2015/01/10  

コウノトリ育むお米【こうのとりはぐくむおこめ】

 

コウノトリ育むお米【こうのとりはぐくむおこめ】
コウノトリ育むお米
コウノトリ育むお米

コウノトリ育むお米

●環境にも体にも優しいお米
かつて日本の至る所で見られたコウノトリ。近代化が進み、明治中期には豊岡市でしか見らなくなってしまい、昭和46年、市内で生息していた最後の一羽が保護され、コウノトリは日本の空から姿を消しました。豊岡市は国内最後のコウノトリの生息地として野生復帰に取り組み、平成17年9月、34年の歳月を経て、コウノトリは再び大空へと放たれました。現在はその後の放鳥と自然界での繁殖により、80羽を超えるコウノトリが大空を舞っています。
豊岡市ではコウノトリとの共生をテーマに、野生復帰したコウノトリが住みやすい環境作りの一環として作られたお米を栽培しています。農薬や化学肥料に頼ることなく、冬期や早期に湛水(たんすい/田んぼに水を張ること)し、深水管理(ふかみずかんり/田んぼの水深を深くすること)で栽培する「コウノトリ育む農法」の田んぼには、様々な生きものと安全で安心な美味しいお米が育まれます。
また、多様な生き物を育む田んぼのお米を食べることにより、間接的に環境への貢献ができることも「コウノトリ育むお米」の特徴です。

・JAたじま 0796-24-6602
・豊岡市コウノトリ共生課 0796-21-9017

2015/01/10  

コウノトリファンクラブ【こうのとりふぁんくらぶ】

 

コウノトリファンクラブ【こうのとりふぁんくらぶ】

●関連情報
コウノトリファンクラブ

●コウノトリ野生復帰をサポート
 コウノトリファンクラブは、コウノトリのふるさと但馬の自然環境保全・再生を支援し、野生復帰を目指す地域の取り組みを応援する活動を行っています。
クラブの会費は、放棄田の復田化、ビオトープ化、営巣木や人工巣塔の整備、水田魚道の設置、放鳥拠点への餌生物の補充などに役立てられています。また、水田・河川・里山の生きもの調査、再生活動、コウノトリ飼育体験、コウノトリ追跡観察教室などのボランティア活動や環境学習を行ったり、コウノトリ目撃情報の収集、ホームページや会報誌などを通じての野生復帰活動の情報発信を行っています。
会員同士の交流や、コウノトリとのふれあい体験なども行いながら、コウノトリ野生復帰に関する各種取り組みを支えています。

コウノトリファンクラブ事務局
・0796-26-3616
・兵庫県但馬県民局 地域政策室地域振興課
・兵庫県豊岡市幸町7-11

2014/12/17  

神鍋溶岩流【かんなべようがんりゅう】

 

神鍋溶岩流【かんなべようがんりゅう】

神鍋溶岩流

●関連情報
日高神鍋観光協会

●溶岩が創り出した自然の芸術
 約2万年前から3千年前の間に、神鍋火山群の噴火によってできた神鍋溶岩流。溶岩が水の浸食で形成したという奇石群が、見るものの足を止めます。稲葉川本流沿い、十戸の滝から八反の滝の間の3.5kmにわたって自然の神秘を形成し、散策コースとしても近年、注目を集めています。清流のマイナスイオンを浴びながらのウォーキングは、癒しの時間を私たちに与えてくれます。

また、溶岩の断層をくぐって湧き出る伏流水は、にごりのない清水として有名。近隣の十戸地区では、この清水を利用してワサビの栽培やニジマスの養殖が行われ、豊かでおいしい水は上水道にも使われています。
毎年、4月29日は「清滝溶岩流まつり」が地元住民によって開催。まつりでは流れ出した真っ赤な溶岩が冷え固まるまでに作り出した、さまざまな滝・渕などの風景を案内してくれます。

・日高神鍋観光協会 0796-45-0800

2014/12/17  

どぶろく

 

どぶろく
どぶろく
どぶろく
●日に日に発酵しながら味を変えるどぶろく
どぶろくは、米麹や野生酵母などの酵母を利用して作られる素朴な酒で、見た目は白く濁っています。酒税法の関係でその製造は厳しく取り締まられていますが、昔は農家の冬の楽しみとして、よく作られていたといいます。現在どぶろくを作るには、税務署に届けを出し、酒造免許を取得する必要があります。
但馬では4軒でどぶろくが製造されています。(昼食や宿泊利用時などに提供される他、販売も行っています)いずれも国の構造改革特区のひとつ「グリーンツーリズム特区」(都市部の人たちが農村体験をできる地区)に認定されています。

