下生で、村一番の教養人でしたが、生活力がなく前田家はどんどん落ちぶれていきました。また、うたを正妻に迎えても愛人との関係を断つことができず、妻の親族から離婚を突きつけられ、母は村岡町の実家へ帰って行きました。純孝3歳の時でした。離婚すると、すぐに愛人が正妻として入り、継母と異母兄弟との生活が始まりました。継母とうまくいかず、悲しみ多い幼児期を過ごしました。

純孝は7歳にして家族と別れ、鳥取師範付属小学校に入学。卒業する15歳まで一度も帰省せず勉学一途に励みました。彼の孤独な感覚は次第に文学へと転化されていきました。

●薄幸の歌人

文学的才能は御影師範学校・東京高等師範学校在学中から発揮され、雑誌「明星」(みょうじょう)の投稿によって、個人的感情的表現は彼の生い立ちと相まって一段と磨かれていきました。

秋雨は親はなくとも育ちたる 我と知りつつ降るとし思ふ

牛の背に我を乗せずや草刈女 春来峠はあう人もなし

君を思う我をはた思う君我の 二人の中のいとし児ぞこれ

大阪島之内高等女学校教頭として赴任、妻信子を得てしばしの幸福感に浸りましたが、長くは続きませんでした。純孝は過労から倒れたのです。肺結核でした。時を同じくして妻も産後の肥立ちが悪化、夫婦枕を並べての療養生活が始まりました。妻子に迷惑をかけないように純孝は療養場所を故郷に移しました。

死の直前まで数々の学校唱歌や歌集を創作し、前田純孝は明石に残した妻子を思いながら31歳の生涯を閉じました。

干からびし我が血を吸いていきてある 虱はさらにあわれなるもの

(絶筆)

風吹かば松の枝なる枝なれば 明石を思ふ妹と子思ふ

純孝の二千数首の珠玉の歌集は純孝研究者たちの力で世の中に蘇ってきました。

2011/06/22  

斎藤隆夫【さいとうたかお】

 

斎藤隆夫【さいとうたかお】

斎藤隆夫
(1870~1949)
明治3年、兵庫県豊岡市出石町中村に生まれる。大正から昭和初期にかけて政界で活躍。「憲政の神様」と呼ばれた。

弁護士・衆議院議員当選13回・民主党最高顧問・国務大臣

斎藤隆夫記念館
「静思堂」

斎藤隆夫記念館「静思堂」は生地・豊岡市出石町中村に斎藤隆夫の威徳を偲ぶため建てられた。「静思」とは大局から日本を見つめ、我を見つめることを忘れなかった斎藤隆夫の思想につながる「大観静思」からとられたという。建物のスタイルは非常にユニークで、兵庫県緑の建築賞に選ばれている。施設は研究会、講演会、茶会、コンサートまであらゆる文化活動に利用されている。
・豊岡市出石町中村

・TEL.0796-52-5643

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

●生い立ち  斎藤隆夫の生地・豊岡市出石町中村は、出石川の支流、奥山川が地区の東を流れる高台にある旧室埴村字中村で出石藩のお膝元です。彼は斎藤八郎右衛門の次男として明治3年(1870)8月18日、父が45歳、母が41歳の時生まれました。1人の兄と4人の姉の末っ子でした。
8歳になり福住小学校に入学しましたが、まだ卒業しない12歳の頃、「なんとしても勉強したい」という一念から、京都の学校で学ぶことになりました。ところが、彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきました。その後、農作業を手伝っていましたが、家出同然に京都へ行って帰ってくるなど、苦悩の日々を過ごしています。
明治22年(1889)1月、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。
同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。
明治24年(1891)の夏、桜井勉が故郷の出石に隠居することとなり、斎藤隆夫は念願の早稲田専門学校(今の早稲田大学)の行政科に入学しました。明治27年(1894)7月、首席優等で卒業しました。
卒業した翌年の明治28年(1895)、弁護士試験を受け合格。明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強すました。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。
帰国後は鎌倉で静養し、合計7回の手術を受け完治。健康が回復した明治38年(1905)、弁護士を再開し、明治43年(1910)に結婚。
明治45年(1912)、第11回総選挙がおこなわれることになりました。この時、南但馬の国会議員は養父郡糸井の佐藤文平が出ていましたが引退することになり、後継者について原六郎と語り、原と旧知の間柄であった斎藤隆夫に白羽の矢をたてました。
そして、初挑戦ながら当選を果たしました。当選順位は定員11人中最下位でした。政界へのスタートを切ったのです。