自家生産の原料を使い、ここでしか味わえないどぶろくをつくっています。甘酸っぱく、すっきりとさわやかな口当たりのこの酒が、人の和を広げ、地域を賑やかにしています。

八平達磨(農村体験館「八平」) 0796-56-1116
豊岡市但東町赤花572-1

和の泉(民宿愛宕荘) 0796-92-1626

美方郡新温泉町丹土144

小代道武禄
(オーベルジュ花郷里) 0796-97-3020
美方郡香美町小代区大谷300

鉢伏の泉(ロッジ翠山荘) 079-667-8420
養父市別宮290

2014/12/16  

旧豊岡市役所南庁舎別館(豊岡1925) 【きゅうとよおかしみなみちょうしゃべっかん】

 

旧豊岡市役所南庁舎別館(豊岡1925)
【きゅうとよおかしみなみちょうしゃべっかん】

旧豊岡市役所南庁舎別館
(豊岡1925)

・豊岡市中央町
・国登録有形文化財

●かつての銀行建築の面影を残す重厚な建物
昭和9年(1934)に旧兵庫県農工銀行豊岡支店として建設、その後、山陰合同銀行の建物として使用されてきました。平成17年(2005)に豊岡市役所南庁舎別館として改造され、平成26年4月18日、お菓子を中心テーマとした「豊岡1925」に生まれ変わりました。
元々はルネッサンススタイルの銀行建築で、派手さはありませんが、堅実な外観を見せています。銀行特有の堅牢な面合格子や網入りガラスは当時の面影をよく残しています。建設当時は向い側の旧豊岡郵便局(現豊岡市役所南庁舎)と相対して、「中央街路(大開通り)の偉観」といわれました。

2014/12/10  

アメノヒボコ伝説【あめのひぼこでんせつ】

 

アメノヒボコ伝説【あめのひぼこでんせつ】

地がため地蔵
出石神社
出石神社(豊岡市)
・豊岡市出石町宮内
但馬開発の祖・アメノヒボコを祀る神社。但馬国一宮であり、「いっきゅうさん」の愛称で親しまれています。

 

但馬一宮・出石神社に祀られるアメノヒボコ
但馬を開拓したと伝わる土木の神様

昔、新羅の国の王子、アメノヒボコをのせた船が但馬の国、気比の村に流れ着きました。アメノヒボコは来日山へ登り、山すそに広がる沼地の奥に緑美しい村をみつけます。そこは出石という村でした。
出石の大村長ふとみみはアメノヒボコ一行を温かく迎え入れ、田や畑を分け与え、一緒に楽しく暮らし始めました。
ある日、雨の季節がやってきて、あたり一面泥の海となり、人も家も流されてしまいました。雨があがっても、なかなか水が引かず、村人たちは大変苦労していました。
その様子をみたアメノヒボコは、どうにかならないものかと考えます。「瀬戸の大岩を切り開いて、沼地の水を海へ流せばよいのだ」とひらめきました。
アメノヒボコはふとみみに相談し、村人たちの協力のもと、みんなが力を合わせ、谷をつくり、水をせき止め、木を切り、根を掘り起こし、土を運び、出てきた岩を割っていきました。そして、最後の大岩にとりかかりましたが、なかなか割れず嵐がやってきました。やっと岩が割れましたが、嵐のため沼は泡立ち、水がふくれ上がっています。「せきを切るぞ!」アメノヒボコの声に合わせて、せきが切られると、音を立てて沼の泥水が海へと流れ出しました。すると、大地が顔を出し人々は手をとりあって喜んだそうです。
アメノヒボコは国つくりの神様・土木の神様として出石神社に祀られています。

2014/08/16  

黒田官兵衛・豊臣秀吉ゆかりの地めぐり【くろだかんべい・とよとみひでよしゆかりのちめぐり】

 

黒田官兵衛・豊臣秀吉ゆかりの地めぐり
【くろだかんべい・とよとみひでよしゆかりのちめぐり】

史跡生野銀山
竹田城跡
(写真提供:吉田利栄)


八木城跡


出石城跡


出石皿そば


豊岡陣屋跡
(豊岡図書館)


カバンストリート
カバンステーション


御殿山公園
(村岡藩陣屋跡)


法雲寺・山名蔵


城山園地(芦屋城址)

●関連情報
2014年大河ドラマ

●NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』
豊臣秀吉の軍師として、天下取りを支えた戦国武将・黒田官兵衛。織田信長より中国攻めの総大将に任命された秀吉にとって、中国の雄・毛利氏と対峙する上で、但馬・播磨の諸将を抑えることは非常に重要なことでした。秀吉は2度但馬攻めを行い、その際には官兵衛も活躍したとされます。その後、但馬を治めた秀吉は、出石城に前野氏、豊岡城に宮部氏、竹田城に赤松氏、八木城に別所氏といった信任の厚い家臣を配置しました。現在もこれらの4城には城跡とともに城下町の風情が残っています。秀吉を助けた天才軍師「黒田官兵衛」
 天文15年(1546)、姫路城で黒田職隆の嫡男として生まれた黒田官兵衛。父・職隆は播磨国で力を持っていた御着城主・小寺政職の家老として仕え、官兵衛も16歳の時に政職の小性として出仕しました。若くして信任を得て、後に家督と家老職を継ぎ、姫路城代として小寺氏を支えました。
天正3年(1575)、織田方につくか、毛利方につくかで悩んだ政職に対して、織田につくよう説得。岐阜城で織田信長に会うと、中国攻めを進言しました。この際に秀吉と運命の出会いを果たし、鳥取城の兵糧攻めや備中高松城の水攻めなど、中国の雄・毛利勢との戦いで数々の功績を挙げました。
二人の運命を変えたのは、明智光秀による「本能寺の変」。主君・信長が討たれたことに泣き叫ぶ秀吉に対し、「御運が開けましたな」と言って、すぐに光秀を討って天下を取ることを進言したと言われています。
中国大返しを指揮し、山崎の戦いで見事、光秀を打ち破った秀吉と官兵衛。官兵衛はその後も側近として仕え、秀吉の天下統一に大きく貢献しました。

●官兵衛・秀吉ゆかりの地

竹田城跡・史跡生野銀山【朝来市】
 天空の城として有名な竹田城跡。大河ドラマ『軍師官兵衛』のオープニングタイトルバック、第一話にも登場し、ロケが行われました。竹田城下町には古民家を改装したカフェやレストランもあり、まち歩きに最適です。
天正5年(1577)の竹田城の戦いでは官兵衛も城攻めに加わったとされています。特に竹田城主が管轄してきた生野銀山は財源を確保する上で重要な場所で、この銀山確保を最初に進言したのは官兵衛であると言われています。史跡生野銀山は現在、観光坑道として一般公開されており、明治以降の近代的な坑道と江戸時代以前の手掘りの跡を同時に見学することができます。

八木城跡【養父市】
 但馬の代表的な山城遺構で、今も石垣・曲輪などの城跡が残っています。山名四天王の1人・八木氏が代々城主を務め、秀吉による但馬攻めによって落城しました。その後は秀吉の家臣である別所氏が治めました。
また、旧城下町には元々旅館だった建物を改装した「八木城交流館」があり、八木城について地元の人と語り合えます。

出石城跡と城下町出石【豊岡市】
 但馬守護・山名氏の本拠であり、秀吉による但馬攻めによって山城であった有子山城は落城しました。その後、弟の秀長が城主になるなど、但馬を治める重要拠点とされました。江戸時代に入ると、小出氏が治め、不便である山城は廃され、ふもとに出石城が築かれました。現在は城郭を残すのみとなっており、春は桜、秋には紅葉のスポットとしてシーズンには観光客で賑わいます。
また、江戸時代、5万8千石の城下町として栄えた町は但馬の小京都と言われ、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。町内には40以上のそば店があり、5枚の小皿に盛られた「出石皿そば」が名物となっています。

豊岡城址(神武山公園)と城下町【豊岡市】
 豊岡市街地の中央に位置する桜の名所、神武山公園。ここはかつての豊岡城の本丸跡であり、山頂からは市街地が一望できます。官兵衛とともに秀吉を支えた有力家臣・宮部継潤(善祥坊)が治め、この際に「豊岡」と改名されました。善政をしいたとされ、市内の御霊神社は継潤を祀っています。
武家屋敷があった京町には古民家が残り、大石内蔵助の妻・りくは、豊岡藩の家老・石束家の出身で、生家跡の脇に生誕碑が建立されています。近くの宵田通りは「カバンストリート」と呼ばれ、地場産品であるカバンを販売するお店があります。