●政治家としての軌道
 斎藤隆夫は初当選以来、連続3回当選しましたが、4回目に落選してしまいました。しかし、このことは但馬の土地に何の関係も実績もない人物が金権選挙をする実態を見た但馬の青年層たちを政治に目覚めさせるという大きな効果がありました。その後、彼らは純粋に応援するようになり、斎藤隆夫の政治的基盤を確立する契機となりました。
大正15年(1926)、彼は憲政会総務となり活躍します。昭和12年(1937)7月、支那事変がおこり、国家総動員法が公布、国を挙げて戦時体制へとすべてが動いていました。そのような時代の中、昭和15年(1940)2月、斎藤隆夫は「支那事変を中心とした質問演説」の中で「聖戦などといってもそれは空虚な偽善である」と決めつけました。この演説は「聖戦を冒涜するものだ」と陸軍の反感をかい、懲罰委員会にかけられるという大事件に発展し、離党。
除名処分後、昭和17年(1942)総選挙がおこなわれ、斎藤隆夫は最高得点で当選を果たしました。昭和20年(1945)終戦をむかえ、日本が大きく変わりました。マッカーサーの指令で解散した衆議院の選挙が昭和22年(1947)4月におこなわれ、彼は最高得点で当選。入閣要請があり、一度は断ったが同志の強いすすめから入閣しています。
国会議員13回、国務大臣2回就任。昭和27年(1952)10月、斎藤隆夫は80歳の生涯をとじました。

●演説
 斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。その1つめは大正14年(1925)の普通選挙法に対する賛成演説であり、その2つめは昭和11年(1936)の粛軍演説であり、その3つめは昭和15年(1940)の支那事変処理に関する質問演説です。彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら完全に暗記してから演説したといいます。
支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。

2011/06/22  

一瀬粂吉【いちのせくめきち】

 

一瀬粂吉【いちのせくめきち】

一瀬粂吉
(1870~1943)
兵庫県豊岡市出石町下谷に生まれる。文部省に勤務の後、三十四銀行副頭取、三和銀行取締役となった。弘道小学校その他に一瀬賞学資金を寄贈。

出石高校の赤門に記念碑がある

●生い立ち
出石藩仙石氏の磯野員武の次男として豊岡市出石町下谷に生まれ、藩学弘道館に学びました。のちに豊岡藩士・久保田譲氏(当時文部大臣)の心を込めた願いを聞き入れ、豊岡藩一瀬家の家名を継ぎました。

東京高等商業学校卒業後、文部省に勤務しました。文部次官・小山謙三氏の大阪三十四銀行頭取就任に従い、彼も三十四銀行へ転職。台北支店長・本営業部長を経て、三十四銀行副頭取になりました。

三十四銀行が鴻池銀行・山口銀行と合併して三和銀行を結成するに至り、その取締役になりました。

●学校教育への貢献
特に学校教育に関心を持ち、各地に学校図書館・楠公銅像を寄付し、豊岡市出石町の弘道小学校やその他に一瀬賞学資金を寄贈しました。また、下谷の生家跡に弘道小学校校長住宅を建築しました。

晩年には大阪財界・政界の有力者とはかり「誠の会」を結成して、誠の精神の強調普及に尽くしました。著書も多く、社会教育の振興に貢献しました。

昭和18年(1943)1月19日、73歳で亡くなりました。

2011/06/22  

古島一雄【こじまかずお】

 

古島一雄【こじまかずお】

古島一雄
(1865~1952)

兵庫県豊岡市に生まれる。「日本」に新聞記者として入社。戦後、政界の指南番と称された。

衆議院議員当選6回・政務次官・貴族院議員

●戦後の政界の指南番

豊岡市に生まれた古島一雄は、浜尾新の世話になり、杉浦重剛(すぎうらじゅうこう)のもとに通って教えを受けました。むこう意気が強く筋を通すところが重剛に気に入られ、彼の推薦で『日本』に新聞記者として入社しました。

のちに政界に転じて代議士に、また貴族院議員にも選ばれました。戦後には総理大臣の進退にも関わり、政界の指南番と称されました。

2011/06/22  

河本重次郎【こうもとじゅうじろう】

 

河本重次郎【こうもとじゅうじろう】

河本重次郎

(1859~1938)

兵庫県豊岡市生まれ。日本近代眼科の父と呼ばれる。

●日本近代眼科の父

河本重治郎は豊岡に生まれ、藩校稽古堂で池田草庵に学びました。13歳の時に豊岡出身の猪子止か之助(いのこしかのすけ)、和田垣謙三(わだがきけんぞう)と共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京しました。

横浜在住の叔父・中江種造方からドイツ語の学校へ通い、のち東京大学医学部へと進みました。同級生に北里柴三郎がいました。ここを首席で卒業した重治郎は、同学部外科学教室の助手となり、明治18年(1885)に留学を命じられて渡欧しました。明治22年(1889)に帰国すると東京大学眼科学教室主任教授に任じられ、以後33年間その職にあって、日本の眼科を先進国の水準に近づけ、さらに発展させて、日本近代眼科の父と称せられる人となりました。

 

2011/06/22  

長 熈【ちょうひろし】・長 耕作【ちょうこうさく】

 

長 熈【ちょうひろし】・長 耕作【ちょうこうさく】

長 熈
(1851~1911)
安政6年1月20日、兵庫県美方郡香美町香住区一日市に生まれる。初代香住村漁業組合長に就任。香住漁港をつくるために奔走。


長 耕作
(1887~1929)
明治20年1月11日、兵庫県美方郡香美町香住区一日市に生まれる。長熈の次男。父の遺志を継ぎ、香住漁港起工にこぎつける。

●生い立ち
美方郡香美町香住区一日市の資産家・長九郎右衛門久助の長男として、安政6年(1851)1月に生まれました。若い頃、草場塾で漢字を修め、明治維新の動乱期の中であらゆる書物を読みあさり、数学や経済などを独学で勉強しました。30歳になった明治21年(1888)4月に、美含郡(みぐみぐん)代表の県議会議員に当選しました。

その後、家を継いで農林業のかたわら、サバ・アジ・イワシなどの漁を手がけました。半農半漁の貧しい生活のため、冬になると出稼ぎをしなければならない漁師の生活を、なんとか良くしたいと思い、漁業の発展をめざして努力しました。そして、初代漁業組合長に選ばれました。

●香住の漁業発展の基礎を築く

大正5、6年頃になると、柴山や津居山で発動機付漁船による沖手ぐり網漁が営まれ、帆船による漁法に比べて、漁獲成績に大きな差が出てきました。港をつくらなければ、香住の漁業はダメになってしまうと思い、香住漁港修築を第一の使命と考えました。

港湾修築の先頭に立っていた熈組合長が病に倒れ、大正10年(1921)8月29日、思いを残したままこの世を去りました。しかし、その志は息子の耕作へと受け継がれました。

耕作は、明治20年(1887)1月11日、熈の次男として生まれました。豊岡中学校、早稲田実業学校(のちの早稲田大学)を卒業しましたが、兄が若くして亡くなったので、父の死去によりその跡を継ぎました。父と同じように、大正11年(1922)には香住村漁業組合の第三代目組合長に就任。続いて、翌12年には37歳の若さで香住村の村長にもなりました。

そして、香住漁港修築を香住村最大の問題として取り上げ、役場と漁業組合が一体となって取り組みました。昭和3年(1927)、漁港修築のための測量が農林省から派遣された技師によって行われました。翌年には漁港修築の企画案が届きました。7月の吉日に竣工式が行われ、漁業関係者や多くの町民が喜び合いました。