村岡藩陣屋跡(御殿山公園)と城下町【香美町】
 七美五郷の中心地として栄えた香美町村岡区。江戸時代、村岡を治めた山名氏の初代・豊国は名門山名氏の末裔であり、晩年は秀吉の御伽衆(相談役)を務めました。陣屋跡である「御殿山公園」は緑のきれいな散策コースとして整備され、桜・紅葉のスポットです。周辺には城主の妻が生活した奥方部屋や歴代藩主の墓所が残っています。城下町にある「法雲寺」は山名氏の菩提寺であり、境内の史料館「山名蔵(有料)」には、山名氏ゆかりの武具や書画などを展示しています。

芦屋城址(城山園地)【新温泉町】
 官兵衛が活躍した鳥取城攻めの際に敵対した「塩治周防守」の居城であったのがこの「芦屋城」です。別名を「亀ヶ城」と呼び、日本海を眼前に断崖絶壁に囲まれた城は、天然の要害となっています。現在は城山園地として日本海が一望できる公園として整備されています。桜の名所としても名高い場所で、ここから見渡す景色は昼間はもちろんのこと、夕方は日本海に沈む夕日が格別。恋人の聖地にも選定されていて、デートスポットとなっています。


●散策モデルコース

●官兵衛・秀吉ゆかりの地マップ

 

2014/08/11  

平家伝承ゆかりの地【へいけでんしょうゆかりのち】

 

平家伝承ゆかりの地【へいけでんしょうゆかりのち】

百手の儀式(御崎)
平家蕪(御崎)
白山神社(気比)
弁天公園(城崎温泉)


田久日の供養塔
田久日地区


三尾大島(三尾)
八柱神社(三尾)


姫ケ淵(横行)
横行渓谷の入り口にある湧き水(横行)


黒川ダム(黒川)
屏風神社(黒川)

●関連情報
香美町平家の落人伝説


●但馬に伝わる平家の伝承をたどる

香美町香住区余部(御崎)
 但馬の中でも色濃く平家の伝承を伝える香美町の御崎地区。壇ノ浦の戦いに敗れた、平清盛の異母弟である門脇宰相教盛を大将とする7人がこの地にたどり着いたとされます。山中から立ち上る一条の炊煙をたよりに崖をよじ登り、そこで出会った高野聖に土着を勧められた一行が、この地に身を置いたというのが村の始まり。毎年1月28日には、地区内の平内神社で、平家再興を願う神事「百手の儀式」が行われます。門脇、伊賀、矢引の武士に扮した3人の少年が、的に目がけて101本の矢を射ます。
平内神社の脇には平教盛(門脇宰相)の供養碑が佇んでいます。また、息子の嫁である小宰相の局と孫の道家の供養塔もあります。漂着した平家一行の家柄は、門脇家・伊賀家・矢引家と、今でも代々御崎地区に伝わっています。
また、春先に集落一面を黄色に染める蕪の花も、平家の伝承が残っています。この蕪は「平家蕪」と呼ばれ、なぜか御崎地区だけに咲き誇ります。伝承では食糧に窮した門脇宰相の一族が、神に祈願をしたところ、この蕪に恵まれるようになったと伝わります。地元では主に葉と茎の部分を漬物にして食します。日本海と黄色の花びらが相まって絶好の写真スポットであり、シーズンはカメラマンで賑わいます。豊岡市気比・城崎温泉
 遠浅の砂浜が続く豊岡市の気比の浜。夏は海水浴、冬は対岸に位置する津居山港で揚がる「松葉がに」を目当てにたくさんの観光客で賑わいます。この風光明媚な里は、平家の侍大将であった平盛嗣が源氏の追っ手から身を隠したと伝わる場所。『平家物語』では越中次郎兵衛の通称で知られ、豪勇を讃えられる名将です。平家の家臣として、源氏との幾多の戦いに参戦しました。
しかし、壇ノ浦の戦いで敗れた後、この気比の地に逃れてきたといいます。この地を治めていた宮代将監(気比)道弘の家に、馬飼の下男として住むこととなりました。その後、道弘の娘である絹巻姫と結婚。平穏な日々を暮らしていた盛嗣ですが、やがて源氏の追っ手に見つかり、鎌倉にいる源頼朝の元へ護送されることになりました。盛嗣は頼朝の前でも屈せず堂々と自説を述べ、気骨のある平家武者として最後を遂げたといいます。地元の白山神社には、盛嗣の死を嘆いた絹巻姫が建立したと伝わる供養塔が残っています。
また、名湯「城崎温泉」に中心にある弁天公園にも供養塔があり、盛嗣も戦いの傷を癒すため、湯治に訪れたのかもしれません。