昭和4年8月12日、突然病に倒れ、町のため漁業組合のために尽くした43歳の生涯を静かに閉じました。

昭和37年(1962)7月、香住町漁業協同組合によって、香住漁港修築をはじめ一連の漁業発展のために情熱と命と私財を捧げてきた、長熈・耕作父子の功績をたたえる顕彰碑の除幕式が行われ、たくさんの人々が参列しました。今もこの顕彰碑は漁業発展の守護神のように出入りする漁船をじっと見守っています。

2011/06/22  

浜尾 新【はまおあらた】

 

浜尾 新【はまおあらた】

浜尾 新
(1849~1925)

嘉永2年4月20日、兵庫県豊岡市京町に生まれる。東京美術大学(現芸大)を創立し、東京大学総長として東京大学のために尽くした。

元老院議官・貴族院議員・文部大臣・枢密院議長・東宮大夫

東京大学構内に建つ銅像

●生い立ち
東京大学の発展に一生を捧げた浜尾新は、嘉永2年(1849)4月20日、豊岡市京町に豊岡藩江戸詰めの下級武士・浜尾嘉兵治の子として生まれました。5歳の時、父を失いました。

14歳の時、藩主夫人が豊岡に帰ることになり、浜尾は母親ゆうと同行し、豊岡で生活することになりました。幼くして藩に出仕して、父と同じく記録係の仕事をしました。
藩邸の東側には武術の稽古場と藩校稽古堂があり、文武両道に励みました。また藩邸の北側一帯は武家屋敷で豊岡藩の頭脳集団の住居でもありました。家老の船木克己、京都大学医学部名誉教授の猪子止か之助(いのこしかのすけ)、東京大学法学部教授の和田垣謙三、東京大学医学部眼科の権威・河本重次郎、文部大臣の久保田譲、政界のご意見番・古島一雄など明治・大正に活躍する秀才たちがたくさんいました。彼らとの交遊は浜尾の人間の幅を広げていく要因となりました。
但馬聖人・池田草庵は稽古堂に出張して講義し、藩の子弟たちに多くの感銘を与えたました。浜尾の知的人格形成は草庵によって形成されたといってもよいでしょう。

●東京大学と共に生きる

豊岡藩では人材育成のために藩費遊学制度をつくって廃藩まで、のべ11人の優秀な人材を江戸へ送り、勉強させました。浜尾は20歳の時選ばれて、慶應義塾・大学南校(東大)に学び、主としてフランス語を専攻しました。その後、東京大学舎監として学生たちの世話係をつとめる一方、アメリカ留学も果たしました。
明治10年(1877)、出石町出身の加藤弘之は開成学校(のちの東京大学)の綜理(総長)を命じられ、浜尾は副綜理として、加藤とコンビを組んで東大の運営と改革に献身しました。その後、文部省学務局長もつとめ、教育改革の一環として美術教育振興のため、上野に美術学校(のちの芸大)を創立させました。

明治26年(1893)加藤弘之は東京大学総長を辞任し、後任に浜尾を推薦、浜尾45歳にして東京帝国大学総長に就任しました。その後、しばらく文部大臣をつとめたあと、再び東京帝国大学総長をつとめました。

但馬の加藤弘之・浜尾新のコンビは東京大学育ての親といえます。東京大学構内には浜尾の銅像が設置されており、浜尾が植えた銀杏並木は東京大学100年の歴史を物語っています。

2011/06/22  

桜井 勉【さくらいつとむ】

 

桜井 勉【さくらいつとむ】

桜井 勉
(1843~1931)
天保14年9月13日、兵庫県豊岡市出石町伊木に生まれる。出石藩弘道館長。徳島・山梨・台湾新竹県知事。「校補但馬考」を著す。

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

●生い立ち

桜井家は代々出石藩の儒官の家でした。父・石門には長男・熊一(勉)、次男・熊二、三男・熊三の3人の子供がおり、次男は木村家に、三男は近藤家に養子にいきました。
桜井勉は8歳で弘道館に入学し文武を学び、堀田省軒(ほったしょうけん)にも入門しました。元治元年(1864)江戸に行き、芳野金陵(よしのきんりょう)について学びました。慶応3年(1867)、今度は三重県に行き、漢学者・土井こう牙(が)の門をくぐりました。

●明治の新国家設立に尽くす

明治元年(1868)3月藩主のすすめで貢士(こうし)となり、新政府への与論を答申しました。出石藩の藩政改革に励み、日本で最初の公園といわれる「楽々園」を明治2年に完成させました。明治5年(1872)、横浜税関勤務を命じられ、その後、地租改正や気象測候所の創設、現在の兵庫県が誕生したのも桜井勉の進言によるといわれています。

徳島県知事、衆議院議員、山梨県知事、台湾新竹知事を歴任、明治34年(1901)には内務省神社局長に就任、翌年5月に退官。晩年は出石の自邸・有子山園で悠々自適の生活を送りました。
出石に引退後は「校補但馬考」を著すことに精力的に取り組み、大正11年(1922)に完成しました。但馬の郷土史研究の基礎となる一大著述です。豊岡市出石町に数多くの記念碑を残し、出石神社に武具、刀剣を寄進、弘道小学校に書や古文書数百冊を寄贈しています。

昭和6年(1931)10月12日、88歳で亡くなりました。

2011/06/22  

原 六郎【はらろくろう】

 

原 六郎【はらろくろう】

原 六郎
(1842~1933)
天保13年11月9日、兵庫県朝来市佐中に生まれる。金融・産業界の中枢的存在として活躍。第百国立銀行頭取・東京貯蓄銀行頭取・横浜正金銀行頭取・帝国ホテル開業。
●生い立ち
天保13年(1842)、朝来市佐中の大地主、 進藤丈右衛門長廣の第10子、姉4人、兄5人の末っ子として生まれました。22歳までは進藤俊三郎、それから後は原六郎と名前を変えます。

安政2年(1855)13歳の時、池田草庵の青谿書院へ入門しました。当時は尊皇攘夷派の動きが激しくなる頃で、原六郎は尊攘論を唱え、政治活動を学問の邪道と考える池田草庵と相容れず、北垣国道たちと共に青谿書院を脱退しました。

文久3年(1863)生野義挙が起こり、これに身を投じましたが戦いに破れ、鳥取に逃げました。生野義挙に関係した者に対する捜索はきびしく、名前を原六郎と改め、以後本名を生涯使うことはありませんでした。

慶応元年(1865)、高杉晋作に会い、長州藩の守備隊に入り、翌2年には長州征伐の幕府軍と戦い、のち山口の陸軍兵学校明倫館で大村益次郎について、フランス式の練兵を学びました。王政復古ののち、長州を去り、以後、官軍にあってはなやかな軍人としての道を選びました。

●金融・産業界の中枢的存在

明治4年(1871)、政府の推薦でアメリカに留学。6年(1873)春エール大学で経済学を学び、7年(1874)イギリスに渡りレオン・レヴィについて経済学・社会学を修め、10年(1877)5月に帰国しました。帰国した彼は金融業界へ入り、第百国立銀行の頭取として活躍し、その手腕は世間に高く評価されました。

当時、わが国の貿易関連の横浜正金銀行は、経済不況の影響を受けて倒産寸前に追い込まれていました。明治16年(1883)原六郎に、この大事を託すべく頭取となり、銀行改革の大事業を成功させました。その他の金融業にあっては帝国商業銀行、台湾銀行、日本興業銀行の創設にも関与しています。

原六郎の経済人としての仕事は金融業だけにとどまらず、山陽鉄道、播但鉄道、阪鶴鉄道、総武鉄道、東部鉄道、南和鉄道、九州鉄道、北陸鉄道など、関係した鉄道は多く、東京電燈、横浜ドック、富士製紙、富士紡績、横浜水道の設備などにも多くの貢献をしました。わが国の金融・産業界の中枢的存在として活躍しました。
朝来市の山口小学校には講堂兼体育館を兄丈右衛と二人で寄贈。青谿書院に対しては財団法人とするための基金や祠堂を、また生野義挙で13名が自刀した山口に、招魂社(護国神社)を建立するに際して基金を寄せると共に、祭典に列席するなど故郷への心配りを忘れませんでした。

昭和8年(1933)11月14日、92歳の天寿をまっとうしました。