豊岡市竹野町田久日
 豊岡市竹野町田久日はかつて陸の孤島と呼ばれ、昭和40年に但馬海岸道路が開通するまで、船で移動するか、海岸沿いの険しい山道をつたわないと訪れることができない場所でした。平家伝承が残る海辺の村として、隣村の宇日地区ともに知られています。
平家の侍大将である「藤原景清(悪七兵衛)」と、「平盛嗣(越中次郎兵衛)」が但馬で最初に落ち延びた場所といい伝えられています。『平家物語』ではともに、豪勇として描かれている二人。地区内の高台にある公民館の脇には、その功績を讃える供養塔(碑)が残されています。村はずれには「舟隠し岩」や、武具や兵器を隠したといわれる石窟場所もあります。
また、大正の始めまで、同じ平家の里である香美町御崎地区とは、大晦日にのろしを上げあって互いの無事を確かめ合っていたともいいます。

新温泉町三尾
 眼前には三尾大島が優雅に浮かぶ新温泉町三尾地区。香美町の御崎地区と林道で結ばれ、平家の隠れ里ともいわれています。集落のシンボルである「三尾大島」は、周囲が約800メートルもある小島。頂上付近には厳島神社が祀られていることから、先祖は平家と関係があったのではないかと推測されています。そのことを示すかのように、氏神である八柱神社の例祭には、平家の旗印でもある赤いのぼり旗を掲げます。
「御火浦」というどことなくロマンチックな地名。名前の由来は、その昔、神功皇后が朝鮮半島へ出兵した際の出来事が始まりといわれています。三尾の日和山で漁師が焚いたかがり火が見えて、難を逃れた皇后は、そのお礼として「御火浦」という名を授けたとされます。その後度々、大火に見舞われたため、元の「三尾浦」に戻ったと伝わります。

養父市大屋町横行
 養父市大屋町栗ノ下から氷ノ山に登るコースにある横行渓谷はヤマメの泳ぐ美しい谷です。10~11月頃の秋には、ブナ原生林の紅葉が美しく、周辺の山々が紅や黄色に色づきます。この美しい渓谷には、ある平家一門の姫の悲しい物語が伝承されています。
由緒ある平家の姫とその家臣一行は、播磨の国から峠を越えて渓谷沿いを逃れている道中、この横行渓谷に辿り着きました。岩盤の丘に「平家ケ城」を築き、源氏の追っ手から身を隠します。平家ケ城から約1キロほど下った場所に、「見手ケ城」があります。ここに見張りをおき、旗を立てていました。その旗が倒れると敵の源氏が攻めてきた合図。しかし、台風のために旗が倒れ、城にいたお姫様は、敵に攻められたと思い、城の下を流れる渓谷に身を投げたといいます。この場所は「姫ケ淵」と呼ばれ、お姫様の悲話を今に伝えています。
生き残った6人の家臣は平家の家名を後世に伝えるため、横行地区に住んだといわれ、集落では、その場所を「六軒屋敷」と呼んでいます。

朝来市生野町黒川
 瀬戸内海に注ぐ市川の源流、朝来市生野町黒川。国道429号沿いを流れる源流部は「黒川渓谷」と呼ばれ、秋は紅葉の名所です。大きく屈曲した川筋は奇岩が多く、独特の渓谷美をみせます。
黒川には平家の落人伝承が伝わる地名が残っています。市道・長野線沿いにある「ホソビラの平家塚」は、かつて平家の武者が住みついたが、流行病により没落したと伝わります。塚のそばにある榎の根元からは、錆びた刀が大量に出土しました。他にも直谷渓谷の奥には「平家墓」「平家の屋敷跡」といわれる場所もあり、屋敷跡に黄金の鶏を埋めたという伝承も残っています。
平家塚から国道を東へ進むと、屏風のようにそり立つ巨岩が見えます。その昔、この地に疫病が流行しましたが、ここから上流だけは被害がなかったといいます。以来、御神体として祀られています。ここからさらに奥に進めば、黒川の本村に到着。高さ98メートルの黒川ダムや美人湯で知られる黒川温泉があります。

2014/08/11  

川崎尚之助ゆかりの地めぐり【かわさきしょうのすけゆかりのちめぐり】

 

川崎尚之助ゆかりの地めぐり
【かわさきしょうのすけゆかりのちめぐり】

願成寺
川崎尚之助供養碑


宗鏡寺


出石城跡


出石皿そば

●関連情報
2013年大河ドラマ
「八重の桜」公式サイト


●NHK大河ドラマ『八重の桜』
山本八重の最初の夫、豊岡市出石町出身「川崎尚之助」

生い立ち
 天保7年(1836)に出石の本町に住む川崎才兵衛の子として生まれました。19歳の頃、江戸の大木仲益(後の坪井為春)などの高名な塾で蘭学や舎密学を学び、その頃に会津藩士で八重の兄でもある山本覚馬と出会いました。尚之助が、若くして洋式銃や兵法書の翻訳などに通じていたことが、会津藩砲術指南の跡取りだった覚馬の目にとまったのでしょう。
こうした縁あって尚之助は、会津に招聘されるごとく、山本家の居候として八重の実家で暮らし始めます。藩校の日新館で蘭学を教授し、銃器・弾丸の製造指導にも知識を発揮したようです。そして慶応元年(1865)尚之助が29歳の時、八重(当時21歳)と結婚しました。
●尚之助ゆかりの地

願成寺(がんじょうじ)
 川崎家の菩提寺で、山名氏創建であると伝えられています。由緒ある山門は江戸時代のもので、市の文化財に指定されています。
明治10年代に記された墓石明細簿には、尚之助と同じ没年月日の戒名が確認できます。墓地の所有者は、川崎才兵衛の息子川崎渉一。同じ墓域に才兵衛の墓もありました。戸籍をたどってもほかに該当者がいないことなどから、歴史研究家あさくらゆうさんは「郷里を離れて死んだ尚之助を弔ったとみて、ほぼ間違いないだろう」としています。
現在、墓石は残っていませんが、2013年に地元有志によって山門前に供養碑が建てられています。

宗鏡寺(すきょうじ)
 中世の大名、山名氏の創建で、出石藩主の菩提寺。荒廃していたお寺を元和2年(1616)に沢庵和尚が再興したことから沢庵寺とも呼ばれています。敷地には山名、小出、仙石家、そして沢庵和尚の墓碑があり、県指定文化財の庭園(沢庵和尚作)も備えています。江戸時代に川崎家はこの寺院に灯篭を寄贈しています。

川崎尚之助生家跡
 川崎家は文政末期(1830以前)には、この地に居宅があったことが確認されています。明治9年(1876)の大火により一度は焼失していますが、川崎渉一によって再建され、明治25年(1892)までこの家に住んでいました。建物は当時のもので、現在は化粧品店になっています。

出石城跡
 出石藩仙石家の居城。実際に藩主もこの地に居住しており、幕末維新期には川崎家も登城していました。
現在は城郭を残すのみとなっており、春は桜、秋には紅葉のスポットとしてシーズンには観光客で賑わいます。


●散策モデルコース

●出石散策マップ

 

2013/10/29  

豊岡復興建築群【とよおかふっこうけんちくぐん

 

豊岡復興建築群【とよおかふっこうけんちくぐん
豊岡市役所
豊岡市役所本庁舎

トヨオカ自動車店
トヨオカ自動車店

豊岡復興建築群

・豊岡市
・近代化遺産

●北但大震災から復興したモダンストリート
旧豊岡市の中心である「大開通り」や「宵田通り」には、1925年(大正14)5月の北但大震災後に復興した建物が数多く残っています。「豊岡復興建築群」とは、震災後の昭和初期に建てられた鉄筋コンクリート造り の建物群のことをいい、但馬の近代遺産として注目されています。
震災後に起きた火災を教訓に防火帯を設けるべく、防火建築の促進を目的とした補助制度が創設され、大開通りを中心に48棟が建設されました。現在でも43件が当時のまま残っており、震災後の数年間にできた建物が、一部の地域にこれだけ集中しているのは、全国的にも珍しいといえます。
豊岡市役所本庁舎、南庁舎(元郵便局)、南庁舎別館(元銀行)などは著名な建築家が手がけており、随所に印象的な装飾が施されています。
大開通り東側にあるトヨオカ自動車店は、ひときわ目立つ斬新な建物で、屋根には2階建てでありながら、より大きくみえるように王冠のような壁が立ちあがっています。市役所から東側に少し離れた通りに面している三戸一の共同ビルは、一軒一軒の窓のデザインが違うモダンアートな建物。

このほかにもレリーフを掲げた建物、玄関両サイドに柱をそなえた和洋折衷の建物など、街を歩けばいくつも発見できます。